河童化け 参
屋敷の中庭には、欧風の銅製の小さなテーブルと椅子が置かれている。丁度中庭の真ん中程に置かれ、壁沿いの花壇にはよく手入れされた花々が咲いている。あやめは朝早く起きだし、身支度を整えてから、しばしの間この中庭で紅茶を飲みながら寛ぐのが日課となっている。広い屋敷の中庭には外の喧騒は届かず、静かな時間を作ってくれる。あやめも娘であり、銀座のお洒落で華やかな雰囲気も好きであるが、やはり天狗である。山で育ったため、この静寂もまた、あやめの好むものであった。
懐中時計を見ると、午前六時を指す。ふと見上げると、二階のテラスには美しい銀色の毛並みの猫と目が合う。あやめがこの屋敷に来る少し前から住み着いた野良猫らしいが、存在が気になる。ただの猫の存在が。毎朝あのテラスに座っている。いつもの光景であるが、初めて見た時からずっとあの猫が気になっていた。あやめの主人を守るかの様に、常に側に居る。屋敷の中だけでなく、外出先でも居た。何より主人がこの猫を気に入っており、時々は車に乗せて共に外出する事もある。そんな時この猫は大人しく付いてくる。付かず離れず、主人思いな猫、として片付けられないのは、主人が連れて出て行かずとも、やはり主人の側にその猫はいた。自動車で移動しても、車を降りると少し離れたところに銀色の猫がいる。そんな不思議な猫の存在は、あやめの気を引くのに十分であった。
やがて猫のいるバルコニーの窓が開き、一人の女性が顔を出す。
「おはようございます。あやめさん。今日も良いお天気ね。」
窓の下、中庭のテーブルに居るあやめに気付くと、女性は笑顔で声を掛けた。
「おはようございます。和代様。本当に気持ちの良いお天気です。朝食は如何致しましょう?」
あやめは立ち上がり、頭を下げると、笑顔で挨拶を返した。
和代と呼ばれた女性は、あの神田男爵の孫娘で、天狐の魂を受け、甦ったあの娘である。そして今はあやめが仕える主人である。あやめは雄座と月丸から天狐の話を聞き、自ら月丸に和代を守る役を願い出た。そしてその役を果たすためには、和代のそばに付き添うべきと、和代の従女として神田家に入った。
本来であれば、突然やってきた娘など男爵家とはいえ、すぐに雇うことはない。しかし、和代の祖父は狐の一件以降、何故か棲みつき、まるで守るかの様に和代の側に必ずある銀の猫。そして、「働かせてほしい」ではなく、「和代の側においてほしい」、そう申し出てきた愛らしい娘。きっとあの神社で見た人外の美しさを持つ宮司による何かしらの守護かもしれないと考えた。その為あやめはご隠居の鶴の一声で屋敷の使用人としてではなく、和代の従女として雇われたのだ。
「あやめさんは朝食はまだかしら?良かったら今日もご一緒しませんか?」
あやめは神田家に住み込みで雇われている為、当初は他の使用人と共に朝食を取っていたが、一人で部屋で食す和代から寂しいからと誘いを受け、最近では二人で食事をとっている。それでも和代が毎回誘うのは、他の使用人の目もあり、新参のあやめの立場を思っての事である事をあやめは理解していた。そのため、毎朝、この中庭で紅茶を飲みながら和代が起きて、声を掛けられて誘われるのを待つのが日常となっていた。
「はい。喜んで。ではお支度が済む頃にお部屋にお運び致します。」
あやめの言葉に嬉しそうに手を振ると、和代は部屋に戻っていった。バルコニーの銀の猫は和代を見送ると、一つ欠伸をし、丸くなった。そんな猫を眺めつつ、
「お前は一体何者なのかな?」
あやめは一人呟き、お茶の道具をお盆に乗せ、食事の支度に向かった。
「ねえあやめさん。お使いを頼んでも良いかしら?」
朝食後、後片付けをしているあやめに和代が問いかけた。
「はい勿論。何でしょうか?」
和代の従女としてここにいるあやめに、和代の頼みを断る理由がない。手を止め、和代を見る。
