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妖霊異譚  作者: 天戸唯月
第拾陸幕 帝都大戦
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帝都大戦ノ章 壱

「ふう。暑い。」


 市ヶ谷の内堀の傍にある青々と茂る桜の木の下に、まるで日陰を求めるように入り込み呟いた。

内堀の水のにおいと緑のにおい、そして時折通る自動車の巻き上げる砂ぼこりのにおい。何よりこの雲一つない空から注がれる太陽のにおい。これらのにおいにも、この暑さにも辟易しながら桜の木を背に座り込んだ。


 この男、神宮寺雄座という。一部では面白いと評判の妖怪談「天狐御伽草紙」を新聞にて連載する文士である。この天狐御伽草紙が日の目を見るまでは浅草の小さい芝居小屋の台本を書いたりして何とか食いつないでいたが、今では日々を食べてゆくにはなんとか暮らせる程度には稼いでいる。元々、文学小説家を志していたが、そちらはちらほら婦人誌に載せてもらえる程度で、代表作に恵まれない。しかし、雄座には奇々怪々な友がいる。その者は月丸といい、姓は不明。人にあらず妖の類の者で、その者、妖霊という。

 あるときは黄泉平坂より現れた死人の姫を打倒したかと思うと、洋菓子に一喜一憂するその面白い性格と、この世の者とは到底思えない美しいその姿に雄座はすっかりと興味を持ち、いつしか月丸は大事な友となっていた。


「何なんだ。今年の暑さは…。とてもやりきれんぞ。」


 日はまだ頂点にも達していない午前中だが、雄座は流れる汗を手拭いで拭きながらぼやいた。

 夏は暑いのが当然である。しかし、昨年に比べてもここ二、三日は暑すぎるほどである。雄座などは五分丈の肌着に薄袴で、まだ風を体に受ける分ましであろう。道行く勤め人などは背広の背が汗で濡れているのがくっきりわかる。


「この暑い中、背広やシャツは着てられんな。」


 雄座は道を眺めながら呟くと、内堀に目を向けた。水に目を向けている方がまだ涼やかである。手拭いを濡らして冷ましたいが、濁った内堀の水につけるには抵抗がある。そうなれば涼みたいならばその方法は木陰しかない。これから向かう市ヶ谷の丸山書房へは十五分も歩けばたどり着くだろうが、その十五分が遠く感じる。

 あまりの暑さに乗り合いバスや都電も考えたが、風が当たらない分、暑さは歩いたほうがましであろう。そう考えた少し前の自分を恨んだ。わずかな時間暑さを我慢すれば、もう着いている頃合いである。


 そんなことを考えながらも、内堀を眺めていたが、水面に反射する光すらも暑く感じて、雄座はだるそうに腰を上げた。

 こんな日は月丸の神社で涼みながら冷えた麦茶でも飲んでいたい。そう思った雄座はふと、思い出す。

市ヶ谷には陸軍士官学校があり、そこでは訓練の勇ましい声が近隣にも聞こえる。それはいいが、雄座が考えたのはその手前、陸軍士官学校の傍には市ヶ谷の亀山八幡宮という神社がある。

 あいにく月丸のような楽しい宮司はいないだろうが、手水場もあれば手拭いを濡らし、涼をとることもできるではないか。そう考えれば雄座の足も自然と軽やかに市ヶ谷方面へと向かった。

 亀山八幡宮が近づくと、陸軍士官が利用するのだろう。その周りにも居酒屋や飯屋が連なる。うかつに店に入っても、うっかり帝国陸軍人などの傍に座ってしまうと、窮屈でいけない。そうなればそんな店で涼をとるわけにはいかない。

 軒並ぶ飲食店を横目に、通りから少し入り込むと、神社へ続く階段が見えてくる。階段は両側に生えた木々により良い感じの日影ができている。


「これはありがたい。」


 雄座は涼をとれる安堵から、足取りも軽く、神社への階段を上った。それほど長くない階段であるものの、境内まで来てみれば市ヶ谷台の僅かな高台は景色も良い。雄座は早々に手水場に行き、柄杓で水を手拭いにかけてそれを首に巻いた。

 ふう、と濡れた手拭いの心地よさを感じながら雄座は改めて柄杓で水をとると、左手に水を落とし、それを口元に運び水を口に含んだ。


 喉を潤し手水場から離れると、ひと際大きな木の木陰に身を移す。高台のおかげか僅かな風も心地よい。あいにく、他の参拝客も多くいるため、月丸の神社のように静かに穏やかな雰囲気ではないが、涼をとるためなら十分である。


