夏桜 壱
雄座と月丸。この二人が出会ったのはもう随分前の事である。
当時の神宮寺雄座はまだ駆け出しの文士であった。物書きになるため貧しさの中、文学小説を書き続けていた。彼の書き物は、大抵日の目を見ることはなく、やむを得ず大衆芝居のために納涼怪奇物の物語を書いたり、短編の怪談話を書く事でその日を食いつないでいた。書きたいものを書いても書いても世に出ることはなく、望まぬ書き物が世に出る。雄座自身が自らの才能の有無を悩み始めていた頃であった。彼はその時、本物の怪奇に出会うこととなる。
その頃雄座は親類の金子子爵宅に下宿していた。親戚が子爵であると言うことは雄座自身の家柄も爵位を持つ華族であろうが、それはまた別の話。
金子子爵は雄座に好意的でまずは物書きになるまで一切世話をすると言っていたが、雄座がそれを断った。自らの事は自分で全て賄うと雄座自身が決意していた。雄座に目を掛けている子爵もそれを了承し、彼に住むべき住居、とはいえ金子邸の離れにある小さな平屋だけを雄座に貸し与えた。雄座はそこで短編の書き物をしたりして、食い繋いでいた。
雄座自身が頑固者である。子爵に金を無心すれば快く渡してくれたであろうが、雄座にはその行為は卑怯に感じた。だからこそか、彼は、どんなに貧しく、食するものがなかろうが自身の物書きとしての収入のみで生活をしていた。そのため当時の雄座の服装はいつも同じシャツに襦袢と袴、伸び放題の髪は後ろで無造作に結った、まさに貧乏文士そのものであった。
明治四十五年八月。雄座の妖霊異譚はここから始まる。
雄座は書いた短編文学小説を持ち込むため、銀座に位置するとある新聞社へ向かっていた。しかしここ数日、異様な暑さであり、雄座が歩いている時間、昼の二時位は暑さもすっかり最高峰と言わぬばかりに暑い。最近できた、洋風のコーヒーを楽しむ店、「カフェープラムタン」が開店し賑わっている。洒落気のある者は暑さを凌ぐためにそのような店に向かうが、懐具合の寂しい雄座の選択肢にはない。どこか日陰で一休みしたいと思う程度である。
そんな雄座の視界に、ふと神社が目に入った。煉瓦造りのモダンな家屋が並ぶ中、そこだけまるで異なる空間のように塀に囲まれた場所。鳥居がある事から神社であることはすぐに理解した。そして塀の先に見える背の高い木々が、その神社には、雄座が耐えかねている陽の光を遮ってくれる木陰がある事を容易に想像できた。雄座は神社へ腰を休めようとふと歩を向けた。何気はない。ただ木陰で休むために。
道行く人々が、まるでその神社が存在しない様に気づいていない事も、暑さのためか雄座の目には止まらなかった。
塀で囲まれた神社の鳥居を潜ると、桜の樹がすっかりと青々として何とも言えない緑の香りが漂った。そんなに広くはない境内の中は、宮司など居ないようで人の住む気配もない。それでも境内は掃除が行き届いていて気持ちがいい。雄座は手水で手を洗い、それからその水で喉を潤した。水を飲み落ち着いた処で、ちょうど背の高い桜の樹で影ができている拝殿の縁に腰を下ろした。暑い中にも吹く風が心地よい。汗を拭いながら雄座は改めて境内を見回した。外とは塀で隔離されており自然に並んだのか植えたかは定かではないが、桜や梅、松などの木々が美しく並び生えている。どれも太く、年輪を感じさせる立派なものであった。
「こんな場所があるとは、いい場所をみつけたようだな。」
雄座はこの誰もいない場所がすぐに気に入った。彼は話を考えるときは一人を好む。そして何より静かな場所が好きだ。子爵から借りている平屋では表を歩く人の声、車の音、馬の音、様々な音が賑やかに騒ぎ立てる。雄座にはいつまで経ってもその音に慣れることはなかった。だがここは静かだ。華の帝都の銀座に居るとは思えぬ静寂。そして本当に自分一人しかいないとわかる雰囲気。木々の香り。この神社の雰囲気を雄座は一目で気に入った。
目を瞑り頬を撫でる風を心地よく受けていた。
