月丸 肆
御所に入ると、安土は吉房達が帝に会うためにやる事が有ると言って別れた。御所に仕える者に案内され、着替えるようにと一室に通された。
木目を合わせ美しく敷かれた板の間に、奥には畳が敷かれている。そこには手を付き、頭を下げる女が居た。
「お着替えをお手伝いさせて戴きます。」
そう言うと女はそそくさと立ち上がり、月丸の背を押し畳に上げた。
「さぁ、吉房殿も。お召しを…」
侍者の言葉を遮る吉房。
「儂はそんな堅苦しい格好はせん。唯の宿無しじゃ。上辺の格好など、変えんでも良い。」
吉房の言葉に、月丸も女に言う。
「じゃあ俺も…」
「折角、手伝いまで来てもろうておるのだ。月丸は着替えておれ。何事も経験じゃ。」
吉房は月丸の言葉を遮り言うと、かか、と笑って部屋を出た。
「吉房様は相変わらずでございますね。」
女がくすりと笑って言う。
「お師様を知っているのか?」
月丸の問いに、女が応える。
「都の貧しい者で、あの方を知らぬ者はおりません。大なり小なり、助けられておりますので。」
女の話では、帝直々に陰陽寮に招かれた事もあるらしい。しかも、それを反故にして野に残ったという。帝には何人もの陰陽師が居るが、野で困る者を助けるのは吉房だけ。そう言ってのけたらしい。
お陰で、病となれば吉房が薬を持ってやって来る。鬼が現れれば吉房が祓ってくれる。金も取らねば、礼にと財産を渡そうとしても断る吉房は、特に貧しき者にとっては、神とも仏とも思える存在であるという。
「私も、幼い時に病で最早死を覚悟した事がありましたが、吉房様にお助けいただけました。本当に、お優しい方です。」
八百万の神達の力を借り受け、人ながらに妖霊である自分の術を打ち消した我が師が、かように慕われている事に、月丸も嬉しくなった。
「そうか。お師様はいい奴だもんな。俺も好きだぞ。」
そうこうしている間に、月丸はすっかりと浅葱色の小狩衣を纏い、髪は梳かされ、艶を戻した髪を後ろでまとめられた公家童子の様な格好になっていた。
からりと戸を開けると、縁に腰をかけた吉房が振り返る。月丸の姿を見て、声高に笑った。
「がはは。よく似合っておるではないか。まるで何処かの公家の子の様だ。すっかりと上品になりおったわい。」
笑われてはいるが、吉房の目はまるで自分の家族でも見るかの様に優しい。自然と月丸の頬も緩む。
「御所を妖霊が歩くんじゃ。せめて怖がらせぬ様にせねばな。なんと言っても此処には妖怪を嫌う陰陽師どもがうろうろしておるからな。」
そう言うと、吉房はひとしきり声高に笑うと、ふう、と一息溢し、月丸に言う。
「のう。月丸や。儂はお前が、妖霊が人と何ら変わらぬと思うておる。じゃが、お前を知らぬ者は、妖霊というだけで敵となるのじゃ。何も知らぬとな。愚かなことよ。」
そう言うと吉房は足元から葉を一枚、拾い上げると、口元に寄せてぼそぼそと呟く。ふうっと息を吹きかけ葉を飛ばすと、その葉はみるみる姿を変え、一匹の蜂となった。旅の途中、少しづつではあるが、吉房より陰陽術を学んでいた月丸には、それが式神である事が理解できた。
蜂は羽音を立てて少し離れた庭木の裏へと飛んで行く。
「あなや!」
庭木の影から一人の男が蜂に襲われ飛び出し逃げて行く。月丸はそれを呆然と見ながら、目線を動かせぬまま、吉房に尋ねた。
「何?今の…。」
僅かに乾いた笑いを浮かべ、吉房が答えた。
「陰陽寮の陰陽師じゃ。月丸の気配を感じ取り、警戒しておるのじゃろう。見張っておるだけで何もできぬが、こそこそ見られるのは不愉快じゃでな。」
月丸は、ふーん、と返すと、すくりと地面に立ち、吉房と同じように葉を拾った。手に置き、呪を唱えると、ふう、と葉を飛ばす。先程の吉房同様に葉は虫へと姿を変えて、どこへともなく飛んでいった。
「お師様。俺もできた。あ、でも、多分妖術が混ざったかもな。」
吉房は月丸の言葉に、こくこくと頷く。
「ほう。自分で気付いたか。お前の陰陽術では今のは失敗するはずであった。式神は物に仮初の魂を注ぐ。それを失敗すれば、術者に災いをもたらす。お前は無意識に、失敗を妖術で押さえ込んだのじゃろう。」
寧ろ、妖霊ほどの力を持つ者が、態々力を削ぐ陰陽術など使う必要はない。だが、月丸にとって、吉房の教える陰陽術は面白かった。ただの人でありながら、神の力を借り受け、妖霊とも渡り合える術。それを徐々にではあるが、使える様になるのは、月丸にとって楽しいと思える様になっていた。
先程の様な式神は、その名の通り、神を宿す術。誤った使い方では、神の怒りを買い、術者自身を破滅に導く。月丸はその誤りを、自らの元々の妖力によって自然とねじ伏せていた。月丸自身はそれを失敗したと思う。しかしそれは誤ろうとも術を使いこなす事ができるという事である。
押さえ込んだことを褒めたつもりでいた吉房であったが、吉房と同じ事が出来なかった事が、月丸には残念に思えた。
