しき 壱
ごーん。
ごーん。
遠くから除夜の鐘が鳴り響く。
普段は既に寝静まる零時近く。いつもなら風の音、木々の揺れる音、そして虫の音に包まれる銀座も、大晦日の今日だけは未だに賑わいがある。
浅草や神田明神などでは、朝まで除夜詣や元日詣客で賑わうそうだが、銀座では主に新年を祝って近所の者で集まり、辻々で祝いの酒を煽っていた。その為、普段なら夜の闇に飲まれる社の界隈にも、提灯や洋燈の明かりが溢れる。
世間ではまた戦争があるのではないかとのきな臭い噂が広がっている。例え戦争になっても、清や露西亜を打ち破ってきた常勝不敗の日本帝国には負けはない。と、口では言いつつも、人々の心の奥底には不安が広がりつつある。そんな中、やはり正月は心躍るもので、辻から聞こえるのは、
良い年になると良い。
去年よりも繁盛したいね。
等々、心中の不安を掻き消すかのように夢を、願いを込めた声に賑わっていた。
雄座は大晦日の昼間から月丸の神社にいる。いつもより多い酒と子爵から貰ったという煮しめや煮豆、田作り等、御節の詰まった重箱を抱えてやって来た。雄座曰く、年篭りだという。年篭りとは、大晦日から元旦にかけて家長が氏神神社に篭り、旧年の無事の感謝と新年の無事を願うものである。その為、妖霊宮御神社を氏神神社とする雄座を月丸は笑ったが、
「お前も俺からしたら生き神みたいなものだ。」と笑う雄座に、呆れつつも、喜んで雄座の酒に付き合うこととなった。
大晦日の夕刻ごろには、一度あやめも暮れの挨拶に顔を出した。秋頃の河童化け以来、会う機会がなかったが、どうやらあの一件以降、和代の守護と、近隣で人知れず害をなす妖の討伐などを密かに行っているらしい。あやめも日が落ちる前には帰っていった。それからは雄座と月丸の二人は、火鉢を囲みながらゆるりと時を過ごした。
元旦の夜には雄座も帰り、一人で拝殿の濡れ縁に腰掛ける月丸。ふと空を見上げると、冬の澄んだ空にくっきりと月が浮かぶ。
ふぅっとため息をつく月丸の口元は笑みが溢れたまま、誰に言うでもなく言葉が溢れた。
「雄座のおかげで、楽しむ事を思い出せた。師様やすずが側に居てくれる事も知れた。いつまで雄座が共に居てくれるかは分からぬが、雄座に出会えて良かった。」
さて、と月丸は拝殿の濡れ縁からひょいっと立ち上がると、空に向かって声を上げた。
「お師様。すず。今日は正月だ。共に祝おう。雄座が持ってきた酒もまだあるしな。」
そう言うと、月丸は満面の笑みを浮かべ、師の想いの残る小屋へと戻っていった。
こうして穏やかな正月が過ぎていった。
明治四十六年一月
鉄道が整備されて以降、遠くとも有名な社寺への詣が比較的容易となって来た。その為、新橋の駅は詣客や里帰りの客などで混雑していた。
新橋駅の周辺は普段のそれとは異なり、まるで祭りのような人出を見せる。そんな旅客を目当てに、路上では出店、屋台が並ぶ。この時期だけは、銀座の賑わいよりも遥かに新橋駅前の方が賑わっている。田舎へ行くのか、帰って来たのか、土産を詰めた大きな風呂敷を背負う者、鉄道で社寺詣に行くのか、羽織り袴に外套を纏う者。そのいで立ちも様々である。
そんな中、一組の男女が改札を出てきた。男の方は黒い帽子を目深にかぶり、顔は分からない。黒い洋装に黒い外套と、全身黒尽くめの様相であった。女の方は、長く美しい黒髪を後ろで束ね、銀の髪飾りで留めている。やはり洋装で、細かく刺繍の入った淡い桃色の外套に身を包み、細やかな刺繍で飾られたシルクの光沢ある白いスカートにブーツという姿。
二人はお互い隣に立つ相手を見る事もなく、駅前の雑多な風景を眺める。
「あらあら、さすが帝都東京と言われるだけはあるわね。色んなモノが居るのねぇ。」
女は景色に目を向けたまま、嬉しそうに言う。その言葉に男は沈黙を返す。そんな男に女は眉間に皺を寄せる。
「ふん。面白味のないこと。さぁ行きなさい。成就は間も無くよ。」
女が言うと、男は静かに歩き出した。
数日後。
一月も中頃となり、年明けのお祭り騒ぎはすっかりと収まり、銀座は普段の色を取り戻していた。雄座はと言えば、連載小説の仕事に追われ、正月以降、自宅に篭り仕事に専念している。新聞での連載に加え、婦人雑誌での連載も始まることとなり、年明けとは言え雄座は忙しく過ごしていた。
「ふう……。」
自室の文机に座る雄座は、大きく息を吐くと、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「出来た。」
頭の後ろで手を組み、天井を仰ぎ見ながら雄座が呟いた。新聞の方も婦人雑誌の方も、この十四、五日で僅かだが書き貯めることができた。一先ずは余裕のある仕事ができる状態になった。数日まともに寝ていない。このまま眠っても良い。帯に付けている懐中時計を見ると、まだ午前十一時を過ぎた辺り。これだけ明るいと、今寝るのも勿体無い。仕事に専念し始めてから、家にあった干し芋や干し飯などばかりであった。雄座は飯を食いに行くついでに元旦以来であった月丸の元へ行こうと考えた。
顔を洗い、着物を着替えて綿入れを着込むと、雄座はさっさと家を出た。久々の外の空気は雄座の頭をすっきりとさせる。冬の冷たい空気も、疲れた雄座には心地良い。何となく気分も良くなり、白い息を吐きながら、腕を抱いたまま銀座へと足を向けた。
