しき 捌
道満は一人、社の前に立つ。
無論、社など見えるわけがない。しかし、何もない此処に何かがある。そう思える。
死姫は先程の式神から吸い上げた霊力で、神にも手が届きそうな霊力を得ている。昼間に見た天狗。天狗もかなり強大な妖怪だが、今の死姫ならば、倒せるであろう。そして今の力に更に天狗の力を上乗せすれば、この目の前にある不思議な結界を力押しに破ることができるやも知れない。
そうすれば、死姫の祈願は果たされるであろう。それから如何なろうとも、道満の知った事ではない。今は死姫との約束を信じ、この結界がなんたるかを調べる必要がある。そのためには死姫は邪魔であった。この様な退屈な時間を死姫は好まない。後ろで騒ぎ立て、邪魔されるだろう。
ならば天狗狩りに向かわせた方が、此方としても都合が良かった。
「さて、始めるか。」
一言溢すと、懐より二枚の符を取り出す。
「ひと、ふた、みよ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たりや」
呟き、手に持った符を辺りに投げる。
「此が元に降り座し生せい。金鬼、隠業鬼。」
道満の言葉と共に、天より符に向かって一陣の光が落ちる。やがてその光は消える事なく、姿を変えてゆく。
十尺はあろう巨大に、盛り上がる黄金色の筋肉を纏った金鬼。
二尺程度の小柄で、黒い布で体を包み、その容姿は見てとれない隠業鬼。
符より現れたるはいづれも先刻の温羅同様、神が類に当たる鬼神である。金鬼には歪な太い角が頭に生え、一糸纏わぬ姿である。隠業鬼は頭から黒い布を被り、その顔は見えない。しかし布から隠れ見える角は、鬼のそれである。道満は鬼神達を一瞥すると、口を開く。
「世に混沌をもたらした悪名高き藤原千方の四鬼が内の金鬼、隠業鬼よ。この地に在るこの結界、如何にして破るや。」
そう訊ねる道満に低く身震いする様な恐ろしい声を返したのは金鬼。
「我を呼びし不届きな陰陽師よ。何処に結界などあるや?その様なもの、見えぬし感じぬわ。」
巨大な体を腰から折り、道満を見据える。正に鬼と言わぬばかりの恐ろしい表情に、道満は臆す事なく見返す。
「金鬼よ。お前のその大きな目は節穴か?その壁には結界が張られておろうが。名高い鬼神のくせに見えも感じもせぬか?ならばお前には結界を壊すことすら叶わぬな。」
道満の言葉に金鬼の額に、体の節々に、太く黒い血管が浮かび上がる。愚弄されたとでも思ったのだろう。金鬼の表情に怒りの色が見える。
「何を言うか!我は鬼神の中でも一番の剛力と謳われる金鬼ぞ!良いだろう。この様な壁。蹴り壊してくれる。」
金鬼はすっくと立ち上がると、その鍛えられた右足で、壁を蹴り崩した。
がらがらと音を立てて崩れ落ちる煉瓦の壁。
「如何だ。この程度の壁など、結界があろうとなかろうと、我にかかれば如何と言う事はない。」
振り返る金鬼を一瞥もせず、崩れ落ちた壁の内側に目を凝らす道満。
木造で土壁に覆われ、壊れた壁から、ばらばらと土壁が剥がれ落ち、土間に散らばる。土間の奥には一段高く、床板が敷かれている。板敷の中央には火の消えた囲炉裏が見えた。
「さぁ、先程はよくも愚弄してくれたものだな。陰陽師よ。こうして容易く壊してやったのだ。礼は安くないぞ。」
金鬼は口元におぞましい笑みを浮かべる。恐らく、愚弄されたことに腹を立て、道満を喰らおうとでも言うのか、金鬼は隠業鬼に目配せすると、道満を前後に囲んだ。しかし、道満は相変わらず崩れた家屋の中に目を凝らし、暫くするとにやりと頬を緩めた。
「金鬼よ。やはり此処には結界がある。この壊れた家屋の中、お前には何が見えよる?」
道満の問いに、金鬼は振り返り、蹲み込んで家屋の中を見る。その後ろから、道満が尋ねる。
「下は土の土間だな。」
「うむ。土間だ。」
道満の言葉に金鬼が答える。
「ならば板敷は見えるか?」
「そんなものはない。」
道満の言葉を金鬼が否定する。しかし道満は気に留めずに問う。
「奥の壁には藁蓑が見えるか?」
「そんなものはない。」
やはり否定する金鬼。道満は更に問う。
「ならば金鬼よ。お前に見えるものは何ぞや?」
道満の問いに金鬼が答える。
