付喪神 弍
流石に日も落ちた外濠の北風は冷たい。この冷えの中、外濠を歩くのはきつい。そう考えた雄座は、靖国神社の横を抜けて、麹町経由で銀座に出ることにした。そうすれば風をしのぐ民家もある。吹きっ晒しよりはマシである。
直ぐに足の向きを変え、麹町方面とへ向かうことにした。市電で行けば、寒さもなく楽であるが、そこは雄座。自分が使わないとなったら頑なである。
頭の中で丸山と打ち合わせた内容を整理しながら歩を進める。小道を抜けながら進むため、行き交う人も疎である。道脇の民家から夕食の準備だろうか。雄座の腹を刺激する旨そうな香りが漂ってくる。その香りで、雄座は考えを止め、現実に戻る。
「銀座に着いたら、先に飯だな。」
ほそりと呟いた。月丸は肉や魚などは口に入れないため、その様な飯は神社には持って行けない。なので、雄座が肉や魚を食うならば、一人で飯屋に行く必要があった。民家から洩れる旨そうな香りにすっかりとあてられた雄座は、仕事の考えをやめ、何を食おうかと悩みつつ歩く。
麹町をすたすた進むのは良いが、この先は帝国議事堂がある。この日本帝国の政を司る中心である。華族である父や金子子爵も貴族院の子爵議員として在籍しているが、それはまた別の話。
何でも、この帝国議事堂は、まだ仮の議事堂らしく、本施設の建造やらで忙しいそうだ。雄座も以前、観光がてら議事堂を見に来た事があった。仮の議事堂とは思えぬ程、洋風の立派な建物だった事を覚えている。
しかし、雄座はふと足の向きを変え、桜田門方面に道を逸れた。以前、議事堂を眺めに行った際、警官に呼び止められ、身分を証明できない雄座はほとほと困った経験を思い出したためである。
直ぐに東京城後の宮城周りの内堀通りに出る。先程までの小道では疎であった人通りも、内堀通りは仕事終わりで市電で帰る麹町の勤め人達が行き交う賑やかなものとなった。
ふと立ち止まる。もし、自分が、父の事業を継いでいたら、この行き交う勤め人達と同じ様に、昼間仕事をし、仕事が終われば急ぎ市電に乗って家に帰る。こんな暮らしをしていたのだろうか。街行く人々を目にしながら、ふと、そんな事を考え、笑いがこみ上げる。
「まぁ、それはないな。」
雄座は小さい声でそう呟くと、大きく伸びをした。辺りの勤め人の行き交う光景を見ながら、自分は自由にやれている事に有り難さを感じつつ、改めて銀座へ向けて歩き出した。
月丸は拝殿の濡れ縁にいた。柱に背を預け、片膝をたてて腰を下ろしている。その目は空に浮かぶ月を眺めていた。半月である。何の変わりもない月。時折、ゆるりと流れる雲に隠れながら、その淡い輝きで辺りを照らしている。
いつからか夕刻の月は輝きを失いつつあった。最初は何故だかわからなかったが、雄座と共に社の外に出て気付く。月の明かりよりも、銀座の街が明るく輝いているからだと。人の成す事は、空に浮かぶ月をも陰らせてしまう。脆弱で、非力で、いつしか護るべき者と思っていた人は、自分が社に籠もった数百年の間に、月にも届く輝く街を作るまでになった。改めて人の凄さを感じていた。
そして、その思いは、月丸にもっと人の街を見てみたい。そういう僅かな感情が自身に生まれた事に気付き、一人、語を零す。
「自分で望んでここに居るのだ。今更出ようなどと思うな。」
ふっと淡く笑うと、勢い良く濡れ縁から飛び降り、大きく伸びをした。そんな矢先に、雄座が鳥居をくぐってやってきた。
雄座は直ぐに月丸の姿を目にしたのだろう。ひらひらと手を振りながらやってきた。
「おう月丸。遅くなった。良かったらどうだ?酒を買ってきた。」
そう言いながら左手に持っていた一升瓶と子風呂敷を軽く持ち上げた。上機嫌な雄座の姿に、月丸もふと笑みを溢す。
「ああ、ありがとう雄座。呑もう。」
寒そうにいつもの濡れ縁に腰を下ろそうとする雄座に月丸が言う。
「ここはお前には流石に寒いだろう。こっちに火鉢を用意しておいた。今日はあちらで呑もう。」
そう言うと月丸は拝殿の横手にある別の小屋を指した。雄座が時々、この社に泊まる際に使われる離れの小屋であった。しかし、雄座としては暖をとれるとあらばありがたい。
「それはありがたい。今日は半日外にいたのでな。体も芯まで冷えていたところだ。」
二人して部屋の戸を開けて入ると、月丸が早めに用意してくれていたのだろう。部屋の中が暖まっていた。余程冷えていたのか、雄座は履物を脱ぐと、ささっと火鉢に寄り手を当て、至福の表情を浮かべる。
暖まった体をさすりながら、雄座は部屋を見回した。以前この小屋を使ったときは夜に寝る為であり、あまり見る事はなかったが、改めて見ると、随分と古い作りをしている。屋根まで吹き抜けており、古くも立派な柱木が縦に横に組まれている。屋根の下には僅かに板が敷かれており、物置のようになっているのであろうか。恐らく江戸以前、月丸がこの神社に籠る前の建築だろうが、風化は感じられない。家具なども特にはないが、土間にはかまどなどもあり、生活も出来そうだが、月丸が使っているのを見たことがない。何より、雄座には何故か居心地が良い小屋であった。
