河童化け 漆
咄嗟に叫んだものの、あやめには声が届かない。月丸には聞こえているはずだが、変わらずあやめの話に相槌を打っている。
急ぎ雄座が二人の元へ掛けようとした時。
千代が言っていたのと同じ様に、月丸の足首をがっちりと黒く大きな手が掴んでいた。
直ぐにその気配に気付いたあやめの手に小太刀が現れ、月丸を掴む手を切り落とそうと小太刀を振り上げたその刹那。
「た、助けてー。」
あまりにもわざとらしい声を出しながら、月丸はあやめにしがみついた。月丸に抱きつかれ刀を振れないあやめ。
次の瞬間、月丸は掴まれた足を引っ張られ、あやめから手が離れると欄干の間から川へ引き摺り込まれていった。
どぼん
橋の下から水に落ちる音が聞こえた。その音で血の気の引く雄座。
「月丸!月丸ー」
川面に叫ぶが月丸の返事はない。あやめを見ると、いつの間にか現れていた二つの大きな影、河童もどきに囲まれている。
(何だよ。月丸もあやめさんも手が出ないほどこいつらは強いのか?)
黒い影を見ると、雄座自身より背は高く、腕の太さからも自分より力を持つ者と見てとれる。自分が挑んでも明らかに勝てそうに無いが、あやめを助けて月丸を救わなければ。
雄座は拳を握り、あやめを囲む河童に向かう。緊張し、鼓動が早くなり、汗が噴き出す。全身に鳥肌が立つ。それでもあやめを助けるべく、河童もどきに殴りかかろうとした時、河童もどきは二体とも、どさりとあやめの足元に倒れ伏した。
何が起こったか分からず、あやめに目を向ける。そこには何事もなかった様に小太刀に付いた液体を払うあやめ。
「雄座さん。居ますか?」
「あ…。ああ、ここに居る。あやめさん、月丸が…。」
あやめの問いかけに雄座が答える。が、その声はあやめに届かない。しかし、あやめは雄座を見る事なく、言葉を続ける。
「居るのなら、私の手を握って下さい。」
あやめがそう言いながら差し出す手を見て、今の雄座は月丸にしか見えないのを思い出す。慌ててあやめの元へ駆けて手を握る。握られた瞬間あやめもびくっと肩を竦める。
「えっと、月ちゃんなら心配しないで。捕まる振りをしてこいつらの隠れ家を見つけるそうよ。」
あやめの話では、月丸に抱きつかれた時、月丸の策を聞かされたらしい。自分が捕まるからそのまま逃すように。そして残った者を倒してその正体を確認するようにと。
「だから、心配しないでね。月ちゃんは大丈夫だから。」
あやめの話を聞いて、雄座は安堵から膝を付いて蹲み込んだ。
「あの馬鹿、先に言ってもらわねば判らぬであろうが。人がこれだけ心配したと言うのに。」
繋ぐ手から、雄座の安堵があやめに伝わる。あやめも気を取り直し、雄座の手を離す。
「さて、月ちゃんの言う通り、こいつらの正体を拝んでやりましょう。」
そう言うとあやめは胸の前で手を握り、ゆっくり開く。開いた手の平に、ふわりと小さな鬼火のようなものが蒼白く光っている。それを倒れる黒い者の顔に近づける。雄座も膝をついたまま横目で見ている。鬼火によって黒い影の姿が浮かび上がる。まるで黒い水草でも身体中から生えているように身体中に大きく黒い葉のようなものが生えており、顔は判らない。だが、その姿だけでも雄座の顔を痙攣らせるのに十分であった。
「やはり、妖気がなかったわね。」
そう言うと、あやめは蹲み込み、河童の頭に生える葉を掴む。そして一言、うん?と言う疑問の声を漏らした。あやめは迷わずその葉を引っ張ると、ずるりと顔の全ての葉が取れた。
「うわ」
顔の皮が全て剥がれたように思えた雄座が、つい声を漏らすが、あやめに聞こえていないのは幸いである。
あやめは頭の形が残る葉の塊を見て、眉を潜めた。
「雄座さん。これ、ただの黒い布切れを重ね合わせた頭巾だわ。」
葉と見えた物は布切れである。頭を隠すように袋状に作られた頭巾、その頭巾全体に短冊状に切られた黒い端切れ布が乱雑に縫われている。水に濡れた状態で、夜にでも出会えば、成る程化け物に見える。
あやめは手に灯る鬼火を倒れる河童の顔に近づける。そこには、既に生はなく、死人となった坊主頭で、皮膚が腐りかけた大人の男であった。
