しき 拾壱
月丸の言葉に、道満はにい、と笑い、符を口元に近づけ、ボソボソと呪言を唱えると、道満の手の中にある符が煙を上げて燃え出した。道満は息を大きく吐くと、その煙を口から吸い込む。その姿は変わらぬが、月丸は道満の変化を知る。
「己に鬼神を宿したか。随分と恐ろしい術を使う。」
ふう、と一息溢し、道満はにやりと笑う。
「この地は呼び出した神との繋がりが絶たれる様なのでな。ならば力のみ我に宿すが最良と見たのよ。」
恐らく、道満はこの社の中では式神や鬼神降ろしは、結界によって阻止されるのを気付いたのであろう。僅かな時、此処に居るだけで、自らが此処で戦える手を講じていたのだろう。月丸は素直に驚いた。
「どうれ。儂の術。如何程お主に通じるか。楽しみじゃ。」
そう言うと、道満は右手を月丸に向ける。その姿は、まるで月丸が妖術を使う様な所作である。符や呪を使う陰陽師の所作ではない。
そして所作だけではない。月丸に向けられた道満の右の掌から、先程と同じく、巨大な火蛇が現れ、大きく口を開き月丸に襲いかかってきた。
月丸は先程同様動かない。しかし先程と異なるのは、境内に響く音。
きぃぃぃぃぃん
火蛇は月丸の面前で月丸の結界にぶつかり、弾け消えた。そして、驚きの表情を浮かべたのは、月丸の方であった。
「これは驚いた。まさかこれ程の術となろうとは。人の身で俺に結界を張らせたのは師以来だ。」
目を丸くする月丸の言葉に、応える事なく、道満は月丸に向けた右の腕を横薙ぎに払う。そして再び境内に甲高い音が響く。
きぃぃぃぃぃん
道満が払った腕の軌道に沿って、見えぬ風の刃が月丸の結界に弾かれたのだ。
「ふむ。まずはその結界を破らねば、儂は勝てぬという事よな。」
腕を組み、考える風の道満を月丸は手を出さずに、ただ、見ている。月丸には何故か、道満がまるで楽しんでいる様にも見える。
「ふむ。」
道満が一言、声を発すると、腕を右に左に薙ぎ払うと、無数の刃が月丸に向かって放たれた。
きぃぃぃぃぃんと幾多の風の刃を受け、それを弾き続ける月丸。刹那、足元から鋭く尖る氷の刃が無数に飛び出した。
「うわ」
足元から無数に、そして高速で飛び出してきた氷の刃に掬われ、ふらつく月丸。その間も正面からは風の刃が降り注ぐ。
ぎぃん
無数の風と氷の刃を防ぐうち、月丸の結界から先程までとは異なる音が響いた。それと同時に、月丸の頭の上から、火蛇が襲い掛かる。
ぱん
境内に響く破裂音。月丸の周りにあった見えない結界は、一瞬、光を放ったかと思うと、砕け消えた。
「なんと…。」
驚く月丸の面前に、無数の風の刃が、頭上からは月丸を呑み込もうと火蛇が、足元からは串刺しにしようと無数の氷の刃が瞬く間に迫った。
どおん
轟音と煙が辺りを包む。道満は手を止め、月丸の居た場所を睨む。
やがて、道満は独り言の様に言葉を発する。
「金鬼や温羅なんぞは、鬼神の中でも余程強い者達じゃ。それを手玉にとる妖霊が相手とあらばと、神降ろしまでしてこれか。」
「驚いた。鬼を宿したかと思えば…。火神の火産霊、風神の級長津彦、水神の罔象の力を借り受けたと見る…。これは並の妖であればひとたまりもないな。」
道満の言葉に応じる様に、煙が薄れ月丸が現れた。結界が破られた筈であるが、月丸には傷一つ付いていない。月丸の姿に呆れた様に道満が言う。
「驚いたのはこちらじゃ。神産みより生まれし火産霊が火蛇でも効かぬとは、妖霊を甘く見ておったわ。」
月丸は袖の砂埃を払いながら応える。
「これ程凄まじい神降ろしは初めて見た。しかし、神を降ろしたとて神の全ての力を受けられるわけではない。」
