しき 参
流石の月丸も、雄座が訪れるのを予知できるわけではないのであろう。火鉢に火は入っておらず、雄座が小屋に入ると薄寒い。
月丸は小屋に入ると、以前雄座に見せたように、入戸から火鉢に指を向けると、火鉢の炭に火が入った。
「座って暖まっていると良い。茶を用意する。」
月丸の言葉に、雄座は素直に従い、火鉢に手を当てる。やがて暫くの後、部屋も雄座も暖まってきた頃に月丸がお茶の用意を終え、雄座の隣に座した。
「さて、雄座よ。先程、鳥居の前に立っていた男。知っているか?」
座り、お茶を一口啜ると月丸が雄座に問う。
「いや、見覚えもないな。寧ろ、月丸や社を狙ったというなら、お前が知らねば、俺が知る余地もないよ。」
湯飲みを両手で持ち、指先を温めながら雄座が言う。月丸は、そうか。と頷くと、雄座をじっと見つめた。指を温めていた湯飲みを口に運ぶ雄座を見ながら、数百年ほぼ同じ日常であった月丸に、これ程色々なことを与える雄座に月丸は感心した。
くすりと笑うと、月丸が口を開く。
「知らぬ方が危ういので、言うておこう。先程の式は、雄座、お前を狙っておったぞ。」
月丸の言葉に雄座は首を傾げる。
「ちょっと待て。俺はあんな異形の烏に狙われる謂れはないぞ。」
腕を組み、考え込む雄座に、月丸は手をひらひらと振り、雄座の視線を向けさせると、人差し指で雄座の横に置かれた包みを指した。
雄座は苦笑いを浮かべながら包みを取る。
「ああ、すまんな。土産のワッフルだ。茶受けにしてくれ。」
そう言いながら雄座は包みを開けて広げた。甘い香りが広がり、月丸が嬉しそうに大きく鼻で息を吸い込む。
「すまんな。この香りにはどうしても勝てぬ。」
月丸は笑いながら、ワッフルを摘み、口に運んだ。美味しそうに頬張る月丸は、いつもの月丸である。先程、異形の式神を燃やした時に見せた、厳しい顔付きは既にない。これには雄座も緊張が解けてしまった。
狙われたのは自分だと言われたが、この調子なら大した事はないのか。雄座はそう考えた。
ワッフルを食べながら、月丸が話を続ける。
「さて、先程の式神は、社の結界に当てられ、術が解かれていた。それを俺が社の力を遮る結界を張って、改めて式の姿に戻させたものだ。」
月丸の言葉に、あの淡い光の玉の正体に納得し、雄座が頷く。月丸は言葉を続ける。
「使役される式神自体の力は、術者の力によって強くも弱くもなる。先程のはかなり高位の式神だぞ。顔は猿、体は烏、足は人の腕。恐らく「鵺」の一種だ。そして鵺を生み出したあの呪符は、陰陽師のそれだ。」
むう、と唸る雄座に、月丸は続けた。
「鳥居の外に居た男。恐らく彼奴は陰陽師であろう。そしてお前を狙っているのも彼奴で間違いなかろう。」
腕を組み、月丸の話を聞いていた雄座が、眉間に手を当てながら月丸に問う。
「ならば尚更。俺に陰陽師の知り合いなど居らぬし、怨みを買う筈もない。そもそも陰陽師自体、昔の官職ではないのか?」
雄座の言葉に月丸が頷く。
「まぁ、昔の話かもしれぬが、俺の師も野良の陰陽師だったし、野にも存在はするぞ。ただ、今の世にあれ程の式を使役できる者が居るのは驚きだな。」
月丸の言葉に、雄座は不安そうに訊ねた。
「そんな陰陽師が、俺を狙っている、と言うことか……。本当に身に覚えがないぞ……。」
月丸はワッフルを口に運ぶと、いつもの様に微笑む。
「ここで考えても仕方ない。取り敢えず何故雄座が狙われたのか、聞いてくれば良いのだ。」
月丸の言葉に雄座は首を傾げる。
「誰に聞くと言うのだ?」
雄座の問いに、微笑んだまま、月丸が答えた。
「まあ、直接聞けば良いのではないか?」
それから暫くの時が過ぎ、既に時計は十八時を指す。一月のこの時間は、既に日も落ち、すっかりと夜の様相である。しかし、場所は銀座。月明かりと瓦斯燈、店の明かりでそれなりに明るい。
雄座は鳥居から一人道へ抜け出た。視線を落とし、自分の掌を見つめている。指を曲げ伸ばし、何やら感覚を確かめている様である。目線を上げると、いつもの帰り道ではなく、新橋方面へ歩き始めた。
「また現れた。昼間の男の霊気だ。」
ドーマンは昼間、自分の式神が消えた場所に現れた霊力を感じ、隣に立つ女に言う。ドーマンの呟きに、女はふぅ、っとため息を溢して、一言言い放った。
「ならさっさと捕まえるんだよ。今度は大丈夫だろうねぇ?」
嫌味な笑みを浮かべ、ドーマンを見上げる女。そんな女を無視して、ドーマンは歩き始めた。
「俺の式を壊す程の妖相手だ。久しく居らなんだ楽しませてくれそうな相手だ。手を出すなよ。」
言葉を残し、雄座を感じる方向へと歩を進めるドーマン。その後ろ姿を眺めながら、女はふん、と鼻で笑った。
「偉そうによく言うよ。私が居なけりゃ生きていけない奴が。」
一人呟くと、先を行くドーマンの背を追った。