「そういうこと。どおりで妖気が無い訳だわ。」
そう言いながらもう一人の河童もどきの頭巾も外すあやめ。そこから現れたのは、やはり死人であった。
二つの河童もどきの死人を見ると、既に亡くなってから幾日と経っているようで、二体とも顔の所々が腐り落ち、既に眼球も落ちているのか、目元が黒く窪んでいる。この様な亡骸を見るのは初めてである雄座は、口を押さえ、腹から込み上げる不快なものを抑えるのに必死であった。
そんな雄座の姿の見えないあやめは、状況を知らせようと雄座が聴いているのを前提で語り始めた。
「恐らく、この者たちは水死した者たちの亡骸。可哀想に、何者かにこんな格好にされて操られている様ね。ほんの少し、操る術を掛けられたであろう何者かの気を感じるわ。」
そう語るあやめの声を聞きながら、雄座は込み上げる胃液を押さえ込みつつ、苛立ちを感じた。死体を操り、河童のせいにして、娘を拐う。黒幕は一切出て来ずに悪事を働く。この者達も操られている以上、死した後に望んで悪事を働いているわけではあるまい。何と卑劣なことか。
何者かも知らないが、この黒幕は許せるものではない。だが見る事しかできない、何の力も持たない自分がもどかしかった。
やがて死人の手が動き出す。ゆっくりと体を起こそうと手を地面につく。
あやめがふう、と深いため息をこぼすと、何かを決めた様に言う。
「可哀想だけど、この亡骸はせめて私が消滅させてあげるわ。このままにしておくと、また操られて誘拐に加担させられる。魂は彷徨うことになるけど操られたままよりはまだ救いがあるわ。」
あやめが立ち上がり、小太刀を構えると、その刃全体が白く怪しい光を発した。
死してなお、いい様に操られて、望まぬ悪事を犯すより、その方がこの者達にとっては幸いなのかも知れない。そう感じた雄座。素直にあやめの言う通り、後ろに離れる。
あやめが光を纏う小太刀を振り下ろした刹那、その刃が河童もどきとなった亡骸に届く直前でふわりと止まる。
驚く表情を浮かべるあやめが、何かに気付くと、ふっと笑った。
「流石は御妖霊。この者達を救って頂けるのですね。」
そう言うと小太刀を下ろした。後ろから見ていた雄座は何が起こったか判らない。
「何がどうしたと言うのだ?」
雄座の呟きにあやめが答える。
「御妖霊の術は魂も操ることができるの。この者達を操る者から解き放ち、魂を浄化してくれるみたいよ。」
あやめの言葉を聞きながら、目はその光景を見る。二つの亡骸の少し上、見ているだけでも暖かい光が浮かんでいる。
やがて光は少しづつ大きくなり、二つの亡骸を包んだ。
次の瞬間、
ーありがとうございます。ー
光の中からそんな言葉を聞いた雄座。理屈はわからない。自分の思い込みなのかもしれないが、ああ、彼らの魂が解放された事を感謝しているのか。そう考えた。
やがて光が徐々に小さくなり、消えていった。そして光と共に、河童もどきとなっていた二つの亡骸も、既にそこにはなかった。後に残るは化け物に見せる為の布切れが乱雑に縫われた頭巾と服であった。
「あんなに優しく暖かい術、初めて見るわ。月ちゃん、本当に御妖霊なのかしら…もしかしたら別の…。」
あやめの思考は雄座に肩を叩かれる事で止まった。
「何かわからんが、良かったんだよな?」
そう言う雄座に頷き返すあやめ。そのあやめの所作にふと雄座が気付いた。
「あやめさん、俺の声が届いているのか?」
こくりと頷き返すあやめ。
「さっきの光、雄座さんの手首に巻かれた御妖霊の髪の毛よ。離れたから雄座さんの結界も解けたんだと思う。」
そう言われて手首を見ると、成る程、月丸が結んだ毛が消えていた。守ってもらえて有り難いが、月丸が居なければあやめとも意思疎通できないので、丁度良い。
「雄座さんも見える様になったし、早速月ちゃんを追いかけましょう。」
あやめの言葉に雄座も頷く。
「そうだ。あやめさん、月丸の場所が判るのか?」
雄座の言葉にあやめが頷く。
「一応、と言っておこうかしら。お昼の月ちゃんは全く妖気を放ってなかったけど、今の月ちゃんはわざと妖気を出してる。多分、私達に場所を教えようとしてくれてると思う。」
