月丸と鞍馬天狗 壱
こぷこぷと小気味良い音を鳴らしながら、ビールがグラスに注がれてゆく。黄金の液体がグラスを満たし、シュワシュワと泡を浮かばせる。
満たされたビールはそのまま鞍馬の喉へと流し込まれる。
「うむ。旨い。銀座に来たらビアサロンへは行くと良いなどと、汽車の中で聞いたが、確かにこれは旨い。」
満足そうに笑う鞍馬とは逆に、雄座が驚きの声を上げる。
「鞍馬殿…。伝説の天狗が、汽車で来たのですか?」
うん?と声を漏らすと、笑いながら答える鞍馬。
「がはは。伝説と言うてくれるか。最近は芝居の演目の鞍馬天狗の方がすっかり有名だがな。いや、儂だって、京から東京まで飛んでくるとなると、些かしんどくてな。一等車は中々快適で良かったぞ。」
そう言うと、鞍馬は月丸に向き直ると、静かに語る。
「蒸気機関車もそうだが、市電も自動車も。そしてこの町だ。西洋の文化が入り混じっておる。我が目を疑ごうたわ。人の文化は面白い。」
そう言うと、鞍馬はビールを喉に流し込む。
「そしてこのビールだ。人の創りし文化は面白い。そして旨い。」
月丸はくすりと笑いながら、グラスを口に運ぶ。
「ああ。人は面白い。どんどん世を作り変えてゆく。変わらぬは自分ばかりだな。」
月丸の言葉に鞍馬は笑う。
「本当に貴様は変わらん。背丈は伸びたかも知れんが、その飄々とした態度も、強さもな。」
月丸は意地悪く笑うと、鞍馬に応える。
「お前は変わりすぎだ。すっかり爺さんになった。覆面をとっても鞍馬と気付かぬほどにな。」
笑い合う二人を眺めながら、雄座は隣に座るあやめに訊ねた。
「あやめさん。天狗にとって、妖霊は手を出しちゃいけない相手ではなかったか?一度手を上げれば、一族が滅ぶとか…。」
雄座の言葉に、あやめは頷く。
「ええ。一族にはそう言い伝えられてるけど…。」
あやめも言葉を濁し、月丸と鞍馬を見る。そんな言い伝えが続くほど、仲の悪そうには見えない。それどころか、旧友にでも会ったかのように、お互い気安い。
「あやめさん。その言い伝えって、誰が言い始めたんだろう。」
雄座の言葉に首を傾げ、考えるあやめ。そして、ぱんと手を叩く。
「そもそもお爺様が天狗の祖。お爺様が伝えてますね。」
名を呼ばれ、目尻の下がった鞍馬の顔が、あやめの背から現れる。
「何じゃあやめ。爺じの事を話しておったのか?ん?」
孫が自分の話題を話してくれるのが嬉しいのか、あやめに頬を寄せ訊ねてくる。あやめは両手で鞍馬の顔を遠ざけようと突っ張るが、鞍馬はそんなあやめすら嬉しいらしい。満面の笑みを浮かべている。
「なぁ、月丸。そういえば、あやめさんと初めて会った時、鞍馬殿を知っている風であったな。知り合いだったのか?」
「ああ。昔な。」
あやめに戯れつく鞍馬を他所に、月丸に尋ねる雄座。その問いに月丸が短く返し、グラスを口に運ぶ。その様子に、あまり話したくないのであろうと感じる雄座。だが、そんな月丸に鞍馬が言う。
「何が、『昔な』だ。儂は昨日のことのように覚えておるわ。儂が唯一、敗れたのだ。忘れるものか。」
口では怒ったような素振りを見せるが、鞍馬の目は懐かしむように月丸を見る。
「あれは忘れもせん。儂は山神となり、護法魔王尊と呼ばれた頃じゃ。」
鞍馬は語る。
時は平家の世が滅び、関東は鎌倉に幕府が敷かれた頃。
その頃、鞍馬天狗は鞍馬山にて護法魔王尊として人々に崇められ、そして恐れられていた。
護法魔王尊とは、古より、空に輝く星より人々を救うために降り立った神であり、毘沙門天、千手観音、魔王尊の三仏を称するものであった。白く大きな翼を持ち、彫り深く、まるで仁王の様に恐ろしげな見目を持つ異形でありながら、その強大な力をか弱き人のために力を奮い、地を守るその姿は、いつしか人々から護法魔王尊と同一視されるようになっていた。鞍馬自身も、弱きを守ると言う自身の正義を貫いた先が地の守護者であり、いつしか自身も山神としての力を付けていた。
そんな鞍馬の元に、朝廷より、使いの式神が遣された。
帝の遣いであればこそ、鞍馬は式神を丁重に迎え入れた。その式神の話。
東に妖霊現れし。護法魔王尊のお力で、妖霊を鎮めて欲しいと。
数十年と前、世を平家が治めし時代。この日本が滅せられる危機があった。妖霊と呼ばれる物の怪が、東の地に現れ、人も神も妖怪も、全てを食い尽くしながら京に向かってきた。妖霊は、まるで獣の様に知がなく、欲望のままに暴れた。その妖霊は、この地に在られる神々、数多の妖怪、そして平氏達武家が総がかりで退治したという。