道満はふっと小さく笑うと、月丸に言う。
「如何やら妖霊は陰陽の道にも明るい様だ。その通り。神降ろしは神のほんの僅かな力を借りるのみ。だが…。」
道満は再び腕を払いながら風の刃を繰り出す。月丸の周りには結界が張られている。
きぃぃぃぃぃん
きぃぃぃぃぃん
結界に風の刃がぶつかる音が幾重にも響く。道満は腕を払いながらも、呟く。
高天原に神留坐ます
神露岐神露美ノ命以ちて
皇御祖神伊邪那岐ノ命
筑紫日向の橘の
小戸の阿波岐原に禊祓給う時に現生せる
祓戸ノ大神達
諸々禍事罪穢祓給へ清給へと申す事の由を
天津神国津神八百万神達共に
天淵駒耳振立て聞食せと畏み畏み申す
やがて、月丸の結界はぎぃんぎぃんと鈍い音が鳴る。月丸は焦る様子もなく、先程同様、道満を見据えていた。
ぱぁん
結界が破れると同時に、月丸は右手で払い風の刃を打ち消した。それと同時に目の前に火蛇が迫ってくる。月丸は腕を前に出し、火蛇を受け止めるとそのまま拝殿まで吹き飛ばされた。
「ふむ。流石の妖霊も、神の祓いには抗えぬか。」
月丸はゆっくりと起き上がる。装束の袖が焼き消え、火蛇を受け止めた両の掌が焼け爛れている。久しく感じることのなかった痛みの感覚が月丸を襲う。
「先程と同じと思いきや…。神降ろしではこれ程の力はない筈…。今のは一体?」
道満の術には神の力が宿っていた。先程の様に僅かに借り受けた力ではなく、神の力そのもの。気配を察した月丸は即座に護りの術を纏わせその手で防いだ。しかし、神の力は月丸の術を打ち消し、その身を焼いた。伝説とはいえ、一介の陰陽師がこれ程の術を打つ事自体に、月丸は驚きを隠せなかった。
月丸の呟きに道満が答えた。
「天津神、国津神、八百万神に願い奉り、穢れとする妖霊を討ち払う力を授かったのよ。今の儂は神々の力そのものを借り受け、我が術としておる。さて、妖霊。そろそろ本気でやらねばならぬのではないか?」
道満の言葉に月丸はっとする。
「芦屋道満よ。一つ尋ねたい。その術は陰陽師なら誰でも使えるものなのか?」
道満は、ふん、と鼻を鳴らすと、月丸の問いに応えた。
「儂だけが使う術よ。我が友、安倍晴明の為、儂が作り上げた術よ。」
月丸は、そうか、と一言溢すと、焼け爛れた手を上に掲げた。その刹那。
ごおん。
瞬く間に道満は蒼い焔、妖炎に包まれた。その道満の姿を月丸は凝視する。焼き尽くすまで消える事なく、轟々と音を立てる妖炎に包まれながら、道満は呪を唱える。
「かぁ!」
道満の発気と共に、妖炎は掻き消えた。
「凄まじいな妖霊!楽しいぞ!」
道満は毛一つ、燃える事なく、嬉々とした表情で立つ。月丸は掲げた手を道満に向ける。
どおおおん
道満に向かって空から雷が落ちる。道満の立つ辺りの砂利が溶ける程であるにも関わらず、道満は意に介さぬ様に立つ。
道満はにい、と笑うと月丸に向かって駆け出すと、右の拳をぶん、と振るう。唯の拳ならば、月丸には届くことはない。しかし、その拳に神の力が宿るのを月丸は感じ取る。先程の火蛇の如く、結界を、護りの術を打ち消す程の力がある。そう思い、咄嗟に道満の腕を払い避けようとした刹那、月丸の体は道満の腕に跳ね飛ばされた。
二間程も飛ばされ、砂利の上に倒れ込む月丸。
ざりざりと月丸の元へゆっくりと歩みながら道満が言う。
「手力雄の力を授かりし拳は妖霊とて一溜りもなかろう。」
手力雄。天岩戸より天照大神を引き出し、岩戸を投げ放った剛力の神である。その力は月丸ですら及ぶものではない。