「まだまだ稽古しないとな。妖力は使わなくても、術を使える様になりたいし。」
ふう、とため息をこぼす月丸の頭を、吉房はがしがしと撫でた。
「まあ、焦ることはないわ。本来式神を現わすことなど、早々出来るものでもないのだしな。お前は並の陰陽師よりは才能があるんじゃのう。」
そうこうしていると、背後から駆けて来る足音が聞こえ、二人は振り返る。見ると、安土が息を切らせながら戻ってきた。
「吉房様!帝への御目通りが叶いました。言われたとおり、吉房様のお名を出しましたら、直ぐに参じる様にと…。」
こうして月丸は吉房と共に帝との謁見に臨むこととなった。すず達の安寧の為に、祈りを捧げてくれている、そしてあの大路に座る子供達を助けてくれるであろう神の血筋を持つ者。
月丸の期待が高まる。
通された間は、床全面に畳が貼られ、横の襖には、細かい彫刻が彫られ、皺なく美しい模様の入った紙が張られている。面前には、簾がかかり、奥はあまり見えない。
正座に座る安土と、胡座に座る吉房。その隣に月丸はちょこんと正座した。やがて、吉房から、
「儂の真似をせい。」
そう言われた。吉房が頭を軽く下げると、月丸も言われたとおり頭を下げた。
「良い。面をあげよ。息災かえ?吉房。」
頭を下げた途端、何処からか声が聞こえた。その声に吉房が頭を下げたまま応える。
「お久しぶりでございます。光厳様もお変わりなきご様子。」
「あなや。硬い挨拶は要らぬ。吉房よ。我が元にて勤めてくれる気になったか?噂では、今の世の元凶とも言うべきあの妖霊を打ち破り、使いとしたと聞いたが、その者がその妖霊か?」
「打ち破ってなどおりませぬ。それに妖霊が元凶でもありませぬ。此奴は月丸と申します。妖霊ではありますが、今や儂の子の様なものでございます。」
「はても。妖霊の邪気はこの国に禍をもたらすと言う。現に後醍醐も狂い、各地では戦ばかり。六波羅も足利によって滅ぼされ、この世の末を見る様であった。これも、妖霊が在る故。だが、流石は吉房よ。妖霊を手懐けるとは。その力を持って参じてくれたならば、後醍醐の企みもこれまでというもの。」
「儂は願いがあって参りました。人の争いに、妖霊の力を借りる訳には参りませぬ。」
「ふむ。まぁ、良い。これよりはその力を存分に我の為に使うてくれ。」
「帝のお力で、この禍の世を清めて頂きたくお願いに参りましただけ。儂の力など、不要にございます。」
「不要なものか。我が力など、後醍醐の策略に踊らされる始末。吉房ならば呪で、後醍醐を葬り去ることもできよう。妖霊を抱え込み、後醍醐さえ居らねば、世は平和となるのだ。力を貸せ。」
「今の世の禍は、権力を欲する者達が生み出したもの。帝はその様な者達に操られておるのですぞ。どうか、お目をお覚ましくだされ。」
帝と吉房の言葉をじっと聞いていた月丸。帝の気配は、流石に神の子孫だけあり、その気配に気押される。しかし、発する言葉には何の力も宿っていない。自らの願いや心の内を発するのではなく、吉房の言うとおり、発する言葉すらも操られている様であった。
月丸は我慢ができなくなり、遂に声を上げる。
「なぁ。通りには腹を空かせた沢山の人が倒れてるんだ。沢山の人が病で苦しんでるんだ。人同士で戦ってるより、あの人達を、あの子達を助けてやってくれ。」
安土が驚いた様にびくりと肩を震わした。この場では、帝が許さねば言葉を発することはできない。
「無礼ぞ。童!」
後ろに控える近侍が叫び、太刀を抜く音が聞こえる。安土は頭を下げたまま、震えるしかないが、月丸も吉房も構う様子はない。
帝の声。
「妖霊。ならば其方が後醍醐を討つが良い。ならば世にも平安が戻ろう。さすれば、その様な者達も健やかに過ごせるのではないか?」
その言葉に吉房が声を高めた。
「馬鹿な。この様な世を作りしは、権力争いの末ではないか!人の世の始末を月丸にさせてはならぬ!どうか、民のため、この国の為にも、今一度、申します!お目をお覚ましくだされ!」
吉房の祈りにも似た言葉。帝が返す。
「目は覚めておる。我は帝として、この国に平安をもたらす為に事をなしておる。吉房よ。我為にならぬのならば、命ずる。後醍醐にも手を貸してはならぬ。良いな。」
簾の向こうで、帝が立ち上がる気配。話は終わりと言わぬばかりに、立ち去ろうとしている。
月丸はたまらず声を掛けた。
「神の末裔なんだろ?人を助ける力を持っているんだろう?みんなの為に祈ってるんだろ?何で助けてやらないんだよ!出来るんだろう?」
「重ね重ね無礼ぞ童!」
月丸の後ろより、近侍が怒りの形相で太刀を振り下ろした。
しかしその刃は月丸には届かず、室内に、きいん、と甲高い音だけを響かせた。
その光景を見た帝は、「あなや」と声を高めると、慌てた様に退室した。
隣から僅かに聞こえた吉房の落胆する様な溜息は、月丸の、帝なら救ってくれる。という期待も吹き消した。
 




