妖霊 壱
この小説にアクセスしていただけている方がいると思うと、やる気が出ます。ありがとうございます。
狐の騒動から二週間程度が過ぎていた。
雄座はあれから、人を護りし化け狐の物語を執筆していた。本来、忌み嫌われる化け狐であるが、悪しき化け狐を打ち倒す正しき化け狐の物語。
何となくであるが、雄座にしてみれば、あの空狐の、和代を救った神の存在を、静かに消えていったあの空狐の存在を他の者にも知ってもらいたい。そんな気になっていた。過去数千年もこの地を守ってきた存在を、この地に住む者がせめてその存在を知る事が、せめてもの供養になるやも、そんな想いがあった。
ここ連日、雄座は寝る間も惜しんで書き続けた。あの夜の事そのままではないものの、良き空狐の物語。狐憑きや妖狐の様な今まで描かれていた恐ろしいものではなく、悪しき妖怪から人々を守る妖狐の物語。そしてその物語が出来上がったのは夜も明けようという時であった。辺りは真夜中であり僅かに聞こえる虫の音が心地良い。雄座は机に向かう体をそのまま後ろに倒し、そのまま眠りについた。
目を覚ましたのは既に午後二時を回っていた。連日の睡眠不足からか、目を覚ましても頭が働かない。しかし、あの夜のことが頭から離れなかった。
恐ろしい野狐。
神である天狐。
天狐により生き返った和代。
古き物語の中に自分が入ったような夜であった。今の寝ぼけた頭では、あの夜が現実に目の前で起こった出来事なのに夢うつつのようでもある。
ゆっくりと体を起こすと、ぱんっと両頬を叩いた。
「まずは月丸に読んでもらおう。」
ふとそう考え、雄座は身を整えるために立ち上がった。障子を開け放つと、暑さは残るものの、涼しげな風を感じる。間もなく夏も終わろうとしていた。
雄座が自宅を出る頃には、既に午後四時に近かった。懐中時計を見ると、一言呟いた。
「月丸のところに着くのは六時近いな。酒と肴でも買ってゆくか。」
いつものように乗合自動車も路面電車も使わず、てふてふと銀座まで歩いた。途中、ふと、社から出ていないという月丸の言葉を思い出し、珍しい食べ物でも買って喜ばせてやろうと考えた。以前新聞社に行った時にご馳走になった最近評判の「ワッフル」という洋菓子がとても美味しかった。折角なのでワッフルを土産にでも持って行ってやろうと百貨店へと足を向けた。
あまり懐具合の宜しくない雄座は、普段は百貨店に来ることがない。そのため、多くの売り場から目的の洋菓子店を探して店内をウロウロしていた。やっとの事で目的の洋菓子店を見つけるが、流石は甘味の店である。店内は目新しく甘いもの好きな若い婦女子ばかりで、流石に入るのを躊躇った。どうするかと思案していると、一人の若い婦女子が声を掛けてきた。
「もし、ワッフルを買いに来られたのでしょう?」
驚く雄座にニコニコとした表情を向ける。年の頃は十六、七歳で洋服に身を包み、髪も洋風のおかっぱ(ボブカット)の見目も愛らしい婦女子が立っている。目は大きく、長い睫毛がその存在感を引き立て、紅を差した唇とともに愛らしさを強調する。
雄座は見知らぬ婦女子と陽気に語らうという最近の男子のような器用なことができない。娘の問いに何の飾りもなく答える。
「ええ。そうは思ったものの、こうもご婦人ばかりでは些か入り辛く、どうしたものかと思案していたところです。」
その言葉に娘は雄座越しに洋菓子店に目をやる。僅かに男性客もいるようだが、女性の連れや夫婦で来ている者のようである。娘は再度雄座に笑顔を向ける。
「では、旦那さん。私にもご馳走してくださいな。お店にご一緒します。」
雄座が娘の言うことを理解する前に、娘は雄座の袖を引いて洋菓子店へと入った。
「いらっしゃいませ。こちらのテーブルにお掛けください。」
洋菓子店らしく、洋風の服を纏った女中からテーブルに案内される雄座と娘。雄座の頭には何故今こうなっているかを考えるのに必死であった。
