付喪神 参
月丸は雄座の万年筆を手に取ったまま、大きな瞳を更に見開き、動きを止めた。
先程まで雄座と共に酒を呑み語った小屋。雄座は帰路に着き誰もいない筈であった。が、それは居た。驚きの表情と共に震える月丸を他所に、それは口を開く。
「かっかっ。あの童が随分と大きくなったものじゃな。久しいの。月丸や。」
薄汚れた狩衣に白髪の短髪。白い無精髭の壮年の男であった。月丸に向かい、優しく笑みを浮かべ笑う。その姿に月丸は動かぬまま、両の目から涙が溢れ出した。
「…どういうことなのだ?何故あなたが?」
絞り出すように言葉を紡ぐが、声にならない。口が僅かに動く程度で、月丸はまるで金縛りにでもあったように動けなかった。妖気を感じない。ならば幻術の類ではない。しかし月丸の目は涙で濡れつつも、男から目を逸せない。いや、その懐かしき姿から目を離したくなかった。
「お師様……。」
男は数百年前にこの世を去った月丸の師、吉房であった。その姿は、月丸と旅をしていた頃の壮健な姿である。月丸の呟きに、吉房は声を上げて笑った。
「かっかっかっ。なんじゃ?妖霊ともあろう者がそんな情けない顔をするな。」
そう言いながら吉房は腰を上げると、膝立ちで動かぬ月丸の元へやってきて、無造作に月丸の頭を撫でた。
「お前には苦労をかけるな。本当に申し訳なく思っておった。お前のここでの長き勤め、ずっと側で見ておったぞ。立派になったな。月丸よ。」
先程の高笑いは消え、穏やかな声で吉房が言う。
頭を撫でられ、左右に揺れる月丸。夢ではない。月丸に人を教え、心を教え、優しさを教え、安らぎを与えてくれた師はここに居る。月丸はまるで子供に戻ったように吉房に抱きつき、声をあげて泣いた。
「苦労などない。謝る必要はない。俺が好きでやっている。だからお師様のせいではない。」
しがみ付き、泣き噦る月丸の背をとんとん、と叩きながら、子を見る親のように吉房は月丸を宥めた。
「ほれ。月丸。大きゅうなったが、中身はあの頃のままではないか。すずも笑っとるぞ。」
吉房の言葉にはっとし、吉房の顔を見る。あの頃と同じ、皺だらけの笑顔を月丸に向けながら、顎で月丸の後ろを指す。ゆっくりと後ろを振り返る月丸。そこには初めて出会った頃のすずがちょこんと笑みを浮かべて座っていた。
「すっかり綺麗になったね。月ちゃん。」
何某かの妖術でもいい。そう思えた。そう思えるほど、月丸には今一度、会いたい二人がそこに居る。手を伸ばせば、頬を撫でることのできる距離に。月丸は駆け出し、すずを抱きしめた。
「月ちゃん、痛いよぅ。でも、良かった。覚えててくれたのね。」
あの頃と変わらない笑顔を向けるすずを抱きしめたまま、動けずにいた月丸の背を優しく撫でながらすずが言う。
「こうして月ちゃんに会えて、触ることができて、とっても嬉しいよ。私ね、月ちゃんが一人で頑張っている姿をずっと見てたんだよ。」
月丸の涙で濡れた頬を指で拭いながらすずが言う。その小さく暖かい掌の感覚は、すずが今、目の前に存在していることを月丸に痛感させる。
「すず…すまなかった。俺はお前に謝りたかった。ずっと守ってやると言ったのに……。」
消え去りそうな声を絞り出す月丸。その言葉に笑顔のまま首を横に振る。
「月ちゃんが、ずっとあの時のことを気にかけてくれてたのは知ってたよ。だから、私、月ちゃんに言いたかった。月ちゃん。ありがとう。どうか、自分のせいだとは思わないで。」
そう言うとすずは小さな腕で月丸の頭を抱き寄せた。
「ありがとう。すず……。」
抱き合う二人を後ろから満足げに眺める吉房。ふと、辺りを見回すと、月丸に声を掛ける。
「月丸。すずはお前が悩んでいないかいつも心配しておるよ。お前が笑っている時、お前と同じく笑っておる。お前が喜ぶ時、すずも喜んでおる。じゃから、すずを悲しませたくなければ、後悔しないことじゃ。お前が後悔すれば、すずも後悔するぞ。」