「土間には大小の石が転がっておる。後は干し肉が吊るしてある。」
その回答に道満はむう、と声を上げると、隠業鬼を見る。
「隠業鬼よ。お前にはこの家屋の中に何が見える?」
隠業鬼は何も言わずに家屋の中に目をやる。
「土間などない。全て畳敷だ。その上に屏風が倒れている。奥の壁には蓑も干し肉もないが、槍が一本、飾られておるな。」
隠業鬼の言葉に、道満はにやりとした。そして目を瞑ると、大きく息を吐き、かっと目を見開いた。
「やはり此処には結界がある。種は判らぬが、儂等をたぶらかしよる。金鬼の足蹴で壊れたと思い込んで、幻を見せられたわ。」
そう言うと、道満は金鬼と隠業鬼を交互に睨みつけ、言葉を続ける。
「先程の光景を思い出してみよ。此処には煉瓦の壁があった。そう見せられている。そして金鬼が壁を壊したと思い込んだ為、壁が崩れた様に見せられているのだ。」
道満の言葉に、金鬼は怪訝な顔をしながら改めて自分が壊した壁を見る。隠業鬼も同様に道満から壁に目を移すと、そこには金鬼が崩した筈の壁が何もなかったかの様にあった。
「ぬう」
金鬼は苛立った様に拳を振り上げ、再び壁を崩す。がらがらと音を立てて壁が崩れ落ちる。
結界により、その様に見せられている。
目を瞑り、元の壁を思い出し、目を開くと、やはり崩れずに立つ煉瓦家屋の壁が存在している。
「陰陽師よ。何故気付いた?」
静かに隠業鬼が道満に問う。
「家屋の中にそれぞれが見たものは、それぞれの記憶にあるものだ。だから儂やお前ら鬼が見えていたものとは違うものが見える。儂の見える家屋の中は、儂の知る風景に似ていた。恐らく、結界が、その者の記憶から景色を作り出しているのであろうよ。」
道満は壁に目をやったまま、隠業鬼に答えた。その答えに、隠業鬼はふむ、と頷く。
「陰陽師よ。お前の言うとおり、何かしらの結界は存在するな。だが俺の目から見ても、その結界が見えぬし感じぬ。ならばこの結界を張ったのは…。」
隠業鬼の言葉を遮り、道満が言う。
「神か、妖霊よ。」
隠業鬼は黙し、道満の言葉に同意した。頭の回転の速い隠業鬼とは異なり、ただ拳を振るい、結界に苛立ちをぶつける金鬼。しかし力任せに破れる結界ではないであろう。
月丸と雄座は境内から一部始終を見ていた。
暫し前に立ち去った道満と死姫。神田邸か、あやめの元に向かっている様である。神田邸に置く式神の猫からそう感じる。この猫は同じ式神でも、本物の猫を依代としている。力も使えず、意のままには動かせぬが、猫の見たものは月丸も見え、猫の感じた気配を感じることができる。月丸の力を送る事はない。そのかわりに長きを結界の外で動ける。
その猫は神田邸にいる様だが、大きな妖気を纏った者が、銀座から屋敷のある麹町の方へゆるりと移動しているのを感じる。和代を狙おうとしているのか、それともあやめを狙おうとしているのか。いずれにしろこの邪な気配を感じてあやめが動くであろう。
あやめは天狗の姫として月丸から見ても高い能力を持つ。大丈夫だと思うが、死姫には妖力を吸い上げる力がある。月丸はあやめの元へ行く為に雄座を起こして事を説明し、雄座は快く承諾した。
二人して小屋を出ると、鳥居の外には一人、道満が戻っていた。丁度、金鬼と隠業鬼を降ろしたところであった。
「月丸…。あれは鬼か?」
大きく目を見開き驚く雄座。月丸はうんと頷くと、雄座に答える。
「本物の鬼だ。式でもなく、鬼の神を降ろした様だな。」
雄座の目に映るのは、十尺程もあり、筋骨隆々、その顔は正に昔から伝えられる様な鬼と呼ぶにふさわしい恐ろしい顔付きに、太い角が生えている。
驚き佇む雄座に、月丸は説明した。
「あのでかいのは金鬼と言う鬼神だ。体が硬く、その力は無手で金剛石をも砕ける程と言われておる。そして奥にいるのは隠業鬼。彼奴は頭が切れる。そして気配を殺して、獲物を狩る様な奴だ。」
雄座は巨大な金鬼にだけ目が行っていた。月丸の言葉に目を凝らすと、成る程。道満の横手に黒い布をかぶった者が居る。それでも二尺はあろう。雄座から見れば巨体には変わりない。
雄座がはっとする。
「金鬼に隠業鬼…。藤原千方の四鬼か。」
ぽつりと呟く雄座に月丸が問う。