雄座は帰る方向ではないが、すたすたと新橋手前、汐留川に架かる難波橋までやってきていた。時々、辺りを見回しながら、橋のたもとまでやってくると、欄干に寄り掛かり、雲に隠れた月明かりを眺めていた。
既に夜の様相とはいえ、何時もなら十八時頃なら人通りもありそうだが、雄座の見える一帯には人影すらない。遠くに聞こえる市電や自動車の音が微かに耳に入る。そんな雑音に聞き入る様に雄座は動くことなく空に目をやっていた。
やがて雄座は目を川沿いの通りに向ける。川沿いには柳が等間隔で植えられては居るが、見通しは良い。煉瓦家屋の影に溶けてはいるが、居る。全身黒い洋服に身を包んだ男である。雄座はにやりと口元を緩めると、背に当てていた欄干から体を離した。
「俺に式を放ってくれた奴だな。そんなところから見ていないで、近くで話でもせぬか?」
雄座は全く臆することなく、男に対して言う。雄座の言葉に、家屋の影から現れたのは、男ではなく、七尺(約2m)はあろう異形であった。
のそりと足を踏み出す異形。
「ほう。次の式は鬼か。」
雄座が感心したかの様に声を漏らした。
現れた異形を、雄座は「鬼」と言った。全身が獣の様な毛で覆われ、狒々(ひひ)の様な顔を持つ。その額からは三本の歪で尖った角が伸びている。そしてその手には錆びて、曲がった大太刀を持つ。大太刀をじゃりじゃりと引き摺りながら、ゆるりと近づいて来る鬼。雄座は後ろにいる男に再度話しかける。
「できれば今後のために、穏便に話し合いたいのだが、如何かな?」
男の返答を待つ雄座。だが返答よりも早く、鬼がどたどたと駆け出し、手に持つ大太刀を雄座目掛けて振り下ろしてきた。
どん。と大きな衝撃音と共に、鬼の大太刀は地面を穿つ。先程までそこに居た雄座の姿はない。鬼が辺りを見回すと、道の真ん中、鬼の背面に雄座が立っている。
「あまり無茶をするな。この辺りは自動車も走るのだぞ。こんな穴を開けては通れなくなるではないか。」
雄座は鬼を見ながら説いた。鬼は再度大太刀を振り上げると、雄座目掛けて打ち下ろした。雄座は表情も変えずにそれを横飛びにひらりと躱す。
大太刀を躱し、そのまま鬼の懐に潜り込んだ雄座。右の手を鬼の胸にぺたと付けると、鬼は淡い光に包まれ動きを止めた。雄座は手を鬼に当てたまま、黒服の男を振り返った。
「おい。あまり続けるならこの式も破らねばならぬ。どうだ?そろそろ話に応じてはもらえぬか?」
黒服の男はゆっくりと影から姿を現した。雄座は注視するが表情までは判らない。しかし、その殺気は十分なものである。話に応じる気はない事は明らかであった。
男は右腕を振り上げると、一枚の札を投げた。
「生座せい。温羅。」
男のボソリと呟く声が雄座に届く。雄座はふう、とため息を溢し、手を付けていた鬼を瞬く間に呪符に変えて、燃やしてしまった。
そして雄座の前に立つのは、先程よりも遥かに大きい体を持つ鬼である。
巨大な体は、通りの二階建ての煉瓦家屋よりも遥かに大きい。
「ほほぅ。式とはいえ、温羅を使うか。お前、一体何者だ?」
雄座は驚く風でもなく、男に尋ねる。男は表情を変えず、懐から数枚の呪符を取り出すと、何やら呪を唱え始めた。それに合わせて温羅と呼ばれる巨大な鬼が、雄座目掛けて殴り掛かるが、ひらりと躱す。
温羅は躱された事に怒ったのか、耳障りな呻き声を上げると、川辺の柳を無造作に掴み、根から抜き取ると、雄叫びを上げ、柳を振り回しながら雄座に走り寄る。
「酷いことをする。柳の精霊が可哀想ではないか。」
振り回し、勢いの付いた柳が雄座を襲う。
ぶぅん
大きな風切り音を響かせ、柳は横薙ぎに雄座を直撃した。黒服の男は、にやりと口元を歪ませると、数歩、近付いた。
「貴様。ただの妖ではないな。」
黒服の男が呟く。
雄座は涼しい顔のまま、片手で柳を受け止めていた。温羅が柳を押そうと引こうと、びくともしない。温羅に目を向けたまま、雄座が応えた。
「ああ。妖霊の加護を受けた者、と、しておこう。お前こそ、陰陽術を使うのであれば人であろう?何故、妖の気配を纏う?」
雄座の言葉に、男は刹那、険しい表情を浮かべやがてすぐに声を上げて笑った。
「くふ…。くはは。はははっ。妖霊の加護だと?これは良い。ただの餌かと思っていたが、そうか。それは良い。お前を辿れば、妖霊に行き着くのだな。」
雄座は男の笑いを気に留めず、改めて問う。
「答えよ。お前は人か?妖か?何故俺を狙う?」
雄座の問いに、男は笑いをやめた。その目には先程までにはない怪しい光が宿っている。
「俺の名は芦屋道満。古き世に既に死人となった者よ。強い霊気を喰らおうという女がおるので、お前を捕まえようとしたが、まさか、妖霊に繋がるとはな。」
そう言うと、道満は手を前にかざすと、温羅はすっと呪符に返り、温羅が持っていた柳は音を立てて地面に落ちた。
呪符はひらひらと道満の手に戻る。
「妖霊の加護を受ける者であれば、小手先の術は効かぬであろう?」
そう言うと道満はにやりと怪しい笑いを浮かべた。