「銀座の伊勢谷さんにある本屋さんで、「朧御伽草紙」という本を買って来てもらいたいの。お願いできるかしら。」
あやめがここに来て一月半程。和代は自分のお使いであやめを使ったことはない。年の近い同性の友人の様に接してくれる。お使いを頼まれるのは今日が初めてであった。
「勿論ですが、和代様はお出かけになりませんの?」
和代は甦った日に居た神社を探すため、あやめが来てからは時々銀座界隈を散策している。銀座に用事がある時などは特にそうであった。今日も銀座に行くのにあやめに頼むという初めての事に、あやめが疑問を感じたのだ。
あやめの言葉に、和代は困った様な笑顔で答える。
「どうやら今日はあやめさんは銀座にいなければならないらしくて、でも、何も用がないのに行くのも変でしょう?私は行ってはいけないらしいし。折角だから、丁度欲しい本があったのでお願いしようと思ったの。」
まるで誰かに言われたかのように伝える和代。あやめは確証はないが、それが天狐の残した力によるものではないかと判断し、快く返事を返す。
「そういう事なら行ってまいります。でも、いつまで銀座に居れば良いですか?」
天狐のお告げなら、何が起こるか分かるかもしれないが、何かが起こる前に帰ってきても仕方がない。しかし、守るべき和代から長時間離れるのも気が気でない。その為、せめて何時までかをあやめは知っておきたい。
「そうね。二時頃までは楽しんできて。たまには私がいない方があやめさんも羽を伸ばせるでしょう?」
そう言うとクスリと笑う。器量の良い和代が悪戯に微笑むと、あやめでも見惚れる愛らしさである。そんな和代を眺めつつ、あやめが頬を膨らませる。
「羽を伸ばすなら和代様とご一緒したいですけどね。でも、おっしゃる通り行ってまいります。その代わり、次は一緒に散策して下さいね。」
相変わらず笑いながら、はいはい、と答える和代。僅か一月二月程度ではあるが、二人はすっかりと仲の良い姉妹の様であった。
片付け終わり、食器をワゴンに乗せ、退室するあやめを見送ると、和代はバルコニーに出た。そこには丸くなって寝ている猫がいる。和代はしゃがみこみ、猫の頭を撫でると、誰に言うわけでもなく呟いた。
「これで良いかな?」
猫は返事のつもりか、にゃあと一声上げると、頭を撫でる和代の手を気持ちよさそうに受けながら目を閉じた。
「着きましたよ。あやめさん。」
運転手の声にハッとするあやめ。改めて和代の事を考えていた。
和代は華族の娘らしく、箱入りで、性格も穏やかで思慮深い静かな娘だったと、他の使用人に聞いた。また、病が治ってからは、その見目の良さも相まって、天女のような神々しさを感じるという者もいる程である。
普段あやめと接する和代は、年相応に話好きであったり、流行り物に興味を持つ、箱入りの世間知らずを除けばごく普通の娘に見える。
しかし、今日のように時々、まるで誰かに言われたかのような口調で語り始める時は、概ね和代の言う通りとなる。
和代の言う事は天狐のお告げなのか、別のものなのか。あやめには判らないが、ただ一つ分かる事は、屋敷を包む何某かの手による結界を感じられ、やはり和代は自分以外にも守られているのを感じた。それは和代が守らねばならない存在であることをあやめに知らしめるものとなる。
自分が一寸の間、不在にしても、不可思議な結界に護られるであろう。それでも自分が和代を守ることには変わりない。ただ、今は和代のお告げを信じるべきだと改めて思う。
そんな事を考えていたら、既に伊勢谷という百貨店の前に自動車は停止していた。
「送ってくれてありがとう。帰りは自分で帰りますので。」
運転手に伝えると、自分でドアを開けて路上に出ると、運転手に手を振り、見送った。懐中時計を取り出すと、まだ十時を少し回った時間帯である。和代に言われたのは二時頃まで銀座にいれば良いらしい。時間を潰すため、次に和代と来た時に楽しそうな店を見つけておこうと考えながら、まずは和代から頼まれた書籍を購入するために、通路の横に並ぶ店を眺めながら、ゆっくりと本屋へ向かう事にした。