一方、あやめは神田御前と共に銀座は煉瓦街の用品店へと来ていた。神田御前が、孫娘に洋服を買ってやりたいと言い出た。そのため、普段が洋装のあやめに見繕ってもらうため、付いてくるように言われたのである。御前と共に婦人服を扱う洋品店で商品を眺めている。
あやめから見ても、和代は見惚れる程器量が良い。着飾る事もなく、着物で過ごしているが、透き通った美しさである。あやめとしては和代を更に引き立てられる洋服を仕立てようと、先程から真剣に見て回っているが、既に一時間以上、店の者と話しながら物色している。御前としては、ただ立っているだけで、あやめに連れ回され、若干疲労の色が見て取れた。
「この様な洋服も和代様にはお似合いになると思いますよ。」
時々、御前に洋服を広げ見せるが、良し悪しの解らぬ御前は、すぐに
「ではそれを貰おう。」
と、決めてしまう。すると、あやめが、
「あ、でもこちらのブラウスも、レースや刺繍が綺麗。」
と、無かったことにしてしまう。既に数店で同じ事を繰り返している。政界ではそれなりの地位にいる御前を振り回しているあやめに、運転手などはその光景に肝を冷やしていた。
「御前様。決まりました。」
あやめの声に御前の顔に明るさが戻る。目の前にはブラウスやスカート、ワンピースやコートなど数十点が並ぶ。加えて、ブローチやネックレスなどの装飾品も並べられており、その隣ではあやめが自慢げな表情で、御前の評価を待っていた。
「ほう、これはこれは…。どれも和代に似合いそうだ。では全部買わせてもらうよ。」
御前の言葉に店の者は総出で準備を始めた。品物の数が多いため、二人は店の応接室に通され、お茶が出された。ソファーに深々と腰掛け、御前はふぅと息を吐いた。
「あやめさんに同行して貰えて助かったよ。儂では全て同じように見えてしまう。反物などは何となく良し悪しが解るが、洋服にはどうも疎くてな。」
御前は出されたお茶を口にすると、再度ふう、と、息を漏らす。あやめは笑顔で御前に答えた。
「こちらこそありがとうございました。和代様のお似合いになりそうな洋服を選ぶだけで、それはもう楽しくて。」
そのあやめの笑顔に御前がふと思い出したように静かに語り出した。
「和代が病から回復したのは、儂の知り合いから紹介された宮司のお陰なのだよ。君を見ていると、何となく、その宮司を思い出す。」
あやめは、直ぐに月丸の事と悟った。しかし、それを口にすることはなく、お茶を口に運びながら、惚けた。
「お医者様ではなく宮司様なのですね。和代様を救ってくださったのなら、きっと良い方なのですね。」
あやめの答えに御前も笑いながら応じる。
「ああ、不思議な人だったよ。助けるのが当たり前と言わんばかりだった。人の為に事を為せる。君を見てあの宮司を思い出すのは、そういうところが似ているのかもしれないね。」
御前が真剣な表情に変わり、あやめに問う。
「あやめさん。あなたはもしかして、あの神社の御使いなのでは……。」
御前が言い終わるのを待たず、店の者が準備を終え入ってきたため、この話は終わった。御前が自分に対して、月丸の使いと思っているようである。色々詮索されては堪らないので、あやめもこの話を蒸し返すつもりはない。店の前に止めてある自動車に、購入したものを店の者が運び入れると、御前とあやめは車に乗り込み、店を後にした。
「和代様にはきっとこの桜色のドレスがお似合いになると思います。それにこのブラウスの刺繍の綺麗だこと。」
車の中で先程購入したものを御前に見せながら、楽しげに語るあやめ。当の本人としては、先ほどの会話を蒸し返されぬよう、かつ、怪しまれぬように洋服の話で誤魔化しているに過ぎない。
自動車が丸の内方面へ曲がろうとした時、あやめは窓の外に立つ男女と視線が合った。洋装の男女。男は帽子から外套から黒尽くめである。女の方は長い髪を後ろで束ね、桃色の外套に身を包む。
女はあやめと目が合うと、にぃっと怪しい笑いを浮かべた。
「あの二人……。人では無い。それに強い悪意を感じる。」
あやめの背筋がぞくりとした。直感的にあの二人が危険であると認識したのである。しかし、今は御前もいる手前、手を出すことはできない。御前に話しながらも、自分の持つ妖気を最大に放った。ただの妖怪ならば天狗のその妖気に当てられれば臆してしまい、動けなくなるだろう。あやめは気を張り詰め、二人の気配に注意しつつ、通り過ぎて行った。
あやめの乗った自動車を見送りながら、桃色の外套の女が不機嫌そうに口を開く。
「ちょっと。今の自動車に乗ってる奴の霊力。何で狩らなかったのよ。雑魚を狩り続けるよりよっぽど美味しそうじゃない。」
口惜しそうな女に男が静かに答えた。
「自動車に乗っていたのは強いぞ。恐らく天狗という妖怪だ。それに何某か、神の守護を感じる。アレを狩るにはもう少し力を溜めねば成らぬ。」
男は答えると、興味なさそうに銀座に向かって歩き出した。女は、ふん。と声を漏らすと、男の後を歩き出した。
男は歩きながら、顔も向けず、まるで独り言のように言う。
「お前が喰らうのに、手頃な妖気をこの先に感じる。あれで我慢しろ。」
男の言葉に女の不機嫌な顔に笑みが浮かぶ。
「あら本当。そこらの雑魚よりはよっぽど良さそうね。いいわ。あれで我慢しましょう。」
女は嬉々と歩き出した。