狐 壱
その日は、この夏でも一番の暑さだったという。だが前日までの湿気を帯びた蒸し暑さではなく、風も吹かないカラッとした暑さである。道の端々にある木々では蝉が短い命を奮って啼き響き、人々もその暑さに気だるい表情を隠せない・・・そんな日であった。
雄座は市谷の外堀を歩いていた。先日まで頼まれて書いていた物語を出版社へ持って行ったついでに、何気なくここまでぶらついていた。
外堀の水の傍を歩いているせいか、暑さも多少緩和されているはずであるが、雄座はこの暑さに辟易していた。
「ふう…何となくぶらついてみたが、この暑さなら月丸の所でおとなしくしておくべきだったなぁ。」
そんな事を考えつつ雄座は歩を進めた。その雄座の後ろから一台の自動車が向かってくる音が聞こえた。
この時代には多くの人で賑わう銀座はともかく、自動車とは滅多に出くわさない。自動車といえば、富裕層の乗り物か、屋根のない乗合自動車くらいである。
そんなに狭くもない道であったが砂埃や排煙を被るのは御免である。
雄座は、つと道の端へと移った。
車は雄座の横を砂煙を上げ追い越していったが、すぐに停車した。
「雄座君。」
突然呼ばれ雄座ははっと顔を上げた。見ると車の窓を開けて一人の老人がこちらを見ていた。
雄座も声につられその老人を怪訝そうに見ていたが、しばらくすると表情をくずした。
「あぁ、御前。ご無沙汰をしております。」
雄座は車から顔を出す老人の元へ駆け出した。車のそばまで行くと雄座は御前と呼ぶ老人に一礼した。老人も軽く会釈をし、雄座に好意的な笑みを向けた。
老人の姓は神田という。爵位は男爵である。
神田財閥という自動車や重機を取り扱う会社の総帥であったが、今は息子に座を譲り、隠居生活をしている。
「その様子だとまだ小説はうまく行かないようだな。どうかね、行く先まで送ろう。
乗っていきたまえ。久々に話も聞きたい。」
雄座は「それはありがたい。」、と返事をすると、反対側から車に乗り込んだ。
「さて、どこに向かうのかね?」
「えぇ、銀座にある知り合いの神社へ向かうところです。」
男爵の問に雄座は大まかに答えた。月丸の神社が何丁目なんぞ知らなかった。
「それでは、近くに行きましたら教えてくださいまし。」
運転席から人の良さそうな年配の運転手の声がした。そして車はゆっくりと発進した。
この時代の自動車は一部の華族や大金持ちの乗り物である。雄座の実家も華族であったが、車は有していなかったため、乗り慣れることはないが、後部座席は屋根があり、外の日差しから逃れた事と、歩く手間が省けたのが少しだけだが嬉しく感じていた。
「お父上は御健勝かね?」
男爵が穏やかな口調で尋ねた。
「ええ、仕事も潰れたとは聴いておりませんので、繁盛しているのでしょう。」
雄座が笑いながら答えるが、実家に興味を示していないのが分かる。
「たまには顔でも見せておやり。お父上も恐らく心配されているであろうよ。」
雄座は笑うだけだった。
他愛もない話をしながら車に揺られていた。
麹町を抜けた辺りで雄座はつと思い出して、男爵に尋ねた。
「そういえば、和代さんはお元気ですか?
もう最後にお会いしたのは子供の時分でしたから、お綺麗になられたのでしょうな。」
雄座にとっては、世間話の一つであった。
神田家と神宮寺家は昔から親交があり、雄座の父と男爵家は仕事上も親密であった。仕事の話を雄座は知らない。自然、話題は共通の知る人となる。和代は男爵の孫娘で幼い頃は雄座ともよく遊んだ。雄座はそれを思い出した。歳は雄座よりも三つ四つ若かったはずだ。
「…あの子は重い病にかかっておってなぁ。もう長くはないやもしれんよ。」
温和そうな男爵の表情が突然悲壮に曇った。
無論、雄座も驚き表情が沈んだ。
「これは知らぬ事とはいえ、失礼しました。しかし、そんなに重いご病気とは知りませなんだ。」
雄座の表情を見たのだろう。男爵はすぐに温和な顔を取り戻した。
「気にかけてくれてありがとう。雄座君。しかし、医者も治せぬとあらば、運命としか言えんじゃろう。諦めるしかない。」
男爵が寂しい笑みを浮かべたのを雄座は見たが、何も言う事が出来ず話を逸らすため運転手へ道の指図を始めた。
やがて車はゆっくりと停車した。月丸の社の前に来たため、雄座が運転手に「ここです。」と合図し、運転手は怪訝な顔をしながら車を停止させた。男爵はつと窓の外の景色に目をやった。
「ほう…雄座君、神社に行くと聞いていたが、さて、そんなものは見当たらないが…。」
神妙な面持ちを崩さない雄座に話題を求めるかのように男爵が尋ねた。
「あぁ、銀座にこんな神社があるなんて思いませんよね。私もつい最近この神社を知りまして…。」
雄座の言葉に運転手も男爵も窓から辺りを見回す。その二人の動きを見ながら、今度は雄座が首を傾げた。
「御前、すぐ目の前ですよ。鳥居があるところです。」
雄座は社の鳥居を指差しながら男爵に社の場所を示した。雄座の指の先に目をやる男爵は困った様に笑いながら雄座に答えた。
「さて困ったのう。ワシには鳥居は見えん。君の指す所はどこぞの家屋の裏手の様に見えるが…。裏に回れば神社なのかな?」
雄座は驚いた。御前も運転手も嘘を言っている風ではない。どうやらこの妖霊御神社は自分にしか見えていない、二人には全く別の何かに見えている事に気付いた。
(月丸…なんぞ悪戯でもしておるのか?)