伊勢谷は百貨店の中でも古株であり、西洋建築の建物内には通路の両側に時計店や洋服店、貴金属店や西洋雑貨など、様々な店が並ぶ。まるでこの建物の中に銀座を詰め込んだような空間を楽しむために人々は集まり、ウインドゥショッピングを楽しむ。
あやめも他の人々と同じく、貴金属や洋服店を眺めながらゆっくりと歩く。ふと、店のガラスに映る自分を見て、口元が緩む。
細かな刺繍の入った白いワンピースに身を包む自分。天狗の里から送り出される際、祖父である鞍馬天狗が用意してくれた服の一つである。その姿はあやめ自身が見ても、人と変わりはない。すっかりこの銀座に溶け込んでいる。そんなガラスに映る自分を見ながら、何となしに、この地に受け入れられているようで嬉しくなる。この地に着いた直後は、天狐を討った者を探すために常に気を張っていたが、今では和代という護るべき者ができた。天狗という事は隠してはいるが、あやめを旧来の友のように扱ってくれる。そして、今、銀座をぶらぶら歩く自分が、数ヶ月前まで京の鞍馬山で天狗の姫であり、魑魅魍魎と戦っていた事が遠い夢の様であると可笑しくなった。
あやめは興味を引く店々を眺めて廻りながら、ゆっくりとただ歩いている。ただ、その一挙動毎に辺りが騒つく。「あの娘を見たか?大層器量が良い。」、「何方のご令嬢かしら?」等とそこら彼処で呟かれている。当の本人は気にも止めず、興味を引く店々を変わらず眺めながら本屋を目指した。
やっとの事で本屋へと辿り着く。店の前に置かれている本を見回すと、最近流行りの婦人向け雑誌が並ぶ。あやめも読んだ事があるが、多くは文学小説や洋服や和服の着こなし方、髪型の作り方など、流行りが好きな婦女子に人気の本である。やはり年頃の娘達が店の前で話し込んでいる。あやめはそういった女性誌に目もくれず、本屋の中に入る。店内を見回すと、それこそ難解な本から、学問書から様々並ぶ。和代から言われた本の名が「朧御伽草紙」。婦女子向けの雑誌ではない。しかしこの多くの本から探すのも手間である。あやめは早々に店主の元に足を向ける。
「ごめんくださいまし。こちらに「朧御伽草紙」という本は置いてますか?」
壮年の店主は吸っていたキセルを灰吹にコンと当てて灰を落としながらあやめに視線を向けた。その瞬間に目を大きく見開いた。
「こりゃあまた、随分な別嬪さんだなぁ。何かの物語から出てきたのかい?」
店主の言葉に苦笑いで返すあやめ。
「あの、朧御伽草紙という本は………。」
あやめに見惚れていた店主がハッとする。
「ああ、置いてるよ。ちょっと待ってな。」
そう言うと、店主は本を取りに店に並ぶ本棚の一つに向かっていく。少しすると一冊の本を持って戻ってきた。
「最近この作家も色々作品出してるからねえ。こんな随分前に出た本でも、あんたみたいな人に探してもらえるとは、この作家も人気が出てきたなあ。」
店主が持ってきた本があやめの前に置かれる。あやめが確認すると、確かに朧御伽草紙と書かれている。そして目線を落とすと、あっと小さく声を上げた。
神宮寺 雄座 著
雄座の以前書いた小説である。内容も本の表題から怪奇譚であろう。確かに以前、物書きを生業にしていると言っていたが、実際に本を見てあやめは驚いた。しかし、このような怪奇譚を和代が欲したのもあやめには意外に感じた。洋書や文学書などをよく読んでいるが、このような本を和代が見ている姿をあやめは知らない。頼まれた本であり、和代の読書の幅が広いのだろうと解釈しつつ、本の代金を支払って店を出た。
風呂敷に包まれた本を胸に抱きながら、あの神社を思い出す。
「雄座さんと御妖霊は、変わらずあの神社にいるのかしら。」
恐ろしいはずの妖霊と怪奇譚の著者。案外友としてお似合いなのかもしれない。あやめはそう考え、つい笑みが漏れた。