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妖霊異譚  作者: 天戸唯月
第四幕 河童化け
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河童化け 拾

 雄座が社に到着すると、社は静かなものだった。無論、汐留川からここまで歩いて帰るにも、暗く静かで穏やかな夜であった。先程までの出来事が、まるで夢であったかの様である。途中、柳の下に白い女の幽霊を見た。一人歩きのためその姿を見た時、驚いたが、柳の精霊である。汐留川に向かう折、雄座が話しかけた柳だ。雄座を見るなり深々と頭を下げて、ゆるりと消えていった。川縁にて存在する柳には、河童化けなんぞが居たのでは気が気でなかったのだろう。


 雄座は鳥居をくぐり社に入ると、突然女の泣き声が聞こえた。雄座はふと気付き、鳥居から外に出る。やはり静かな夜である。再び鳥居をくぐるとやはり泣き声が聞こえる。外の音は社の中からはさほど聞こえない。逆もまた然りという事か。


 頭を切り替え泣き声を辿ると、千代という芸妓が拝殿の前で顔を覆いすすり泣いている。そしてその隣には月丸の分身である童が千代の背中をさすりながら宥めていた。その分身が顔を上げる。


「おかえり。雄座。最後は一人にしてすまなかったな。」


 月丸は申し訳なさそうな表情を浮かべるが、千代の背からは手を離さない。


「ただいま。それは構わないが、それより佳乃さんは…」


 佳乃の名を聞き、千代が震える声で言う。


「私のせいです。私を逃したせいで…姐さんが…あんな…」


 佳乃の言葉に、月丸が千代の頭を抱き寄せ、優しく語りかける。


「佳乃はお前を助けたかったからそうしたまで。決してお前の所為ではないよ。先程も言うたが、佳乃はこの様になって尚、お前を逃がそうと必死だった。お前の佳乃を助けたい一心が、雄座や俺達を引き込めたのだ。お前のせいではないよ。」


 そう言いながら千代の頭を撫でる。そして雄座に目をやると、


「雄座、今拝殿の中で俺とあやめで佳乃の治療をしている。なのでお前も、ここで暫く待っていてくれないか?」


 月丸の言葉に頷く雄座。何となく安堵する。妖怪では最高位という妖霊と天狗の姫が介抱しているなら助かる気がする。根拠はないが、雄座はそう思った。ならばと雄座は右手に持つ若枝を月丸に差し出した。


「月丸。頑張ってくれた分身おまえだ。どうすれば良い?」


 分身に分身の事を聞くのも不思議なものだが、今千代を宥めているのも、分身であってもまた月丸。雄座の言葉を聞き、優しい微笑みを見せる。


「雄座。お前が元に戻しておいてくれないか?その枝も、お前の事をすっかり信頼しているから。」


 そう言いながら、千代をさする手と反対の手で一本の桜の木を指差した。数刻前、社を出る前に月丸が分身を現した木である。何の疑いもなく雄座はその木に向かう。桜の木を見ると、根に近い位置に剪定された様に枝の根本が残るのを見つけた。雄座は持っていた枝に話しかける。


「ありがとう。よく頑張ってくれたな。」


 言い終わると小さな枝の根本に持っていた若枝を合わせる。合わせた箇所を握る。雄座の想いが届いたのか、若枝はまるで月丸がそうしたかの様に、切られた跡なく、元に戻っていた。社にいるからだろう。要領は判らないが、月丸がやるのと同様に枝を木に戻す事ができた。


(此方こそありがとう)


 雄座の耳に僅かに響く声。雄座には今の声が先ほどの若枝だと理解できた。枝を一撫でし、月丸の元へ戻った。


 千代が泣き続け、月丸が宥めている。雄座には何もできず、歯痒く感じるが、今は待つことしかできないのであろう。そう思って、口を閉じたまま、時が過ぎるのを待った。




 やがて拝殿の戸が開く。その音に千代が這い寄った。


「姐さんは…姐さんは大丈夫ですか?助かりますか?」


 戸を開けたあやめにしがみつき、問いかける千代。あやめは助かるとも助からなかったとも言わず、千代を見続けた。不安で心を満たした千代が、あやめを押し退け、拝殿の中へ押し入った。

 布団に寝かされ、体は拭かれ、擦り傷などは月丸が癒したのだろう。あの洞穴で見た哀れなまでの痕は無くなっている。


「大丈夫。命は取り留めた。だが、起こさない様に静かにしてくれ。」


 月丸の言葉に、千代は脱力したかの様にしなだれ崩れ、佳乃の手を握り声にならない嗚咽を溢した。拝殿の入り口から、雄座と月丸の分身がその光景を見ている。月丸は雄座に入る様に目で促した。雄座もこくりと頷き、月丸の側に歩み寄った。二人の動きを確認した後、あやめは静かに戸を閉める。