「もうちょっとだけここでのんびりしてゆくとしよう。」
そう思い後ろに寝転ぼうとした。その拍子にそれが見えた。
「良かったら麦茶をどうぞ。今日は暑いですから。ご休憩されてゆくとよいでしょう。」
雄座の横、正確には少し後ろの左側に白い襦袢に藍色の袴をはいた神職の者らしき姿の者が座って雄座の横に麦茶の入った湯呑をとんと置いた。誰の気配もなかった上に、すっかり落ち着いてしまっていた雄座は驚いた。
「あぁ、すみません。あまりの暑さに少しここで休ませて頂きました。すっかり落ち着いてしまい、神社の方が居らしたことに気が付きませんでした。」
驚いたように口早に言う雄座を見てふと微笑み答えた。
「構いませぬよ。日も高くまだ暑いですからね。汗引くまでごゆるりとしていけばいい。私はこの妖霊宮御神社の宮司をしております月丸と申します。」
月丸と名乗った宮司はまるで雄座を安心させるようにゆるりと語り、盆の上にあったもう一つの湯呑みを取り一口含んだ。
「宮司さんでしたか。これは失礼致しました。あまりに静かで誰もいない社だと思っていたもので。」
そう言いながら出された麦茶手に取り、一口、口に含んだ。雄座は少しがっかりした。自分の好む静寂と無人の場が一瞬でなくなってしまったからであるが。しかし、それ以上に気になったのは宮司を名乗るこの月丸であった。
まず美しい。この一言に尽きた。ひたすら白く透き通る肌に、唇だけが淡く紅色を纏っているように見える。決して化粧などしている風もないが、それでも雄座の目を留めさせた。何よりもその髪である。肩に掛かる程度の長さでその色はまるで見事な銀細工を思わせる様な臼銀の髪の毛である。折り重なるその一本一本が陽の光により美しい造形を成し、そのあまりに白い肌に白銀の髪が一層映えていた。そしてその目は夏の陽の光のせいであろうか。不気味な程赤みを帯びていた。
雄座自身も白髪や異人の金髪等目にした事はある。しかし白銀の髪というのも、赤い目というのも珍しかった。自然と雄座の目は月丸の顔に向いていた。雄座の隣に正座して庭を眺めていた月丸はふと微笑みながら雄座に目をやった。
「私の姿が珍しいですか?」
雄座はあまりに自分の目が一点しか捉えていないことに気付いた。何かの病でこうなったのかもしれぬ。そんな考えが浮かんだりもしたが、月丸の美しい容姿がその白銀の髪、赤い目ですらその容姿の一部で違和感がなかった。
「すみません。」
あまり自分が凝視していたと気付いたため、謝罪した後雄座もまた庭に目を移した。あまり女性に詮索することは失礼とも感じ、髪や目の色の事を聞く事はしなかった。ふと雄座は思った疑問を口にした。
「神道では確か宮司になれるのは男性だけだと思いましたが、女性のあなたが何故宮司をされているのです?」
話しながらまた月丸に目を向ける。月丸はずっと雄座を見ていたようだ。その目が少し笑っている様にも見えた。
「私を女性とお思いで?」
雄座は驚いた。どうみても女性の容姿である。
「…男性には見えぬもので。」
雄座の言葉を聞きながら月丸は目を庭にやってお茶を一口含んだ。一息置いて月丸は口を開いた。
「ここは普通の御社とは違い、御祭を勧請している訳でも御神体を祭っている訳ではございません。この地が人に渡る遥か以前よりこの地に住みし諸々の妖の魂を座する為にある社でございます。
この社を守り、その妖の魂を鎮める役を使わされたのがこの宮司にございます。」
ここまで話して月丸はまた湯飲みを口に付けた。
「平たく言えば妖怪神社とでも言ったほうがよいのでしょうか。」
月丸はさも自分がうまい喩えを言ったと言わんばかりに雄座に笑いかけた。雄座はこの何とも訳のわからぬ事をいう宮司に愛想笑いするしかなかった。
「妖怪神社ですか。はは、面白いですね。ならば宮司殿も妖怪ですか?」
月丸はその口元の笑みを崩すことなく、ゆっくりと頷いた。
