絡新婦 終幕
雄座は自宅の布団で目を覚ました。時計を見ると朝の六時を少し回った頃であった。しかし、まだこの季節では、外は暗く、ひやりと冷えている。さて、布団から出るかそれとも二度寝するかどうするか、そんなことを考えながら布団の中でもぞもぞとする。しかし、そういえば、昨日、月丸から今日くらいに多恵子にかけた呪が完成するころであると言っていた。折角なら、人となった多恵子を見てみたい。そう思う。ならば、今起きて、月丸を連れて店に行くのが良いだろう。そう考え、今日の予定が決まった。
そうと決まれば話は早い。雄座はさっさと起きると、顔を洗うため外の井戸に向かう。からりと玄関を開けると、暗がりの中、体の芯を冷やすように緩い風が身を刺す。さっと井戸から水を汲み、顔を洗うと、肌に刺さるような冷たさに一気に目が覚めた。
部屋に戻り、火鉢に火を入れようかとも思ったが、すぐ出かけるなら少し寒さを我慢したほうがいいだろうと、震えながら着替えを終え、さっと、家を後にした。
「どう?」
あやめは静かに語りかけた。額に乗せていた濡らした手ぬぐいを取り上げ、横の桶に浸して冷ますと、再び額の上に乗せた。
「すみませんあやめ様。こんな朝早くから来ていただいて。申し訳ありません。」
あやめは雲庵に来ていた。和代には友人が熱を出して寝込んでしまったと伝えると、看病しておいでと朝早くから送り出してくれた。実は、多恵子に何かあってもいいように、心話を掛けたままにしていた。すると、夜更けから、苦しそうな多恵子の声があやめの心に聞こえてきた。そのため、心配になって店に来てみると、店の中で一糸纏わぬ姿で、倒れこんでいた。あやめは慌てて小上がりの畳の上に多恵子を寝かせ、自分の外套を掛け、看病することとなった。
「謝らなくていいのよ。心話を繋げておいて良かったわ。すぐに気づけたから。でも、お布団を持ってきてあげればよかったわね。」
どうやら月丸の呪いは、絡新婦の身体を人に作り変えたようで、妖の身体から人への変化に、多恵子自身がついていかなかったのだろう。あやめが見つけたときは、高熱を出し、息も荒かった。絡新婦の姿から人になったためか、今まで人に化けることで身に付けていた服も、人になったことで出すことができなくなっていたため、着物すら着ていない状態となっていた。そんな姿であったため、あやめが雄座達より早く見つけられたことは僥倖であった。元は絡新婦。妖であっても、今は嫁入り前の娘である。こんな姿を他人には見せたくないであろう。
暫く看病していると、体の変化が終わりつつあるのか、徐々に多恵子は体調を戻し始めていた。
「先程までは、体を起こすことすらできませんでしたが、あやめ様のおかげです。ありがとうございます。」
多恵子はあやめに謝りながら、額におかれた手拭いを取り、上身を起こす。そんな多恵子の背を支えながら、あやめも笑う。
「いいのよ。気にしないで。体を作り変えるんだから仕方ないわよ。それにね。私はあなたのお友達でしょう?困っているときは助けるのが当然よ。」
そんな事を言うあやめに多恵子は慌てて頭を下げる。
「芝居とはいえ、天狗様を友人だなどと大それたことになってしまって、申し訳ありませんでした。」
すまなそうにする多恵子の頭を撫でながら、あやめは優しく語る。
「もう、多恵子ちゃんは妖ではないの。天狗だのなんだの。もう関係ないわ。だから、そんなに畏まらないで。わたしも、同じような年ごろの女友達ができてうれしいわよ。」
そういうと、あやめは多恵子の頭から手を放し、手で宙に円を描いた。すると、その縁の中に、襦袢や帯、着物が現れた。
「術で作った着物だから、二日と持たないけど、それまでに着物を持ってきてあげる。それまでこれを着ていて。」
多恵子は頭を下げ、礼をすると、自分でも同じように手を広げる。
「もう、私には術は使えないんですね。」
「やっぱり、寂しい?」
ふと呟いた多恵子にあやめが応える。多恵子は首を横に振ると、笑みをこぼす。
「本当に人になれたんですね。こんなに嬉しいことはありません。」
そういって、あやめの術によって出された着物を受け取った。
日も上りはじめ、辺りの光景を照らし出す。するとどうだろう。自分の周りは、多くの勤め人が駅から、乗り合いバスから、市電から、こんなにも朝早くから出勤しているのかと雄座は驚く。しかし、こういう者たちがこの国を支え、この国を作っているのだろう。人間というのはこんな大人数で一つの事をなし、さらに発展させていくのだ。月丸たちが言うように、妖怪とはまた違う力を持つというのは納得できる。しかし、その人々の営みの歯車から自分が外れているような気もするが、それはそれでやむを得ない。朝から月丸の元に遊びに行こうというのだ。何より、人の世の発展よりも、妖怪が人になるほうが興味深い。やはり自分はダメな人間だと笑いつつ、ゆるりと歩を進めた。