「藤原千方の四鬼とは何だ?」
雄座がふむと頷くと、月丸に言う。
「太平記の中に日本朝敵事と言う話があってな。当時の豪族、藤原千方が金鬼、隠業鬼、水鬼、風鬼を連れて朝廷に謀反を起こしたのだ。まぁ、最後には藤原千方が討たれて鬼は去ったらしいが、朝廷にも甚大な被害を与えた鬼と記憶している。」
相変わらず、雄座の記憶の良さに、つい、ほほう、と感心の声を上げる月丸。金鬼や隠業鬼は知ってはいたが、物語で伝えられていようとは知るはずもない。
「後で詳しくその物語を聴きたいものだな。」
月丸はいつもの笑みを雄座に向けると、鳥居に向き直す。 その刹那、金鬼の巨大な足が鳥居を襲った。この結界のため、鳥居自体には何ら影響はなかった。だが、金鬼は何やら自慢げに道満に語りかけている。
「向こうでは何が見えておるのだろうか。」
雄座の疑問に、月丸も笑う。
「残念ながら、俺も外の事は分からぬのだ。すまんな。」
雄座もああ、と納得し、話題を変えた。
「しかし鳥居の前に居られてはあやめさんの元に向かうのも出来ぬな。どうする?月丸」
雄座の言葉に、さて、どうしたものかと溢し、月丸は黙した。
雄座に連れ出してもらい、即座に彼奴らを討てば、直ぐにでもあやめの元へ行く事は出来るが、雄座は顔が知れている。道満の面前に出れば、自分が鬼どもを討つ間に、雄座が襲われるとも限らない。真っ先に道満を討つとしても、鬼神二匹にやはり襲われるやも知れない。しかし、雄座を頼らねば何も出来ないのは理解している。
「俺が戦えれば、こんな事を考えなくても良いのだろうが…。」
そう肩を落とす月丸に、雄座が尋ねた。
「なあ、月丸よ。お前が戦えば、鬼などものともしないのか?」
危機感のない雄座の声に顔を上げる月丸。
「そうだな。鬼神程度、どうと言う事はない。」
雄座は月丸の答えに、そうか。と返し、鳥居を見る。
「あやめさんも心配だし、お前も先程の仕返しをしたいだろう?だから、あの鬼を釣り上げてしまおう。」
魚釣りの真似事をしながら、雄座が提案した。
「釣る?一体どう言う事だ?」
流石に月丸でも雄座の言葉の意味が分からなかった。雄座はにまりと無邪気に笑いながら説明した。
まず、月丸と雄座が手を取り、社から出られる様にする。そして、月丸が腕だけ結界の外に出して、鬼を引き摺り込もうと言うものだ。
「幸い、あの巨大な鬼は先程から鳥居を壊そうと殴るために腕を伸ばしている。その刹那を狙って掴んで引き込めば、あの鬼を捕まえる事が出来るだろう?」
普段は自ら荒事には首を突っ込まない雄座が、自ら鬼を社の中に引き込もうと言う。成る程、社の中であれば雄座を頼らずとも力を出す事が出来る。分身ではなく、自分自身であれば、鬼相手でも雄座に危険を与える隙など与えない。
「珍しいな。雄座。お前が自分から藪を突く様な手を思い付くとは。」
月丸の疑問に、雄座は視線を空に逃がし、苦笑いを浮かべながら答えた。
「月丸。お前が俺を守ってくれている様に、俺もお前の役に立ちたいのだよ。あんな化け物と戦う事は出来ぬが、ちょっとは役に立ちたいのだよ。」
雄座の言葉に、月丸は呆けた顔で雄座を見返す。やがて月丸は声を上げて笑い始めた。月丸の笑いに雄座は顔を赤くする。
「笑う奴があるか。稚拙な考えかも知れんが、俺なりに何とか力になりたいと思って考えたのだぞ。」
照れた様に慌てる雄座の肩に手を置き、月丸は首を横に振る。
「俺は社から出られず、いざとなれば役にも立たない力に、情けなさを感じていた。でも、何とか力になりたい、そう思っていたのは雄座、お前も同じと知って笑ってしまったよ。」
妖が類の頂点に位置するとされる妖霊でありながら、先程までは自らの無力を嘆いていた。しかし、目の前の雄座は元々無力でありながら、月丸のために、あれこれと思案し役に立とうとしてくれている。
雄座が言う。
「もう、お前が負けるのを見たくないしな。以前、あやめさんに聞いたのだ。月丸と分身では、天と地程も力の差があると。ならば俺に出来るのは、道満や鬼を社に入れる事だけだ。」
月丸はうん、と頷くと、雄座に微笑みかけた。
「では、鬼退治に向かうとしよう。」
雄座と月丸は鳥居に向かって歩を進めた。