「そうですよ。私は人の言う男でも女でもない。つまりは人ではないということです。あなた達浮世の人々が口にする妖怪や化け物が類の妖霊なる者ですよ。」
雄座はただ愛想笑いするのみであった。
「妖霊…妖怪ですか。いや、初めてお目にかかりました。何とも面白いお話ですよ。私も今事情があって怪奇話を書いて食っておりますので、興味をそそりますが…妖怪の神社…そんなものがあっても面白いかも知れませんね。」
創造の産物とでも言わんばかりの言い方であった。勿論雄座はそんなつもりではなかったのであろうが、月丸の言う事を一切信じていないため口調がこのようになったのであろう。
お茶を口に含んで一息付いた後、雄座は立ち上がり月丸を見て軽く会釈をした。
「いや、お茶の肴に中々楽しい話まで頂きまことにありがとうございました。私は所用があるのでこれにて失礼させて頂きます。」
言い終わると再度軽く頭を下げ、来た門へ向かおうとしたとき雄座の目は一本の樹に引き付けられた。
「なんと…これは」
一言発したまま雄座は動かなかった。鳥居をくぐった時、そして先程座して庭を見ているときもその樹はあった。青々とした葉を茂らせていたはずであった。それが一目離した瞬間に青々としたはずの桜の枝々が鮮やかな薄紅色の桜の花を湛えていたのである。一時その桜に見とれていた雄座であったが、はっと我に返り月丸の方を向いた。
「また気が向いたらおいでなさい。妖というのはあなたが物語で描くような、人に仇なす者ばかりではない。」
ふと微笑し会釈をすると、雄座に与えた湯飲みと自分の湯飲みを盆に乗せ、軽く雄座に向け会釈するとそのまま奥へと戻っていった。
雄座は一時立ち尽くしもう一度桜を見た。やはり美しい花を咲かせている。花の香りも雄座の鼻を付く。まるで狐狸に化かされたような顔つきで雄座は鳥居を抜けた。振り返り、塀の外から見える桜を見てみると先程見たものとは別の、いや、最初に見たはずの青々と茂った桜の樹があった。
「妖術か?それとも与太話で夢でも見たのだろうか?」
雄座は昔話や今自分が創作している様な出来事に自分自身が遭遇したことに寒気を感じ、そのまま振り返らずに早足で新聞社へと足を向けた。
雄座は自分の家、金子子爵より借り受けている平屋の縁側に座っていた。持ち込んだ短編文学小説が紙面に掲載される運びとなり、一先ずは祝いにと一人で酒を飲んでいた。
昼間の暑さが嘘のようになくなり、太陽が嫌と言うほど照らしていた空はすっかり暮れ落ち、だが月明かりと星が遮る雲のない中で雄座の庭を明るく照らしていた。
雄座は酒を一口飲み、誰に言うわけでもなく呟いた。
「一体昼間のあの神社、何であったのだろうか。本当に妖怪など存在するのか?」
自分で見たものは桜の樹であった。青々と茂った樹が時間を遡って花を付けるものであろうか。それがあの月丸という宮司が本当にやったことであろうか。雄座の頭から中々離れる事がなかった。
「今からもう一度行ってみるか。いや、もし本当に化け物であれば取り憑かれるか食われてしまうかも…。」
雄座は文士である。なまじ物書きなどを生業としているせいか想像力は豊富な方である。色々な想像が頭の中で広がってゆく。だが実際、化け物の存在を信じている、というわけではなく、この時代多くの人がそうであったように(いるかもしれない)程度の認識であった。
昔から地方地方で聞き継がれている鬼の話や狐狸、化け猫、妖怪、幽霊、今まで自分も題材に扱ってきたものばかり。雄座の物書きとしての想像力が昼間の話をただの絵空事と思わせてはくれなくなった。
昼間に見たあの月丸という宮司が本物の妖であるなら、俺はまさか取り憑かれてしまったのでは…。
自室の本棚に資料として買い貯めて置いた怪談や妖怪の伝記などが雄座には少しばかり恐ろしいものに見えた。その日は祝い酒であったはずだが、雄座の中にはほんの少しばかりの恐怖でそれどころではなくなっていた。
早々に切り上げ、布団に潜ってその日は就寝した。