「ちょっとだけ涼んでから、丸山さんのところに行くか。」


 雄座はぼそりと言うと、濡れた手拭いで顔を撫でた。先ほどまでは憎らしかった青空も、木陰から見れば何とも気持ちが良く、やっと景色を楽しむ余裕ができた。


 そんな雄座の目にちらりと映る。


 雄座とは反対側、少し離れたところに陸軍の制服を纏う男がいる。まぁ、陸軍士官学校のすぐ傍である。別に変なものではない。しかし、離れているため確信は持てないが、雄座を睨んでいるような視線を感じる。

 雄座は気付くと目線を合わさぬよう、再び空を見上げた。


(なんだ?見られているのか?)


 雄座は普段から服装に無頓着である。唯一持っている背広も、以前和代からもらったものである。普段といえば皺の酔った襦袢に袴、夏ともなれば肌着に袴といった、傍から見れば浮浪者や遊び人といった姿である。

 過去にも、ただ道を歩いていただけで、軍人から絡まれたことがある。


「お国のために勤めるのが男子である。お前のように遊び歩いているとは何事か。」


 そんなことを説教された。こちらも文士としてではあるが、一応働いている。それがお国のためかどうかは知らぬことだが。そんなこともあって、雄座にとって軍人は苦手であった。


(折角ゆっくりと涼をとれると思ったが…。)


 視線の気まずさに雄座は立ち去ろうと足を前に出そうとしたとき、視線の軍人も歩き出した。


(ああ、やっぱりこっちに来た。)


 雄座は、はあ、とため息をつくと、気付かぬふりをして早々に神社を後にした。絡まれてまたよくわからぬ説教をされたのではたまらない。軍人の価値観で訳のわからぬ怒りを向けられるのはごめん被る。雄座は涼を諦め、振り返ることなく神社の階段を駆け下り、丸山書房へと向かった。

 その背に視線を感じながら。



 軍人などに絡まれたくない雄座は汗を滴らせながら丸山書房への道を急いだ。それほど間もなく丸山書房についた雄座は、原稿を渡したついでに冷たい水をもらい暫く歓談した後、丸山書房を後にした。それでも時計の針は二時を過ぎた頃であり、外に出てみれば暑さは変わらぬどころか、涼んだ分、更な暑さを感じさせる。


 雄座は行きの後悔もあったため、帰りは都電を使って銀座まで行こうと乗り場まで向かうことにした。先ほどの軍人の事など忘れて、雄座はうだる暑さの中、乗り場を目指した。

 

 離れた先で雄座の背を目で追う男。先ほどの軍人である。雄座の後を追うように足を踏み出す。


「あの御仁に何か御用ですかな?」


 その声に軍人が振り向くと、一人の紳士が立っている。この暑い中、黒い背広に黒いネクタイを締める長身の紳士。御岳であった。

 御岳は織林財閥が昔から脈々と受け継ぐ裏の顔、退魔の役を担う陰陽の術を師である呉葉より免許を受けた術師である。師の呉葉の命で雄座を陰から見守っていた。


 御岳は軍人の首元にちらりと目を向けると、直ぐに軍人の目を見て言葉を続ける。


「階級は大尉殿ですか。さて、あなたが先ほどからつけている方は私の知り合いでしてね。あなたが彼に向ける悪意が気になっていたのですよ。もしよろしければ陸軍の大尉殿が何故彼に悪意を向けるのかをお伺いしたいのですが。」


 御岳は涼しい顔をしながら軍人に尋ねた。この時代、一般人が軍人に対して問うなどと殴られても仕方がないような行為であるが、御岳は意に介さぬように軍人の目を見据えた。


「ふん。」


 軍人は御岳の問いには応えることなく、一瞥すると身を翻し立ち去って行った。

 その背を御岳は警戒しながら見えなくなるまで目で追うと、ふう、と一息溢し、誰に言うでもなく呟いた。


「何だ?あの軍人…。それにあの神宮寺さんに向けられた悪意…。気にはなるが何ともできぬか。」


 すでに御岳の視界からは姿の見えなくなったあの軍人に御岳は妙な不安を覚えた。


 そんなことがあったことは梅雨知らず、雄座は汗を拭いながら都電へと乗り込み銀座へと向かった。

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