河童化け 陸
やがて夜も更け、月の光が辺りの輪郭を美しく照らし出す。雄座が懐中時計を取り出すと、二十三時を回っていた。普段通りの月丸と異なり、雄座は落ち着かない。これからどのような化け物と出会うのか、無事に佳乃を助けられるのか、月丸やあやめが怪我を負う事はないだろうか。様々な不安が湧いてくる。そんな不安を振り払うように、雄座は首を振った。
「来たようだ。」
月丸の声に鳥居に目をやると、和服姿の娘が一人入ってきた。普通の人にはこの社には入れない。あやめである。だが、洋装の姿しか知らぬあやめが、花の刺繍の鏤められた若草色の和服姿で現れたため、雄座も月丸も、あやめが側に来るまでつい目を離さず眺めていたため、雄座たちの前に足を止めるまでに、あやめの顔はほのかに赤らんでいた。
「そんなにこの格好、おかしいですか?」
照れるように言うあやめに、月丸が微笑み言葉を返す。
「いや、とてもよく似合う。流石は天狗の姫だな。」
雄座も月丸の言葉に同意する。
「ああ、元が美しいと、洋装でも和装でも、何を着ても綺麗なものだ。」
特に煽てるつもりはないが、あやめも元々人ならざる者であり、その器量も人の範疇ではない。下心なく、月丸も雄座も目の前のあやめを見た素直な感想であった。そんな二人の言葉を聞き、照れたようにあやめも微笑む。
「お二人にそう言われると、照れますね。昼間の話を聞いて、普通の娘を装ってみました。」
そう言いながら袖を摘みひらひらと揺らすあやめの姿に二人は苦笑いを浮かべた。
「さて、役者も揃った。どうするのだ?月丸。」
早る雄座に月丸が頷く。
「まぁ、焦っても仕方がない。暫くあやめには三十間堀川の川縁や橋を歩いてもらうしかないな。河童もどきを釣り上げるしか、今のところ手はないだろう。」
月丸の言葉にあやめもこくりと頷く。
「妖気を残さない以上、御妖霊の言う通り、誘き出すしかありませんからね。私はそれで構いません。」
月丸とあやめの会話に雄座も言葉を発する。
「では月丸。俺はお前とあやめさんの後ろを離れてついて行くとしよう。何かあればすぐに……」
提案する雄座の言葉を月丸が止める。
「いや。雄座はここに居た方が良い。柳の話では女が一人二人で歩いていると現れるそうだ。男の姿を見て現れなくても困るしな。俺とお前はいない方が良いだろう。」
助ける者が居るのだから、今日現れてくれなければ困る。ならば月丸の言う通り、河童を捕まえる必要がある以上、自分はここに留まった方が良いだろう。だが、月丸はどう見ても男には見えないし、一緒に行くべきであろうが、月丸自身、性別を持たないため、その様な認識はないのであろう。そんな思考と自分も力になりたいのと、河童を見たいと言う感情が混じり、雄座は沈黙してしまう。
そんな雄座を他所に、月丸はあやめに向き直した。
「と言う訳だ。あやめならそこいらの妖には敗れる事もないだろうし。すまないが一人で囮になってもらう。」
月丸の言葉にあやめも笑顔を溢す。
「私は大丈夫です。御妖霊のご期待に応えて見せます。でも…。」
あやめは苦笑いを浮かべながら雄座に目を向ける。月丸もつられて雄座を見ると、まるで除け者にされた子供のように、沈んだ表情で佇んでいる。
その雄座の姿に、月丸とあやめの二人はくすりと笑った。
「雄座。分かったよ。お前は俺についてきてくれ。俺が何とかするから、そんな顔をするな。」
笑いながら月丸が言うと、雄座は自分の複雑な感情が顔に出ていることに気付き、顔を赤くする。
「いや、別に俺は共に行きたいとかではなく、力になれないことをだな……。」
言い訳をする雄座に月丸はうんうんと、子供をあやすように頷きながら、自らの髪を一本抜き、雄座の手首に結んだ。すると雄座の体が一瞬光に包まれた。雄座は自分の手や体に目をやる。何も変化がない。しかし、あやめだけが驚いている。
「雄座さんの姿が消えた……。」
目を丸くするあやめと、何が起こったか判らない雄座に月丸が説明する。
「雄座に術をかけた。俺以外の妖には雄座の姿が見えなくなる。ただ、加減ができないのであやめにも見えなくなってしまうがな。姿も、気配も消えるなら、河童もどきが現れても雄座には気付かぬであろうよ。」
そう言う月丸に今度はあやめが問う。
「それではもし、雄座さんに何かあったら、私では守りきれませんよ?」
雄座が立っていた場所に目を遣りながらあやめが言う。その姿は雄座からは見えているが、あやめの目が自分の先を見ているような、本当に自分が見えていないと言うことを認識させた。
「雄座の結界はその存在も、生気も、匂いも、何もかもを隠す。そして妖術の類は全て打ち払ってくれるから心配はなかろう。まぁでも…。」
そう言いながら、境内に生える桜の木の元にすたすたと歩を進めた。木の元で一度しゃがむと、立ち上がりいつものように分身を作り出した。昼間の分身と較べると、僅かに成長した姿である。年の頃は十三、四位で髪は黒髪。腰ほどまでの長さで、月に照らされ輝いている。本物の月丸より僅かに小さい程度の身の丈ではあるが、月丸の妖しい美しさとは違い、まだ幼さを残した愛らしい顔立ちで、桜の刺繍の淡い桃色の美しい振袖を纏う。あやめと並んでも、姉妹か、友人の様にも見える。