席に座ると、さも当然のように娘が女中に注文している。
「旦那さんにコーヒーを。私はお紅茶を頂こうかしら。それと評判のワッフルをお願いするわ。そう。旦那さんと私の……。」
注文を受け、女中が戻って行くのを見届けると、雄座は娘を見ながらため息をこぼす。
「一体、どうなったらこのような状況になるのやら……。見知らぬ男を連れるのはあまり感心しないな。」
雄座の言葉に娘は笑う。
「ふふ。だって、あんなに店の中を見続けて、悩んでる姿を見たら、誰だって入りたくとも入られないのだろうと分かるわよ。評判のワッフルを食べたくても入り辛いって。だから助けてあげようと思ったの。」
娘の言葉に雄座は自分の先程までの姿を想像し、照れ隠しに視線を逸らした。そんな雄座を眺めながら、構わず娘が続ける。
「それに、私みたいな可愛らしい娘と甘味を食すなんて、中々できるものではなくてよ。感謝してもらわなきゃ。」
目を逸らしながら話を聞いている雄座の視界に、周りの婦女子がチラチラとこちらを見ているのに気が付いた。
「可愛らしい洋服ね。どこで売っているのかしら。」
「あんな可愛らしい子が着ているから似合うのよ。きっとどこかのご令嬢よね。」
うすらとそんな声が聞こえてくる。
はぁっとため息をついて、雄座が娘を向いた。
「まぁ、入り辛かったのは確かだ。きっかけを俺にくれたことは素直に感謝しよう。だが、貴女みたいな華族の娘が俺みたいな貧乏人と一緒に居るのもあまりよろしくないのではないか?」
まだ洋服姿の婦女子は多くいるが、髪型などは和服を着る時に結い上げるために長くしておくことが多い。髪も洒落たおかっぱ(ボブ)にして洋装に身を包んでいるような婦女子は、得てして高位の爵位を持つ華族の娘であろうと容易に想像がつく。
そんな娘が変な男と目立つ店で一緒に居ては変な噂が立つかもと思っての雄座の言葉であったが、娘は気にした素振りはない。
「お待たせいたしました。」
女中が注文の品を運んで二人の前に並べた。娘は女中に礼を言うと、
「さぁ、いただきましょう。」
そう言うとナイフとフォークを手に取り、ワッフルにフォークを刺してナイフで一口大に切りながら、思い出したように雄座に言う。
「あ、そうそう、私の名前はあやめ。そう呼んで下さいな。」
「……。神宮寺雄座だ。俺も雄座と呼んでくれれば良い。」
姓を名乗らないのはやはりどこかの華族の娘であるからだろうと思い、雄座はそれ以上聞くことはない。コーヒーを一口含み、とりあえずこの現状を諦めて、ワッフルを食べることにした。
ナイフを動かしながら娘が雄座に問いかけた。
「ねぇ。雄座って何者なの?」
特に何気もない会話であり、雄座も何も意識せずに答える。
「ああ、物書きをしている。まだそれほど売れては居ないがね。」
そう言いながら口にワッフルを放り込む。団子や饅頭とはまた違う食感で、上に乗っているクリームとシロップが甘みを強調している。雄座としては、「成る程婦女子に人気が出るはずだ。」などと考えながら味わっている。
「そうじゃなくて。貴方の普段の生活なんて聞いてないわよ。何者かって聞いてるの。」
雄座の言葉を冗談と捉えたのだろう。あやめは苦笑いを浮かべながら、再度雄座に聞き直した。
当の雄座といえば、何者と言われても、今は物書きが生業であるため、それ以外答えようがない。あやめの質問の意味が分からず思慮していると、あやめが紅茶を一口含み言葉を続けた。
「大丈夫、安心して。私には分かっているから。でも雄座があまりにも見事に人間に化けているから、雄座が何が類の妖怪なのかを知りたいだけよ。」
そう言うとあやめは雄座を安心させるつもりか、笑顔を向けた。その笑顔のあやめを前に、雄座は「はぁ?」と間の抜けた声を上げるしかなかった。