絡新婦 捌
「おや。神宮寺君じゃないか。」
新聞社の前で佇んでいると、顔馴染みの編集者が雄座に声を掛けた。
「やあ。おはよう。」
雄座は答えると、編集者は雄座に歩み寄った。ふと、雄座の隣に居る月丸に気付く。
「おや。おはよう。可愛らしいお嬢さんだね。神宮寺君の娘さんかい?外国人のお嫁さんが居たとは知らなかったが。」
編集者は月丸に挨拶すると、雄座に尋ねた。
「あー…知人の子を預かっててね。ところで、長門石は居るかい?昨日、ご馳走になってね。礼を言いたいんだ。」
編集者も、あぁ、と納得した顔をする。
「たしか、昨日の夜から泊まってたな。政治部に居るよ。呼んでこようか?」
「ああ、それはありがたい。頼めるかい?」
編集者は建物の中に入っていった。
「雄座。中には入らないのか?」
月丸が雄座を見上げながら尋ねると、苦笑いを浮かべながら雄座が答える。
「長門石の職場は殺伐としていてな。行きづらいんだよ。」
日々政治を司る華族の相手をしながら、情勢を見誤らぬよう、政治部の中は、常日頃、会議が行われている。みな、真剣だからだろうか。概ねその会議は、怒号が行き交う。長門石のように、普段は静かで穏やかな長門石も、仕事中には、雄座が近づきたくないと思える程度には人が変わる。結果、呼んできてもらえるならその方がありがたい。
暫く月丸と共に街行く人を眺めていると、長門石がやってきた。
「神宮寺君。どうしたんだい?こんな早くから。用があるなら入ってきてくれれば、茶でも出せたのに。」
人懐っこそうな笑顔でやってきた長門石は、昨日、雄座と飲んだ時と同じ服を着ていた。顔は辛うじて洗ったのであろうが、疲れの色は取れていない。
「やぁ。昨日の礼を一言言いたくてね。奢ってもらって、何も言わないのも申し訳なくて。」
雄座も笑みを返しながら長門石に言うと、長門石は声を上げて笑う。
「わはは。何だい。そんな事でわざわざ来てくれたのかい?そんな事をされたら、またご馳走したくなるじゃないか。どうだい?昼から時間が取れそうなんだが、一緒に飯でも。」
そう言いながら、長門石は雄座の横に佇む月丸に気が付く。
「おや。こちらのお嬢さんは?」
長門石に聞かれ、先程と同じように答えようとする雄座の前に、月丸が会釈をしながら答えた。
「初めまして。多恵子さんの友達の妹です。長門石さんに伝言を頼まれて来たのですが、分からずに困っている処を神宮寺さんに声をかけて頂きました。」
笑顔で自己紹介する月丸の横で、雄座の方が驚いた顔を浮かべたが、長門石は気付くことなく月丸の前にしゃがみ、目線を合わせる。
「おお。多恵子さんのお友達の妹さんか。伝言って、多恵子さんから?」
月丸は頷くと、子供じみた口調で話し始めた。
「多恵子さん。急に風邪を引いちゃって。でも長門石さんが心配なんですって。だから、お姉ちゃんが多恵子さんの代わりに店番して三時頃までならお店を開いてるから来て欲しいって言ってました。」
長門石はうんうんと聞きながら、月丸の話を聞いている。
「多恵子さんは、大丈夫なのかい?お見舞いに行こうか?」
心配する長門石に月丸が続ける。
「ううん。大丈夫。お姉ちゃんが店番してるけど、お料理は多恵子さんが作ってるの。長門石さんに食べさせたいんだって。」
「そうか。ありがとう。是非、伺うよ。」
そう言うと長門石は立ち上がると、雄座に顔を向ける。
「そう言うことらしいから、神宮寺君。昼飯を付き合ってもらえるかい?僕は十一時頃なら仕事に区切りがつく。君は大丈夫だろう?」
雄座はくすりと笑うと頷いた。
「ああ。構わないよ。今度は俺が奢るよ。」
雄座の言葉に長門石が首を振る。
「いいや。僕が出すよ。彼女に食べて欲しいなんて言ってもらえるんだ。ただ飯なんかに出来ないさ。」
そう言うと、長門石は十一時に店の前で待ち合わせるよう約束すると、月丸に礼を言い、再び社屋の中に消えて行った。
「ふふ。あやめさんの妹だったとはな。知らなかったよ。」
長門石の背を見送ると、雄座は思い出したように口に出すと、月丸も笑う。
「俺が雄座と居ても一番不自然ではない言い訳であったろう?何より、人間にはこの分身は幼い娘に見えるらしいからな。」