その妖霊が蘇った。先の妖霊との戦いで、名のある地の神は大いに傷を負って動けずに居る。妖怪達はその恐ろしさに隠れるか、力のある者は挑み、返り討ちに遭うか。
当時の平家は残っておらず、また、源頼朝を征夷大将軍に据える源氏もまた、妖霊に対するための力は整ってはいない。
鞍馬も、当時の妖霊の妖気は捕らえていた。そして、京に近づけば討つ気で居たが、その前に数多の神と妖と人の連合の力で何とか退けたため、鞍馬が当時の妖霊と出会うことはなかった。
生きとし生ける者に仇を成す妖霊。大神の血を継ぐ現人神である帝の頼みであり、また、悪妖は討つという自身の正義を成すため、鞍馬はそれを了承する。
反対する一族を押し切り、鞍馬は一人、妖霊退治のために東へと旅立った。無論、負けるつもりはない。現れたばかりの妖霊の妖気は、以前程狂気じみている訳でもなければ大きくもない。
一人でゆくのは、京を護る為の一族を残しておきたかったからである。そして、数十年前、討たれた妖霊が、鞍馬が知る妖霊であるかを確かめたかったからである。そのためには、一人で行くのが良い。単純にそう思ったからである。
辿り着くのに一月も掛からなかった。武蔵野の、誰も寄り付かないような山の中にそれは居た。遠く離れた京からも感じるほどの妖気は、目の前に立つと、恐ろしい程大きい。だが、自分が負けるほどのものではない。
妖霊のその見目は、強大な妖気とは裏腹に、幼い女子の童のようであった。しかし、鮮やかな腰ほどまでに伸びた銀色の髪に、血のように真っ赤な瞳。人離れした美しい顔立ち。その顔に懐かしい面影を感じ、鞍馬はそれが妖霊であることを理解する。
鞍馬が言う。
「我名は鞍馬天狗。お前、妖霊か?」
妖霊はまじまじと鞍馬を見ると、首を傾げた。その表情を見ながら、鞍馬は更に問う。
「…晴明か?」
妖霊は鞍馬の問いに、興味なさそうに答える。
「俺が何者か。俺も知りたい。俺は何故ここにいる?」
安倍晴明と芦屋道満は、鞍馬がその昔出会った妖霊とその友であった。妖霊という不可思議な存在の晴明と、その友が人であるという面白い組み合わせに、鞍馬も興味を持ち、幾度か酒を交わした仲である。数十年前、妖霊が現れたと聞き、晴明が蘇ったと期待したが、それは恐ろしい存在であった。そして今回、再度の期待は裏切られた。
「晴明ではなかったか。」
僅かに消沈するが、すぐに気を取り直す。
「お前が何者かなど知らん。ただ、以前お前と同じ、妖霊という妖が、生きとし者全てを屠らんと暴れた。お前もそうか?」
鞍馬は強い口調で尋ねる。
「そんな事は知らん。訳のわからぬ事を聞くな。お前も消し去るぞ。」
苛立った様に鞍馬に返す妖霊。鞍馬はすらりと太刀を抜く。
「ふん。儂は帝より、貴様の討伐を任じられておる。己が存在を判らぬ内なら、害を成す前に我が剣で打ち滅ぼしてくれよう。」
太刀を構えると同時に、鞍馬の背より、白く大きな翼がばさりと広がった。眉間に皺を寄せ、眉が釣り上がり、背丈大きく、更に翼が広がるその姿は、人が見れば、まさに毘沙門天や、全ての手に武器を持つ千手観音の趣であろう。そしてその気迫は、妖霊を驚かせ、身構えさせる。
「妖霊とはいえ、この様な童を討つのは些か気が引けるが、許せ。」
一言、鞍馬は溢すと、どん、と地を蹴って妖霊へ刹那に間合いを詰め、上段から太刀を振り下ろす。妖霊は横に転げて太刀を躱すと、突き出した両手から、黒い炎がぶわりと吹き出し、鞍馬を襲う。
「ふん!」
鞍馬はその大きな翼を羽ばたかせると、その風で黒い炎を消し去る。直ぐに二太刀目を放つ鞍馬。右袈裟に振り下ろされた太刀を両の手で受け、妖霊は吹き飛んだ。ざりざりと地面を転げ、蹲り唸る妖霊。
妖霊とはいえ、現れて間もない者。力の使い方もわかっていないのであろう。たとえ、以前の強き妖霊であろうと負ける気はしない。ましてや、今の、現れて間もない妖霊など、鞍馬の敵ではない。そう思った。
だが、妖霊は、鞍馬が妖気を込めた太刀を素手で受け止めた。それは、妖霊がやはり並々ならぬ者である事を改めて認識させる。