「やぁ。雄座。今日は随分と早いな。」
雄座が社に着くと、月丸は境内の掃除を行っていた。たまに社に泊まり、朝起きると、大抵月丸は境内を掃除している。恐らく、朝に掃除を行っているのだろう。
「ああ。今日は絡新婦が本当に人に変わるのだろう?折角だから見てみたくてね。起きてすぐに来た。」
まるで子供のように興味津々な表情で語る雄座を月丸はくすりと笑う。
「それは構わないが、恐らく、もう呪いは完成していると思うぞ。」
砂利に箒跡を作りながら月丸が言う。その言葉に雄座は目を大きくする。
「え。そうなのか?」
「呪いというのはな。夜に成されるのだ。お前も知っているだろう?昔から人が呪いで鬼や魔になるのは、大抵夜であろう?月の力は妖怪の力を、呪の力を引き出すのだよ。」
驚く雄座に、月丸は掃除を続けながら説明した。見ることができずに残念だったのか、唖然とする雄座。そんな雄座を見ていると、月丸は可笑しくなり、声をあげて笑った。
「ははは。雄座、そう残念がるなよ。掃除が終わったら、様子を見に行ってみよう。」
「わかった。では、掃除を手伝おう。」
笑われ、憮然とした顔を浮かべるが、やはり、見には行きたい。雄座は掃除を早々に終わらせるため、月丸と共に境内の掃除を手伝うこととなった。二人で掃除を行ったことで、九時を回るころには片付いた。
「ありがとう雄座。急ぎたいのに随分と丁寧にやってくれたな。」
月丸は笑いながら雄座に言う。確かに、手を抜いても良かったのだろうが、普段から社に来ているため、雄座としても掃除をするなら、普段世話になっているせめてものお礼と、細やかに掃除を行った。
月丸は分身を作り出すと、雄座に言う。
「ちょっと待っててくれ。」
そう言うと、分身と二人で小屋へと入っていった。雄座は月丸の意図は分からないが、拝殿のいつもの濡れ縁に腰を下ろすと、一先ず言われた通り、待つことにした。
やがて月丸と分身が出てくる。雄座は二人に声を掛けた。
「ああ。おめかしをしていたのか。」
分身は、雄座の買った洋服を着ていた。
「そういうことだ。折角雄座がくれたものだしな。これならあまり目立つことはなかろう?」
そう言いながら、月丸は雄座の元へ分身の背を押した。
月丸も気を使ったのだろう。分身は、きらきらと光を反射する美しい黒髪で、遠目で見れば日本人である。しかし、人並みはずれた愛らしさは変わらない。目立つかどうかといえば、髪の色が黒かったとしても目立つだろう。しかし、わざわざ月丸の気遣いを無碍にする気はない。
「ああ。これなら大丈夫だろう。さあ、行こうか。」
雄座は月丸に手を振ると、分身の手を取って、社を後にして、多恵子のいる小料理屋雲庵へと歩を進めた。
すっかりと体調が戻った多恵子は、あやめが術により現した着物を着て、既に板前に立ち、料理を作っていた。絡新婦の時と変わらぬ動きだが、やはり術で変化した体と、本物の身となった体では、やはり何となく勝手が異なる。これまで、とんとんと作っていた料理も、どこかぎこちなく、もどかしい。だが、長門石と同じ、人になれたことで、この体に慣れるまでと割り切ることができた。
慣れない体に四苦八苦しながら、あやめとともに長門石の食事を作っていると、店の入り口がからりと開いた。
「ああ、多恵子さん。良かった。もう風邪は大丈夫なのかい?」
入口から現れたのは長門石であった。多恵子の姿を見つけると、安心したような、不安なような顔で駆け入ってきた。
「ご心配おかけしました。もうすっかり良くなりました。さぁ、どうぞ。お掛けになってください。」
あやめが長門石をいつもの小上がりに案内しようとすると、長門石はそのまま、板前の傍にへたり込むように腰を下ろした。
「本当に良かった。多恵子さんが倒れたと聞いて、心配で心配で。でもこうして元気な姿を見ることができて本当に安心したよ。」
多恵子は長門石の元に駆け寄り、肩に手を掛ける。
「はい。私も、また長門石さんにお会いできて、安心しました。」
長門石は、肩にかかる多恵子の手を見る。その指先は、料理の時に切ったのだろうか、人差し指の先が小さく切れ、玉のように血が滲む。
「指を切ってるじゃないか。まだ、本調子ではないんだろう?僕のために無理はしなくていいんだよ。」
多恵子の手を取り、心配そうに尋ねる長門石。多恵子自身も切っていたことに気づかなかったのだろう。自分の指の血をみて、はっとしたように長門石の肩を見る。
「ああ。良かった。お洋服を汚してしまったらどうしようかと。」
「服なんかどうでも良いよ。痛くないかい?」
自身を案じてくれる長門石を嬉しく思いながらも、指先に滲む血を見て、多恵子はほっとしたような表情を見せた。