ふと雄座の頭をよぎるが、まぁそれは月丸に会って聞けば良い。雄座は車のドアを開けると、男爵に会釈した。
「わざわざ送っていただきありがとうございました。」
礼を言って去ろうとする雄座を、男爵が呼び止めた。
「雄座君の知る神社だ。儂も参りたいのだが、案内してくれんかね。」
男爵はそう言うと運転手に待つように告げて、車を降り雄座へと足を向けた。
「神頼み…というわけではあるまいが、最近神社や寺があるとね、つい和代の事を祈念してしまうクセがついたようだ。すぐ近所なら歩いて行こう。」
近所どころか、目の前にもう鳥居はある。五歩も歩けば到着するが、見えているのは雄座だけである。見えないところに入れるのかも雄座にはわからないが、孫娘の祈念と言われれば無碍にもできない。
「そうですか……。では参りましょう。」
そう言いながら先導するつもりで先に鳥居に向かって歩く雄座。鳥居を抜けた辺りで振り返ると、鳥居の外で驚いた表情で立ち尽くす男爵がいた。運転手も驚き車から飛び出している。
(これは何ぞ月丸の悪戯に間違いないな……。)
「雄座君が……消えた……」
驚く男爵の元へ雄座が戻ってくる。再度姿が現れた雄座に、男爵達は再び驚いた。
雄座が聞くところによると、煉瓦家屋に向かって歩いて行った雄座が、壁に吸い込まれるように消えたらしい。
とは言え、その煉瓦家屋の壁が雄座には見えていない。
「では、失礼ながらお手を引かせて頂きましょう。」
そういうと雄座は男爵の手を取り、鳥居に歩を進めた。
男爵が壁にぶつかると思って体に力が入った矢先、男爵の目には古びた、しかし丁寧に掃除の行き届いた美しい境内が目に入った。塀に沿って並ぶ木々は青々とした葉を纏い、深緑の香りを立たせている。
そして小さくも本殿の前に立つ拝殿は、古いながらも尊厳たる姿を男爵に見せた。
「これは……誠に神社だな。雄座君……」
雄座と男爵が振り返ると、運転手が驚いた顔で立ち尽くしている。
「これは驚いた。雄座君。この神社は一体どうなっているのかね?」
男爵の問いかけに雄座も首をかしげる。
「さて……。私には最初から神社が見えているもので……。なぜ見えないのかは私には分かりませんが、理由を知っていそうな者なら知っていますよ。」
怪訝な表情をしている男爵を安心させようと、雄座は笑みを浮かべて言葉を続けた。
「まぁ、何より和代さんのためにお参りを済ませましょう。そこら辺の神社よりはご利益がありそうでしょう?」
雄座の言葉と笑みに男爵も力が抜けたのか、釣られて笑う。
「確かに。こんな不思議なことが起こる神社など中々無いが……まるで狐か狸にでも化かされているようだ。」
それでも不可解な現象を体験した男爵は、一先ず目的を達することにしたようである。その手はすでに雄座の手を離し、拝殿へと歩を進めていた。
男爵は賽銭を投げ入れ、鈴鐘をならして、二拝二拍手し祈願した。雄座も釣られて同じく二拍手し手を合わせた。
男爵はゆっくりと目を開き、一拝した。
男爵はふぅ、とため息をこぼし、また元来た道を車に向かって歩み始めた。雄座には掛ける言葉も見つからず、ただ見送るだけであった。
その時、ふと声がした。
「老人、狐が憑いておるようですな。」
男爵がつと足を留め、声の方へと顔を向けた。雄座も目を向けた。
いつの間にか拝殿の横手に月丸が立っている。
「月丸、狐とはどういうことだ?」
拝殿を降りながら雄座は月丸の元へ向かう。
月丸は雄座に目をやると、苦笑いを浮かべた。
「雄座。お前は本当に不思議な男だ。まさか他の人間までここに立ち入らせるとは……。」
雄座は月丸の言葉に疑問を感じつつ、先程の問を繰り返した。
「月丸、狐とはなんだ。御前に憑いておるのか?」
男爵も立ち尽くし二人を見ている。月丸は雄座の問に答える事なく、老人に向かった。
「老人、お前さん…狐に何ぞご縁があるように見受けられますよ?」