 月丸は千代の肩に手を置き、語る。


「佳乃は、お前の姐さんは、河童化けという妖怪に拐われ、散々な目に遭った様で、心が壊れてしまっている。俺は体の傷は癒せるが、心の傷を癒す事は出来ない。このままでは、お前の姐さんは二度と笑う事なく、ただ生きていくことになるだろう。」


 月丸は佳乃を治療しながら、妖術により佳乃の心に触れていた。そしてその心は恐怖や苦痛、怒りや悲しみ、絶望に染まり、すでに壊れていた。

 月丸が言葉を続ける。


「先程あやめとも話したが、佳乃を救うために俺が出来ることはこれしか無い。ただ、人ではない俺やあやめの方法が正しいのかが判らない。だから、雄座、千代。お前達に決めて欲しい。」


 雄座は黙る千代の代わりに言う。


「どういう方法なのか、言ってくれ。」


 月丸はこくりと頷くと、目を佳乃に向けたまま語り始めた。


「千代。お前と佳乃のこの二日間を無かった事とする。」


 月丸が言うには、起こってしまった事をなくす事は出来ないが、千代と佳乃、そして関わる者達が、河童化けなどには出会っていないと思えば、それが真実であり、起こった真実が夢幻となる。


 雄座はふと、月丸と出会った日を思い出した。夏の暑い盛り、月丸は桜を咲かせて見せてくれた。そして、妖術かと問う雄座に、術であろうが、その時たまたま咲いたであろうが、その目で見たものが真実である。そう月丸は答えた。


 雄座はすぐに、月丸が河童化けが居なかったという二人の真実を作り出し、それを現実にする。そう理解した。雄座は千代を見る。


「もし姐さんが助かるなら、今までみたいに笑ってくれるなら、私の命でも何でも差し上げます。どうか、どうか姐さんを助けて。何でもしますから。」


 千代に縋られた月丸は真剣な表情で雄座を見た。その視線に雄座も月丸に顔を向け、静かに頷いた。すると、ふと、月丸の表情に優しさが戻る。そしてしなやかな動きで千代の額をつん、と、人差し指で突いた。千代はその場に倒れ伏す。眠っているだけなのは、千代の吐息で知り得た。


 月丸は二人を並べて寝かせ、静かに術を施す。


 月丸の唇が小さく動いている。何やら術を唱えているのか。しかし雄座の耳には聞こえてこない。しかし、二人にかざした月丸の掌が淡く光り、揺らめいている。その淡い光は、雄座から見ても何故か心地良い。心穏やかとなる光である。ふと横を見ると、あやめも月丸の僅かな動きにみいっている。


 やがてその淡い光が月丸の手から二人を包む様に広がってゆく。その輝きは僅かな光のまま、暫く二人を包んだ。見入る雄座には、一体どれほどの時間が経ったのかも判らない。数秒だったのか、数時間だったのか。やがて、光がゆるりと消えていき、拝殿の中は、行燈の仄かな灯りのみが揺らめいている。


 二人は並べられた布団で静かに寝息を立てる。術が終わってもなお、静かに二人を見守る月丸。雄座もあやめも、一言も発する事なく、その光景を見ていた。


 月丸に術を施された佳乃は恐怖や怒り、絶望と言った負の感情により虚となった表情から、徐々に生気を帯び、頬に血の気が戻ってゆく。千代も憔悴し、哀しみで満たした表情は既に無く、無垢に眠っている。

 二人の中に河童化けに与えられた忌まわしき記憶は消え失せた。雄座はそう、理解した。












 窓から入る日の光と暖かさに千代は目を覚ました。椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。慌てて目を擦り、目の前のベッドを見る。そこには佳乃が眠っている。


 二日前の夜、お座敷からの帰り道。三十間堀川の木挽橋で佳乃とふざけ合って居たら、千代の脚がもつれて、転びそうになる。咄嗟に助けに入った佳乃が転んでしまい、運悪く頭を打ってしまった。千代は慌てて人を呼び、この診療所に運んでもらったのだ。

 佳乃は丸一日目覚めず、千代は不安の中、ずっと側にいて佳乃の手を握っていた。ずっと後悔した。


「ごめんね、姐さん。私が橋の上でふざけなきゃ、姐さんに痛い思いをさせなかったのに…。」


 懺悔の言葉を口にする千代。その言葉に、いつの間にやら目覚めた佳乃が優しく言葉を返す。


「…何言ってるの。千代が無事ならそれで良いわよ。」


 千代が驚いた様に顔を上げる。佳乃は千代の手を解くと、その手で千代の頭を撫でた。


「転んだのは覚えているけど、あんたずっとここに居たの?髪も崩れてるし、目も腫れて……心配させたのね。ありがとう。」


 千代の髪を撫でながら、佳乃は優しく微笑みかけた。


「姐さん、二日間も目を覚まさなくて、心配で心配で……良かった…本当に良かった…。ごめんね、姐さん。」


 千代は佳乃にしがみつき安堵の涙を流した。その泣き声に診療所の医者が駆け付けて佳乃の目覚めを確認した。その後、診療所で診てもらった後、もう大丈夫だろうと昼の二時頃には帰れる運びとなった。