吉房の言葉にすずの顔を見る。優しく頷くすず。
「私ね、月ちゃんのそばにずっといるよ。だから、笑っている月ちゃんを見ると嬉しくなるの。」
暫しの沈黙の後、月丸が言う。
「すず、俺を恨んでいないのか?許してくれるのか?俺はお前を守ってやれなかったのだぞ?」
思い詰めたような月丸の言葉に、すずは笑って答えた。
「恨むわけないじゃない。月ちゃんは友達で、私の姉妹みたいなものじゃない。ずっと感謝してたよ。月ちゃんは優しいから、気にしてるかも知れないけど、悲しい思い出よりも、楽しい思い出を残して欲しいな。」
すずの言葉に月丸はふっと笑った。
「そうだな。すずとは楽しい思い出ばかりだ。ありがとう。すず。」
すると後ろで懐かしい吉房の高笑いが響いた。
「かっかっかっかっ!良きかな良きかな。月丸よ。儂等もお前も、あの雄座という者に感謝せねばな。」
雄座の名に驚く月丸。
「雄座?雄座がお師様とすずを呼んだのか?」
月丸の問いに、すずが月丸の手を取りながら答える。
「これが私達を月ちゃんに逢わせてくれたのよ。」
月丸の手に握られるのは、雄座が置き忘れていった万年筆であった。月丸は手の中の万年筆に目を落とす。
「付喪神じゃ。それもとても強い御力を持っておられるようじゃ。付喪神が、儂等をお前に逢わせてくれたんじゃ。」
月丸の背に立つ吉房が言う。その言葉に振り向くと、吉房は小屋を見回す。
「儂の思いはこの小屋にも残っておったのじゃなぁ。」
しみじみと言う吉房。
「私はここ。大切にしてくれてて、とっても嬉しいよ。」
すずは月丸の懐に手を当てる。月丸はすぐに気付いて懐から二つのお手玉を取り出すと、すずは満面の笑顔を向けた。
「…そうか。ずっと一緒にいてくれたのだな。お師様も。すずも。」
吉房は万年筆を月丸から取ると、祝詞を奏上する。その姿は、生前に何度も見ていた月丸。目の前の光景が懐かしさを呼び起こす。
やがて祝詞が終わると、万年筆は強く輝く。目を細め光を見る月丸。やがてその光は人の姿へと変わってゆく。黒く長い髪に優しい笑みを見せる女神であった。
「月丸に会わせて頂き、感謝の言葉もございません。」
仰々しく頭を下げる吉房。すずも合わせてぺこりと頭を下げた。二人の礼を受け、女神は月丸に目を向け、語りかけた。
「妖霊である月丸のお力を間近で受け続けたお陰で、随分と強い力を得ることができました。雄座が置き忘れて行ったので、良い機会と思い、勝手ながら恩返しにと思いまして、この地の最も想いの強い付喪を呼び出しました。」
月丸はその言葉に、二人を交互に見た。
「付喪……。お師様とすずが…?」
月丸の問いに吉房の高笑いが帰ってきた。
「かっかっかっかっ。儂等も驚いた。儂は死す時にこの小屋におったろ?そしてすずが亡くなる間際、お前がそのお手玉を持っておったのだろう。気が付いたら儂はこの小屋の付喪として。すずはそのお手玉の付喪となっておったのじゃ。」
驚く月丸を他所に、付喪神が語り始めた。
「このお二方は、貴方への愛情に満ちております。だからこそ、貴方が心配で、心を付喪として残されたのでしょう。」
吉房、すずを見つめ、月丸は笑った。
「やはり、二人にとってはまだまだ俺は童だな。心配をかけたな。でも、お師様、すず。そのおかげで二人にまた会うことができた。俺はまだ童のままでいよう。」
月丸の言葉に吉房は、はっと短く笑うと、先ほど同様に月丸の頭を強く撫でた。その光景を見守るすず。
「儂も、すずもお前に触れることができる。語ることができる。じゃが付喪神が与えてくれた幻ぞ。いつまでも童のままでは、儂もすずも安心できぬわい。」
吉房の言葉にすずはくすくすと口を隠して笑っている。そんな三人を見て、付喪神が言う。
「出来ることなら、この幸いな時を長く夢見させたいのですが、私の力ではこれが限度。どうかお二方。最後に思いを伝えてあげてください。」