そう言うとあやめは三十間堀川沿いを歩き始めた。それに合わせて雄座も歩を進める。
「では、月丸の妖気を辿れば良いのだな。妖気を感じると言うことはまだ無事なのだな?」
歩きながら喜色を浮かべる雄座。そんな雄座を見ながら、微笑ましい気分になるあやめ。いくら分身の身とはいえ、伝説上の大妖である御妖霊に何かあるとも思えない。それでも本気で御妖霊を心配している雄座の人の良さを感じた。
「雄座さんにとっては、月ちゃんは御妖霊や妖ではなく、月丸さんなんですね。」
自分で納得した事を口に出すあやめ。突然その様な事を言われて雄座は戸惑う。
「月丸は月丸だろう?何かおかしいのか?」
いいえ、とあやめは首を振った。お互いを友と言い合う二人が少しだけ羨ましかった。
二人は銀座から新橋方面に向けて、三十間堀川沿いを早足で歩いている。月丸に何かあってはと、急く雄座の後を少し小走りになっているあやめ。夜で瓦斯灯もない川辺を二人は月丸の妖気を頼りに歩を進める。
「また離れているのかしら。月ちゃんの妖気が弱まってる気がする。」
あやめの言葉に不安を感じる雄座。
「それは、月丸に何かあったということか?」
つい語気を強めあやめに訊ねる。
「分からない。でも急いだ方が良いのでしょう。」
そうか。と雄座が返すと、二人は自然と駆け出した。
暫く走り、河童探しを始めた出雲橋を越えたところであやめの足が止まる。
「やっぱり、月ちゃんの気が弱くなってる。近付いているのは間違い無いのに。」
きょろきょろと辺りを見回すあやめ。まるで月丸の気の出所が分からなくなった様に不安な声で呟いた。
「妖気が弱くなったということは、月丸が弱っているということでは無いのか?頼む。月丸を見つけてくれ。あやめさん。」
雄座もあやめの不安を感じとり、焦る声を出す。先ほどまで向かっていた先を見る。この先には三十間堀川と重なる汐留川が流れる。川幅も広がり、探すのが困難になってしまう。その先、雄座の目に薄白く光る人影を見る。それは昨晩見た者とは違う別の、表情は見えないが、長い髪に白い着物を纏い、淡い光を放つ柳の精霊であった。
「柳の幽霊…。」
雄座は月丸の言葉を思い出す。
(優しい柳などは道の先で危険がありそうな時はあの姿で人間に語りかけようとする。)
「あやめさん!来てくれ!」
そう言うと柳の精に向かって雄座は駆け出した。慌ててあやめも後を追う。雄座の駆ける先を見ると、柳の精霊が見える。あやめにしてみれば、ただの柳の木の精霊である。何の力も持たない精霊に雄座が何をしようとしているのかが判らない。
やがて雄座は柳の精霊に向かい合い、頼み込むように声を出す。
「すまないが、貴方の声は俺には判らない。だが教えて欲しい。最近現れる河童もどき。この先の道を進めば、その様な禍が起こるか?」
雄座の言葉に、柳の精霊は一度驚いた表情を浮かべるが、直ぐに優しい表情に戻る。そして、こくりと頷くと、ある一つの方向を指差す。それを見て雄座は再度問う。
「その方向に、禍があるのだな?」
雄座の問いに柳の精霊もまた頷く。
「あやめさん!」
雄座の呼びかけに、あやめは柳の精霊が示した方向に意識を集中する。目を閉じると、揺らぐ微弱な月丸の妖気を感じる。そしてその妖気の元を辿る。
「見つけました。」
あやめが感じる妖気と、柳の精が示す先が一致する。二人は頷くと、柳の精霊に礼を告げると、月丸の元へと足早に駆け出した。
やがて辿り着いたのは川面を漆黒に染めた汐留川。僅かに浜離宮寄りに下った川辺。二人が川辺を駆けていると、あやめが驚いた様に立ち止まった。
「どうした?あやめさん。」
あやめは雄座の言葉を無視して、川を覗き込む。
「月ちゃんの妖気が強くなった。この近くよ!」
見ると川辺の石垣の一部に、ポッカリと黒い穴が開いている。雄座とあやめはそれを見て頷き合った。
誤字のご指摘や感想を頂き、月丸や雄座を見ていただけている事を実感し、とっても幸せです。
読んでいただけている皆様に心から感謝致します。
ありがとうございます。これからもどうぞ宜しくお願い致します。