道満は歩みながら、手を掲げると、空より一筋の光が降りる。やがてその光は一つの剣の形を成し、道満の手に収まる。その剣の姿は白く美しい幅広の直刀で、握は八つに分かれる。
「十種の瑞宝が内の八握剣だ。お主の様な邪を払うには最も適しておるわ。」
月丸はゆっくりと立ち上がりながら、その剣自体が強き神気を放っているのを感じる。月丸は呆れながら口を開く。
「何とも次から次へと…。」
既に剣が月丸に届く位置にいる。
「まぁ、楽しかった。」
そう言うと道満は八握剣を振り上げる。
「全力を持って、儂を殺してくれるのを期待したが、妖霊、お主でも力不足であったな。」
剣を振り下ろすと、月丸の体を斬り裂いた。
さぁぁ
境内に拡がった一瞬の静寂に一陣の風の音が響く。
「如何言うことだ?」
道満は月丸に問う。
神の剣である八握剣を以て、間違いなく月丸を引き裂いた筈であったが、道満の前に、何事も無く月丸が立っていた。
「芦屋道満よ。俺以外の妖霊であれば、きっと今の一撃で事切れていたであろう。だが残念ながら、俺には効かぬのだ。」
月丸からは、先程までの険しい表情が消え、優しさと憂いに満ちた表情を浮かべる。道満は答えず、再度月丸を斬りつける。
先程同様、八握剣は月丸を擦り抜けるのみで、裂く事は無かった。
「ならば。」
今度は、先程月丸を吹き飛ばした手力雄を宿した拳で殴りつける。しかしその拳は、月丸の手により掴まれた。
驚きの表情を浮かべる道満。
「突然如何したと言うのだ?我が術を封じたか?」
道満は後ろに飛び退くと、
火蛇
水の矢
氷の槍
風の刃
雷槌
持てる神の力を月丸に向かって立て続けに放つが、その全てが月丸に当たる先に消えてゆく。
道満は動きを止めると、月丸に問う。
「言え。何をした。」
月丸は応じる。
「お前の術は、最早お前だけのものではない。お前を慕う弟子達が受け継いでいたのだろう。そしてお前の死後、脈々と受け継がれ、俺の師である陰陽師、吉房に継がれていたのだよ。」
道満は腕を組み静かに耳を傾ける。月丸は目を閉じて、思い出す様に言葉を続ける。
「お前と同じ様に、初めて出会った吉房も、神の力を借り受け術としていると言っていたのを思い出した。」
月丸はふと目を開くと、視線を小屋に移す。くすりと笑うと、改めて道満に視線を戻した。
「師である吉房に陰陽の術を学んだ。お前が使った術も。だから同じ術を俺も使ったのだ。神の力は同じ神の力を授かれば、効かぬよ。」
月丸の言葉に、道満が笑う。
「がはは。そうか。伊邪那岐の力は伊邪那岐に効くわけもない。その様な返しがあるとは知らなんだわ。」
月丸もまた、笑みを浮かべる。
「俺の師、吉房はお前の術を継いでいた。そしてそれは俺が継いでいた。お前もまた、俺の師であったのだな。」
境内には、暫し、道満の笑い声が響いた。
「儂の後継が妖霊か。屍人となって数百年。これ程の痛快な話はなかった。」
道満はその場に胡座に座り、月丸を見据えると、言葉を続けた。
「妖霊でありながら、神々が力を授け賜う。ならば儂が勝てる見込みはない。それならば、儂の真の望みは妖霊。お主に殺されることよ。叶えてもらえぬか?」
月丸は動かぬまま、問う。
「俺に殺される事が望みとは、如何言う事だ?」
道満は顔を上げると、雲に薄く姿を現す月を見やった。
「儂もな。妖霊の友であったからよ。」
その言葉に月丸がぴくりと反応する。
「我が友であった妖霊の名は、安倍晴明。宮の陰陽師としてまるで人の様に働いておったわ。」
目を瞑り、道満は思い出す様に語り始めた。
 