吉房とすずは付喪神に目を向けると、こくりと頷いた。すずはそのまま月丸の手を取り、口を開く。
「もっとお話ししたいけど、もうそろそろお手玉に戻るみたい。」
月丸もすずの手を握り返し、不安げな顔を見せる。直ぐに付喪神に向かって懇願した。
「力が足りぬのか?ならば如何程でも俺の力を吸い取れば良い。話したいことはいくらでもあるのだ。頼む。付喪神よ。」
月丸の懇願に、付喪神の表情が曇る。
「私にもっと力があれば良かったのですが、妖霊の力を得ても、今はこれが精一杯です。申し訳ありません。」
「そんな…」
ぽん。と吉房は月丸の頭を叩いた。
「馬鹿もん。神を困らせる奴があるか。良いか?話したい時はいつでも話せ。しっかり聞いてやる。しっかり見ておいてやる。寂しがるな。儂等はずっと、お前の側におる。」
すずも吉房に同意する。
「そうだよ。私もね。これからも月ちゃんの側に居るから、寂しくなったらお話しして。月ちゃんには見えないかもしれないけど、ちゃんと聞いているんだよ。」
吉房は月丸の片手を取ると、その掌に万年筆を置くと、優しい笑みを浮かべた。
「儂等がいつでも見守っておる。お前を一人にはせんよ。」
そういうと、吉房の姿が徐々に薄くなってゆく。
「またいつか語ろう。」
その言葉を残して、吉房は消えた。それと同時にすずの手を握る感覚が鈍くなり、慌ててすずを見ると、やはり薄く透けている。
「月ちゃん。この前、雄座さんにお手玉して見せたでしょ。とっても上手だったよ。また遊んでね。」
満面の笑みを浮かべ、しかし瞳には涙を溜め、すずも消えていった。
月丸は未練の残る表情のまま、二人が消えた場所を見続けた。その目からはぽたりぽたりと大粒の涙が溢れている。
「せめて恩返しと思いましたが、私は余計な事をした様ですね。」
月丸の背から付喪神の声が聞こえる。月丸は顔を向ける事なく、言葉を返す。
「いや、付喪神様。二人と再び引き合わせていただけた事、感謝致します。あの姿をまた見られる日が来るとは思わなかった……何より…」
色々な思いが廻るのか、月丸の言葉が途切れ、沈黙が続く。
「…ずっと…側にいてくれたのだな…。それが分かっただけでも十分だ…。」
袖で目を拭うと、月丸は付喪神に向かって座り直し、仰々しく礼を取る。
「此度の事、心より御礼申し上げます。他の付喪を具現するそのお力、我が力を受けただけとは思えませぬが、いかな力を?」
改めた月丸はいつもの冷静さを取り戻したかの様に、静かに付喪神に対する。付喪神も、月丸の言葉を受け、静かに返す。
「私は雄座の想像の力により、その万年筆に宿った付喪です。彼の者の想像の力は凄まじく、時に無より世を作り出し、時に過去の出来事を今に表せる。その力の一端を、私も引き継いだのでしょう。」
付喪神はゆっくりと月丸に近づくと、膝をつき、月丸の手を取る。
「この万年筆は、雄座が母の物でした。大事にされ、母亡き後も、雄座は形見として、仕事道具として、大事にされております。そんな私が、貴方の妖気を浴びて、大きな力を得たのです。」
付喪神は小屋を見廻し、言葉を続けた。
「吉房殿、と申されましたね。雄座が今日この小屋に訪れた時、貴方に会いたいという強い想いを感じたのです。優しく、まるで貴方の親兄弟の様な。そんな想いを。」
月丸はただ静かに付喪神の言葉を聞く。
「私を高位の付喪神にして頂いた恩返しとして、今できる全ての力を使い切りました。暫くは、私もまた、万年筆に眠り、力を蓄えなければなりません。」
先程の吉房とすずと同様に、付喪神の姿も、徐々に淡くなってゆく。
「月丸様。」
名を呼ばれ、月丸は付喪神を見る。
「雄座を、よろしくお願いします。」
そういうと、具現する力が切れたのか、付喪神の姿は消えた。月丸の手には雄座の万年筆。暫しの間、月丸は動く事なく、ただ、手の上の万年筆を見ていた。