「どうした?きょろきょろと。この小屋には面白いものなど何もないぞ。」
月丸が酒用にと持ってきた湯飲みを載せた盆を持って火鉢のそばにやってきて、腰を下ろした。
「いや、何となく居心地が良くてな。この小屋は普段何に使っている部屋なのかが気になった。」
そう言いながら、雄座が小風呂敷を解くと、酒の肴として買ってきた漬け物を月丸と自分の間に置いた。
一升瓶の蓋を開け、月丸に差し出しながら雄座が言う。月丸も自身の湯飲みを差し出し、酒を注がれながら答える。
「特に特別な使い方はしていないよ。以前に話した師の吉房が寝起きしていた小屋だ。元々、吉房は宮の陰陽師だったのだが、辞めて以来、この社を根城にしていたのでな。」
そう言うと月丸は注がれた酒をちびりと口に含んだ。雄座も自分の湯飲みに酒を注ぐと、くいっと呑む。
「吉房殿が住んで居たのか。だからかまどなど人の気配があるのだな。」
感心する雄座に月丸が笑う。
「人の気配か。面白いことを言うな。吉房が亡くなったのは数百年も前だぞ。」
話しながら月丸は屋根を見上げて穏やかな表情を浮かべる。
「俺もその気配とやらを感じられれば良いのだがな。」
ほろりと呟き、月丸は酒を煽る。月丸の湯飲みに酒を注ぎながら雄座が答える。
「まぁ、きっと吉房殿も何処かで見てくれているだろうよ。お前の数百年の苦労や喜びを。一緒に悩んだり喜んでくれたりしているのかも知れんよ。」
雄座の言葉に月丸は目を細くし微笑んだ。
「では俺はまだ吉房にとっては童なのだろうな。数百年を経ても、まだ心配が取れぬか。でも、そうであれば良いな。」
手元の酒に目を向けながら微笑む月丸を見て、雄座は思った。自分の中に母が居るように、月丸の中にも吉房が居てくれるのだろう。月丸はその面影を求めて、当時のままの、吉房が居た頃のままの小屋を残しているのだろうな。そう思えた。
暫し心地良い沈黙の後、月丸が思い出した様に手をぱん、と叩いた。
「そうだ。雄座。昨日預かった物語を読み終えたぞ。とても面白かったので読み終えたときには夜が明けていたよ。」
「そうか。月丸のお墨付きが貰えれば大丈夫そうだ。何か気になるところはなかったか?」
雄座は満足気な表情を浮かべ、酒を口に流し込んだ。そして考える月丸を見ながら自身と月丸の湯飲みに酒を足す。
「そうだな。無垢な王子と天女の出会いはあり得ないのに、出会うのが決まっていたような運命的なものを感じたよ。まるで雄座がその二人を見ていたかのように、本当にあった話のように感じた。しかし、王子が仇の現王は、何というか、話の中の者の様で、存在が薄く感じたな。」
言い方が分からなそうに伝える月丸の言葉を雄座はふむふむと聞きながら、懐から万年筆と紙を取り出し、月丸の言う事を記し始めた。
「どうしたのだ?雄座。」
普段は穏やかに酒を呑んでいる雄座が、随分と真剣に記帳する姿に月丸も驚いた。
「ああ、すまんな。酒も入っているから、お前の感想を残して、書き直そうと思ってな。他には何か感じたか?」
随分と真面目なものだ。そう思いつつ、月丸はふっと笑う。普段は妖怪に驚いたり、慌てる雄座を見ていたが、真剣に仕事に打ち込む姿もまた良いものだ。月丸は出来る限り自分が読んで感じた良し悪しを雄座に伝えた。そして雄座はそれを逐一、紙に記していった。
やがて、夜も深まり、雄座の時計は零時を指そうとしていた。
雄座が記した月丸の感想は数十枚にもなったが、雄座は満足した顔付きで万年筆を置いた。
「月丸。お前も物書きになれるのではないか?俺が思ってもみなかったことがどんどんと出てくる。」
嬉しそうに言う雄座に、酒を一口飲み答える月丸。
「妖霊の物書きか。前代未聞だ。そもそも、お前の物語が面白く、その世界にのめり込んでしまったからそう言う見方ができたのだろうかな。」
雄座は、ふむ、と頷くと、紙を懐に入れ、湯飲みに残った酒を一気に飲み干したかと思うと、立ち上がった。
「すまん。月丸。今、頭に話が浮かんでいるうちに書いてしまいたいので、今日は帰るよ。」
真面目な男だ。そう思いながら、月丸は笑いながら頷いた。
「そうか。では鳥居まで送ろう。」
月丸も立ち上がり、二人して小屋を出た。深夜の空気は冷たく、雄座は一度身震いすると、昼間と同様に腕を抱き抱えた。
「この寒さだと、帰るまでには酔いが覚めてしまうな。」
雄座の横を歩きながら、月丸も吐く息の白さに雄座を心配する。
「大丈夫か?泊まっていっても良いのだぞ?」
月丸の言葉に雄座は首を横に振る。
「今寝てしまうと、頭の中の物語が消えてしまう。まぁ、二、三日したら書き上げたものを持ってくるよ。その時はまた読んでくれ。」
雄座はそう言いながら、鳥居を抜けていった。その姿を見送ると、月丸は後片付けに小屋に戻った。そこで月丸は、雄座が万年筆を置き忘れていったことに気付く。月丸は床に置かれた万年筆を拾い上げると、ふと笑みを見せた。
「しっかりしているのやら抜けているのやら…。まぁ、雄座らしいか。」