男爵はうつむいたまま何も答えなかった。月丸は続ける。
「それもどうやら悪意を持つ狐の気配を感じる。もうご身辺に何か起こっていそうではありますな。」
月丸の言葉に男爵は、つと口を開いた。
「雄座君、この方は巫女様かな?」
男爵の言葉に雄座が口を開いた。
「私の友人の月丸です。この神社の宮司です。何か心当たりがあるなら、この月丸はその類の話に明るい。お話されてみてはいかがですか?」
男爵は月丸に目を向けた。白銀の髪、赤い瞳ではあるが、その美しく穏やかな見目で月丸を娘と勘違いしているようである。
「月丸さんというのか。本当に狐がお見えになるのですか?」
男爵はまっすぐ月丸を見ている。その目は真剣且つ不安の色が見えた。月丸はそれを見逃さなかった。
「良かったらお話下さい。雄座の知り合いであれば私も多少は力になれるかもしれない。」
月丸の口調は静かで穏やかだった。男爵はじっと月丸を見ていたが、ふぅっと大きなため息をつくと目を伏せた。
「御前…。」
雄座も男爵に促した。しかし男爵は雄座へ向き直し、笑顔を向けた。
「すまないね。雄座君。私はその手の話は信じない性質でね。これで失礼するよ。」
男爵はそう言うと鳥居の方へを歩をすすめたが、やがて立ち止まり雄座を見た。
「あぁ、雄座君、一度うちに来て和代にも顔を見せておやり。あの子も少しは元気が出るかも知れん。」
男爵はそう言い残し、すたすたと鳥居へと向かう。雄座は鳥居にある、自分に見えない壁を思い出し男爵を追う。
結果としては社を出る分には雄座の力は不要であったようだ。ただし鳥居を出た瞬間、やはり煉瓦屋の壁であったのだろう。一時、何もない空間をまるで壁を撫でている動作をする男爵を見て、雄座はそれを悟った。
少しの間を置いて車の走り去る音だけが聞こえた。
「雄座、あの老人は知り合いか?」
月丸は拝殿の縁側へ向かって歩き出した。釣られ雄座も後を追う。
「あぁ、私の父と親交のある男爵だ。もっとも今は隠居されているが。昔は家族で往き来しておったので、もはや親戚みたいなものだが…」
雄座は気になった質問を口にした。
「月丸…狐、とは一体…。」
自ら言いかけて、思い出したかのように雄座は鳥居を指差す。
「その前に、御前達はこの社が見えていなかったぞ。俺はお前が何か悪戯でもしていると思ったが、何なのだ?」
雄座の言葉に、月丸が笑う。その姿に、やはり悪戯であったか、と呆れる雄座。
「面白いなぁ雄座は。お前さんを騙す悪戯ならともかく、見ず知らずの老人をからかおうなどとは思わんよ。」
成る程。そう思いつつ複雑な表情を浮かべる雄座。
「まずは座って待っていなさい。お茶でも出そう。」
月丸はそう言うと拝殿の廊下に消えていった。雄座は言われるままに縁に腰を下ろし、必死に頭を働かせた。
「狐」
古くから人を化かす逸話が多々ある。雄座の頭の中には様々な逸話が浮かんだ。
有名どころではおとら狐や九尾の狐あたりであろうか。
おとら狐。
長篠のおとら狐ともいい、憑いた人間の口を使って長篠の戦を語る。おとら狐は長篠の戦を見物中に流れ弾に当って負傷したという狐で、そのため憑かれた人間は、おとら狐が負傷した場所に苦痛を受けるという。
白面金毛九尾。
中国の物語で現れる怖ろしい妖怪である。
中国で国を滅ぼし日本に渡ってきた。後に鳥羽上皇に寵愛されるも姿がばれ宮中から逃げ出す。その後人を喰らい続けたため滅ぼされ巨大な毒石へと姿を変えた。
物語ではもっとも怖ろしい狐である。
他にも狐に関わる怪談など数多くある。
雄座は空を眺めつつ狐の出る昔話などをひたすら考えた。
とはいえ、狐憑きといえば、男爵のように穏やかな風は無くなるのが定石である。
男爵には、昔から狐憑きにあるような発狂したような素振りはない。
雄座は所詮自分の知る狐話など昔話の迷信であると分かっている。事実は知らない。
そこで、考えるのを諦め、月丸を待った。