「これなら女に見えるだろう。あやめ、やはりこの分身と一緒に行ってくれ。これなら雄座の姿も声も判る。それにあやめと、雄座、みんなで歩けるだろう?」
そう言うと月丸は無邪気な笑顔を向ける。雄座もあやめも、月丸の笑顔にうんと頷くしか出来なかった。
夜も更けて、雄座の懐中時計は零時三十分を指している。この時間にもなると、花の銀座もすっかりと喧騒をなくし、街灯と月明かりの静寂な世界となる。
ちりりとなく鈴虫の音、僅かな風に揺れる柳の枝葉の音、そんな小さき音が銀座の全てを包み込んでいる。
「さて、そろそろ行くか。河童もどき退治だ。」
月丸の言葉に三人は社を出る。鳥居をくぐる際、月丸の分身が何も見えないが手を繋ぐ様な動作をし、あやめに雄座の存在を確認することとなった。鳥居を抜けると、月丸は雄座の手を離し、あやめの隣に立った。
「あやめさん。一緒に行きましょう。こうすれば女二人に見えるかしら?」
女言葉であやめと雄座に問う月丸。その様な口調と所作に、二人揃って顔を赤くする。女性のあやめから見ても品があり、その見た目と所作は上流華族の娘と言われても不思議ではない。そんな娘が隣に立たれると、何やら気恥ずかしくなるあやめ。
妖霊はその美しい姿で人を惑わすと言うが、確かにそうなのかもしれない。ふと、そんなことを考えるあやめであったが、月丸の言葉に頬を赤らめ、ただ頷いた。あやめの返事を確認すると、月丸は雄座に向き直した。
「雄座さん。しっかりと私達に付いて来て下さいな。」
悪戯ぽく笑う月丸に、やはり雄座も顔を赤くしながらも、月丸に問う。
「どうした月丸?その仕草に喋り方は。まるで婦女子のようではないか。」
雄座の問いに月丸はくすりと笑うと、
「あら?河童もどきを釣るなら、この方が良いでしょう?いつもの分身だと、釣りの餌にはならないものね。」
にこりと笑う月丸に、雄座も黙るしかなかった。
銀座を流れる三十間堀川は、北は京橋川、南は汐留川を繋ぐ銀座を南北に流れる川である。決して大きな川ではないものの、川のせせらぎと街路に並ぶ柳の木々は、銀座を象徴するものとなる。三十間堀川に架かる橋は全部で7つ。この内、銀座の大通りに架かる三原橋から以南に架かる橋に目星を付けて歩くことにした。
南から出雲橋、賑橋、木挽橋、そして大通りの三原橋。千代が襲われた木挽橋、柳から聞いたこの辺りの橋、という言葉から、月丸が決定した。なるだけ川沿いを歩きながら橋を巡る事となった。そしてまずは出雲橋に辿り着く。
「あやめさん。ゆっくり渡りましょう。」
あやめも月丸の言葉に頷き、歩を合わせる。注意深く、辺りの僅かな変化も見逃さないようにあやめが警戒する。そんなあやめに月丸がくすりと笑う。
「あやめさん。そんなに攻撃的な妖気を放っては、河童もどきどころか、大妖怪でも近付かないわ。どうか普通にして頂戴な。」
「申し訳ありません。御妖霊。つい…。」
月丸に諭され、胸を押さえながらふぅっと深呼吸する。流石は天狗の姫と言わぬばかりに、直ぐに妖気を押さえ込む。
そんなあやめに月丸が言葉を続ける。
「流石ね。ではもう一つお願い。私の事は「つき」とでも読んで頂戴。もし本当に河童だったら、人の言葉を理解するわ。だから、せめて今は、友人として接してくれないかしら?」
またもはっとするあやめ。確かに河童は人間と遊びたくて人の言葉を覚える。勿論妖霊の事も知っているのだから、会話を聞かれて逃げ出す事も考えられる。浅はかであった自分を恥じる。しかし、それ以上に、「友人として」という言葉が、嬉しくもあり気恥ずかしかった。
「じゃあ、月ちゃん…でいいかしら?」
あやめの言葉に月丸は満面の笑顔でうんと答えた。そんな二人を後ろから眺めつつ、月丸は本当はあやめとも友になりたかったのかもしれない、そう考える。やたらに人懐っこい妖霊は、自分を受け入れた様に、あやめとも気兼ねなく付き合いたいのかもしれない。しかし、あやめは常に月丸を上位の妖怪として接するため、その機会がなかったのでは。
今考えることではないし、今は自分が語りかけても月丸にしか声が届かない。また、思考を巡らし二人に付いて行くしかなかった。
出雲橋では何事もなく、そのまま歩を進めて直ぐに賑橋に付いた。その頃にはあやめも自然体で月丸と話をしている。河童が現れるまでは只散策するのみなので、二人はすっかりと世間話…主にあやめの神田家での暮らしや洋服などの趣味について話しながら歩いていた。
賑橋に着き、二人が渡ろうとする後ろに立つ雄座は、川面に何か黒い影を見る。直ぐに身を乗り出し川面を見据えるが、暗く、月明かりの反射でよく見えない。気のせいかとも思い身を起こした時、雄座の目に橋の下から何やら黒い影が伸びるのが見えた。
やがてその影が手の形である事に気付き、雄座は咄嗟に叫ぶ。
「月丸!あやめさん!」