妖霊は手に受けた太刀の痛みに耐える様に地に丸まって居る。鞍馬は妖霊にゆっくりと歩み寄る。手に持つ太刀を握りしめ、妖気を込めると、太刀からぼわりと白い煙の様な光が立ち昇る。
「せめて苦しまぬ様、消し去ってやる。」
鞍馬が構えた刹那。
ごおおおん
凄まじい音と共に、鞍馬に向かって一筋の雷が落ちた。
ごおおおん
続けて雷光が輝き、轟音を轟かせる。辺りの山々から、雷音が木霊する。そして木霊も消え、辺りに静けさが戻る。妖霊は蹲ったまま、ゆっくりと顔を持ち上げる。
「ふん。これが妖霊の術か。力の使い方も知らぬ癖に、これ程とはな。」
ぶすぶすと衣を焦がしながら、変わらず立っている鞍馬に驚く妖霊。
だが内心鞍馬も驚いていた。無造作に放たれた妖霊の術はあまりにも強大であった。雷を放つ妖など、聞いた事がない。鞍馬の結界を破り、その身を焼いた。二発目を辛うじて躱し、結界を張り直せなければ、鞍馬はやられていたであろう。
鞍馬はそのまま、構えていた太刀を振り下ろす。後ろに転げ、辛うじて太刀を躱す妖霊。躱したところに鞍馬に蹴られ、鞠の様に吹き飛ぶ。
「足掻くな妖霊。お前はこの地に存在しても、不幸なだけだ。お前も、地の全ての者も。」
腹を蹴られ、息が詰まりごほごほと咳込む妖霊。しかし、その目は鞍馬を睨み付ける。
「知るか…。気付いたらこの地に在った…。何でこんな目に遭う…。妖霊とは何なのだ…」
ぶつぶつと呟く妖霊の目に、怒りの色が灯るのを感じる鞍馬。妖霊はゆっくりと立ち上がると、大声を上げた。
「俺は消えん!お前が消えろ!」
叫ぶと同時に、妖霊の右手には黒い焔が立ち上る。その焔は消える事なく、まるで太刀のような形を作る。
妖霊は先程、鞍馬が切り掛かったように、地をどんと蹴ると、焔の太刀を振り上げ鞍馬目掛けた。
ぶん
妖霊の焔を太刀で受け、そのまま弾き返す鞍馬。弾かれ、吹き飛ぶ妖霊。ごろごろと転がると直ぐに立ち上がり、再び焔の太刀を構えて駆け出す。
最上段に構えて突進してくる妖霊に向かって、鞍馬は横薙ぎに太刀を振る。慌てた妖霊は辛うじて焔の太刀で受けるが、再び吹き飛ばされ、地面に伏す。
鞍馬は離れたまま、太刀を右、左と振り下ろすと、刃のような風が巻き起こり、妖霊に向かう。風の刃に驚きながらも、妖霊は起き上がり、横に飛んで逃れようとするが、間に合わず、左足をかすめる。
「痛え!」
妖霊の左の太腿から、真っ赤な血が流れ落ちる。だが、鞍馬は更に風の刃を二刃、三刃と放つ。
「嫌だー!」
刃を受ける事が出来ないと悟った妖霊は、断末の叫びを上げた。その時。
きぃぃぃぃん
甲高い音が辺りに響いた。
その音と同時に妖霊の目の前で、風の刃が掻き消える。
驚いたように目を見開く妖霊。鞍馬も驚く。風刃を防がれたからではなく、妖霊の周りに張られた淡く輝く光の幕は、かつての友であった安倍晴明が用いた術であった。
晴明は結界と言っていたが、およそ結界とは程遠く、不可解な術であったが、並の妖怪では壊せぬほどの守りであった。それを今、妖霊が目の前で使った。
「やはり晴明の生まれ変わりか?」
一瞬、鞍馬の頭にそんな考えが過ぎる。その隙を見逃さなかったのか、妖霊が跳躍し、焔の太刀を振り下ろした。
直ぐに我に帰った鞍馬は、下段から太刀を振り上げる。下段から振り上げられた太刀を、空中で身を捻り躱す妖霊。体を捻った勢いで、一回転し、その勢いのまま鞍馬を斬り付ける。
鞍馬は振り上げた太刀をそのまま立て、焔の太刀を受けると、一歩踏み出し、刃を焔の太刀に添わせて宙に浮く妖霊の腹目掛けて太刀の柄をしたたかに打ち付けた。数間吹き飛ぶ妖霊。
妖霊は足を踏ん張り、辛うじて倒れるのを防ぐと、出鱈目に両手を振り始めた。
直ぐに鞍馬は気付く。鞍馬が先ほど与えた太刀筋を、先程妖霊は見真似て斬りつけてきた。
そして今、頬に当たる僅かな感覚。風のようにも感じるが、違う。
鞍馬は咄嗟に太刀を正面に構えた。
がきん。
まるで刀で打ち付けられた様な感覚。それは刀ではなく、妖霊が出鱈目に振る両手から現れた風の刃であった。正確には風を操ったものではなく、妖霊の妖気を刃として飛ばしているのであろう。
戦う術を、闘いながら盗んでいる。
妖気の刃は次々と飛んできた。それを鞍馬は受け、躱し、全てを退けた。
太刀筋を真似、天狗の術である風刃を真似た。勝負を長引かせると、妖霊の糧となってしまう。鞍馬は僅かに、妖霊の恐ろしさを感じ始めていた。