「血、赤いです。」
「それは当然だろう。さあ、指をお出し。」
長門石は、自らの上着のポケットから、ハンカチを取り出すと、多恵子の指を包んで、血止めのために握った。絡新婦の身体には、本来、赤い血など流れていない。しかし、今、自分の指から流れる赤い血は、自らの身体が本当に人間になったのだと、改めて多恵子に認識させた。そして、その認識は、多恵子を動かした。
「長門石さん。あなたから、結婚のお話を聞いたとき、嬉しくて、嬉しくて、まるで宙を舞っているような、それほど幸せなことでした。もし叶うならば、あなたのお傍で、あなたといる幸せを感じさせて頂いてよろしいでしょうか?」
あやめが遠目から見ても分かるほどに顔を紅潮させ、多恵子は大きな瞳で長門石を真っ直ぐに見つめる。長門石も、そんな多恵子をじっと見つめ、多恵子の質問を理解した。
「ああ。勿論だとも。死ぬまで、いや、たとえ死んだとしても僕を貴女の隣に居させてください。」
長門石は、あやめの両手を手に握り、改めて願い出る。
「多恵子さん。僕と結婚してください。絶対にあなたを幸せにして見せます。」
長門石の言葉に、多恵子の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ出し、それを拭うことなく、何度も何度も頷く。
「はい。私こそ、不束者ですが、長門石さんのために生きます。どうぞよろしくお願いいたします。」
涙で濡れたまま、満面の笑みで長門石を見つめる多恵子。長門石はそれを優しく包むように抱き包んだ。その光景をあやめは、小上がりに腰掛けたまま、暖かく見守っていたが、既にこの場に自分は必要ない事も感じた。あとは二人の人としての恋愛である。そっと立ち上がると二人に気づかれないように店を出た。
「なんか、良いものを見られたなぁ。」
店を出て、一度背伸びをすると、先ほどの二人の幸せそうな表情を思い出し、頬を緩ませた。古来より、あやめが聞き及んでいた妖と人の恋は、悲恋であった。それはそうだろう。種が違うのだ。しかし、こうして、幸福そうな二人を見ると、それこそ歳をとり、往生するまで、二人が寄り添って、今日のような笑顔で見つめ合っていることを祈りたくなる。
「どうした。あやめさん。にやにやとして。」
唐突に声を掛けられ、声のほうを向くと、月丸と手をつなぎ、こちらへ向かってくる雄座であった。あやめの元まで歩いてくると、月丸は店のほうを見た。
「妖気が完全になくなっている。既に人となっているようだな。大事はなかった…ようだな。」
月丸は言いながら目線を店からあやめに移した。そのあやめの笑顔を見るに、どうやらうまくいったらしいことは、すぐに認識した。そして、気配から、長門石も来ているのだろうことは察する。そして、あやめの笑顔はすべてが丸く収まっていることを示していた。
「良かった。」
月丸が一言。あやめも、はい。と答える。しかし、雄座だけは何があったかが判らない。
「二人だけで、何を納得しているのだ?さぁ、店に入ろう。」
そう言って月丸の手を引き店に入ろうとする雄座を月丸が引っ張り、あやめも雄座の反対の手を取って、月丸同様引っ張った。
「雄座さん。折角月ちゃんもおめかししているんだから、久ぶりに、ワッフルでも食べに行きましょうよ。」
あやめの提案に、月丸の顔も明るくなる。
「それはいい。あの洋菓子屋で食べるワッフルを久しぶりに食べたいな。」
雄座は店を振り返りながらも、二人に引っ張られて行く。
「おい、どうした?多恵子さんのところに行かないのか?人になれたのか?」
あやめは笑いながら、雄座に答えた。
「人になれたからこそ、今はそっとしておいてあげましょう。あ、頑張ったご褒美にワッフルはご馳走してくださいね。」
こうして三人は、銀座へと向かった。
数日後、月丸と雄座が多恵子の店を訪れると、建物は残っているが、店は既に畳まれていた。きっと、多恵子は長門石の元へと行ったのだろう。人として変わった姿を見てみたかった雄座はがっかりとしていたが、長門石に会いに行けばいいだろうという月丸の提案に、ああそうか。と気を持ち直していた。月丸も、口には出さぬが、二人の幸福を願いつつ、店に背を向けた。
余談
時は過ぎ、年号は唱和となり、幾多の動乱の時代を過ぎた。昨年、長門石は七十五歳でその生涯を終えた。子や孫から見ても仲の良い夫婦であった二人だが、伴侶に先立たれ、哀しさから体調を崩した多恵子は、長門石の死から一年後、二人の息子と二人の娘、孫達に囲まれ、幸せそうな笑みを浮かべ、静かに長門石の元へと旅立った。
「あなた…。私の人生、本当に幸せでした。遅くなりましたが、お隣に参ります。また、二人で…。」