そう言うと元来た道ではなく、社に向かい歩き始める月丸。その後ろ姿を見ながら、雄座はふと思いつく。確かに人と比べれば、見た目の美しさや髪の色、目の色といった違いはあるが、今、銀座を歩く月丸の姿は人のそれであろう。町行く者の月丸に投げかけられる視線も、奇異な目や畏怖の目ではなく、愛らしいものを見る優しい目である。そんな光景を見ていれば、いつか人と妖怪、本当に垣根がなくなる時が来るのではないだろうか。そう思えてくる。月丸もあやめさんも人の姿だからこそ、気にはならないが、例えば、狐の姿をした者や蜘蛛の姿の者、そんな者たちと新橋でビールでも飲みながら語らい合う。そんな世をふと妄想する。きっと、多恵子さんのような者が悩むことのない良い世界なのだろう。
そんなことを考えていると、月丸が振り返り、雄座に手を振っている。
「どうした雄座。置いていくぞ。」
月丸の言葉に、我に返ると、雄座は慌てて月丸の元に駆けた。
「月丸。長門石との約束まで、時間がある。ちょっと付き合ってはもらえんか?」
にやにやと何かを企む笑みをこぼす雄座に、月丸は仕方なしといった笑みを返す。
「ああ。別に構わない。菓子でもご馳走してくれるのか?」
「それもある。が、今日はちょっと新たな趣向だ。」
雄座は相変わらず通行人の視線を集める月丸を連れて歩き出した。
雲庵
多恵子の体は未だ絡新婦のままである。しかし、体の先から月丸の呪いの効果か、人となりつつある。その足は、昨日から既に人の足となっている。前の長い足の先は人の手となっていた。体の大きさも、あやめより僅かに大きい程度に縮んでいる。多恵子はその歪な体で懸命に料理を作っていた。勿論、今までの人の姿で作るよりも難しく、人に変わる途中のためか、体力を奪われ、野菜を切るにも一苦労だ。しかし、長門石のためと思えば苦ではない。そんな必死の絡新婦を見て、あやめは手伝う事を申し出たが、多恵子はせめて自分で作りたい、と、申し出を断っていた。普段より遥かに時間を掛けて、煮物や焼き物を仕上げた。
「ふう。これなら長門石にも喜んでもらえるかしら。あやめ様、手伝って頂き、ありがとうございます。」
あやめの方を向く絡新婦の顔が上下する。恐らく頭を下げ、礼を言ったのだろうが、この蜘蛛の姿ではよく分からない。あやめは笑顔で答えた。
「手伝いも何も。私は見ていただけよ。寧ろ私がお礼を言いたいくらいよ。多恵子さん、料理上手で、とても参考になったわ。」
そんな事を話していると、からりと入口の戸が開き、一匹の猫が入ってきた。
「あら?にゃんこ。どうしたの?」
板前の奥から出てきて、猫を出そうとあやめが寄る。すると猫はにゃあ、と鳴くと、聞き覚えのある声であやめに言う。
「あやめ。十一時には長門石は来るそうだ。それまでには準備を済ませておけよ。」
あやめは眼を丸くするが、直ぐにこの猫が月丸の式である事を悟り、頷いた。猫もこくりと頷くと、言葉を続けた。
「あと、あやめ。お前が破ったこの店の結界。先程貼り直している。強引に出入りしないようにな。」
そう言うと、猫は笑う様に、にゃあ、と一声上げるとすいっと消えて行った。
「結界?そう言えば朝、何かに当たる感覚はあったな…」
そんな事をぼそりと呟いた。
「あ…あやめ様、この店の結界をお破りになっていたのですか?」
店の奥で絡新婦が慌てた声で尋ねてきたので、あやめは照れた様に困った顔で笑い返す。
「あ、ごめん。気付かなかったの。でも月ちゃんが貼り直してるから平気よ。」
この店に貼られているのは、長門石以外の者を避ける結界であった。絡新婦の力が弱まっているので、月丸は昨日それに近い結界を張った。しかし、絡新婦の力は月丸やあやめと比べれば、全く取るに足らぬ程度である。月丸は妖気の僅かな違いを感じ、その妖気が何某であることまで理解できる。それは余程高度な力であり、残念ながらあやめにはそれ程の技は持たない。その結果、朝、この店に来た時に、結界に気付かず、無理に入ったため、絡新婦と月丸の結界を破っていたのだ。直ぐに気付いた月丸が、銀座へ向かう前に貼り直していたという具合だった。
「妖気を自在に感じることができるって、難しいよねぇ。」
あやめは自分の失敗をごまかす様に多恵子に同意を求めたが、表情の変わらぬ蜘蛛の顔から、困った様な乾いた笑い声が僅かに聞こえただけであった。
やがて、時計は十時半を指す。多恵子は流石に盛り付けは難しいらしく、あやめに協力を願い出た。無論あやめも快く手を貸す。月丸が居れば、この光景を見て、本当にあやめと多恵子が友達であってもおかしくない。そう思う程度には、仲の良さそうな光景であった。