 二人は診療所の先生に頭を下げて礼を言い、帰路に着く。


「千代?置屋のおかあさんには連絡したの?」


 置屋とは芸妓が生活する場所である。置屋の女将おかあさんは置屋を経営する主人であり、千代や佳乃にとっては本当の母親の様に慕う女将である。


「診療所の人が伝えてくれているそうよ。おかあさんも心配してたって言ってたわ。」


「二日間も寝ちゃって、お仕事できなかったからねぇ。おかあさんには体もお仕事も心配させちゃったねぇ。」


 頬を手で包みながら、困った様な口調で語る佳乃。だがその表情は満面の笑顔である。何故かは判らないが、置屋に帰れるのが嬉しくて堪らない。

 千代もそんな佳乃を見て嬉しくなる。無事で良かったが、それ以上に何故か佳乃がいるだけで嬉しかった。


 やがて二人は新橋にある置屋に着いた。佳乃が引き戸に手をかけると、ばん、と勢いよく戸が開いた。佳乃と千代が驚いていると、中から出てきたのは少しふっくらした年配の女将さん。


「おかあさん。ただいま。ごめんなさいね。遅くなっちゃった。」


 そう佳乃がいうと、女将も両の目から大粒の涙を溢しながら佳乃と千代を抱きしめた。


「あんた達心配したんだからね。一昨日から帰ってこなくて、そしたら佳乃が頭を打って意識がないなんて、診療所の使いの人が言うもんだから……。」


 ああ、診療所に行くためにこんなにおかあさんは慌ててたんだ。それに気付いて女将に抱かれながら嬉しくなる二人。

 玄関先の騒ぎに、置屋の他の芸妓もやってきて、二人の無事を心から喜んでいる。




 そんな光景を少し離れたところから、雄座と月丸は眺めていた。


「幻が現実となり、現実は幻となったな。」


 雄座がほっとした様に呟く。

 二人の記憶は月丸が妖術によって作り出したものである。佳乃と千代の記憶は、河童化けにより与えられた恐ろしい二日間ではなく、ちょっとした事故によるものと改竄された。そしてその記憶では、この二日間、社に居たのではなく、診療所で治療を受けていた事となった。無論、そんな診療所など存在しない。しかし、二人の記憶が一致する事で、それは二人にとって現実となる。佳乃と千代は社の鳥居を抜けたその刹那、月丸の改竄通りの記憶を基として今に至る。

 心を壊された記憶が無いのだ。佳乃も以前と同様のままとなった。


 置屋の女将に診療所の使いとして説明に来たのは雄座の仕事であった。あやめは和代の元に戻らなければならなかったし、月丸の見た目では診療所の使いと言っても信じてはもらえまい。結局、雄座の見た目も身なりも、何より生真面目な性格の表れている顔から、雄座が一番それらしいだろう。と言う事となった。二人を社から出す前に、雄座が一足先にここに来て女将に経緯を語っていたのだ。


 月丸もふぅっとため息と共に言葉を紡ぐ。


「あの夜がなければ、佳乃が壊れることもない。佳乃や千代があの夜を知らなければ、思い出す事なく、平穏な生活に戻れるだろう。俺達の事も、河童化けの事も、二度と思い出す事はない。」


 雄座が月丸を見遣ると、二人の姿を見る月丸の目が優しく澄んでいる。月丸は先程まで、自分の術で、彼女らの運命をねじ曲げた事の良し悪しを判断できないと悩んでいた様だが、二人の姿を見る月丸の顔には、穏やかな安堵が広がる。


 雄座は視線を喜び合う芸妓達に戻し、月丸に言う。


「月丸。お前のした事は人助けだ。お前の術で千代さんや佳乃さん達が、記憶を改竄されたからと言って、感謝する事はあっても、お前を恨む事はないよ。あれだけ心が壊れていた佳乃さんが、今はあんなに笑っている。今、目の前にあるあの光景が、お前の作ってくれた現実だ。」


 月丸に向かい直し、やはり雄座も穏やかな微笑みを浮かべ、月丸に語を続ける。


「俺が言うのもなんだが、ありがとう。月丸。」


 月丸も雄座を真っ直ぐに見ていたが、ふっと目を閉じて笑った。そのまま目線を変え、佳乃と千代達が置屋に入って行くのを見届け、一言、呟く。


「雄座。お前は本当に変な奴で、良い奴だ。」




 月丸はくすりと笑うと踵を返し、雄座に言う。


「ならば雄座よ。どうせなら褒美でも貰いたいものだ。実はこの前食べさせてもらったワッフルの味が美味しくて忘れられんのだ。」


 月丸の言葉に、一度は驚く顔をした雄座も、直ぐに笑い出した。


「はは、お安い御用だ。折角だ。ワッフルだけとは言わず、色んな洋菓子を食べさせてやる。」


 そう言うと月丸の手を取り、雄座が唯一知る洋菓子店、あやめと行った店へと向かうべく、銀座通りを目指して置屋を後にした。


 

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