ひんな 終
長屋の外に出た月丸に雄座が問う。
「もう、人形の呪は解けたのか?」
雄座の問いに月丸が応える。
「ああ。人形の念自体を消した。あの人形は念者の持ち物であったのだろうな。念を消したことで砂に変わってしまった。」
雄座も見ていたことである。月丸の言葉を聞き、あの姿は生前、女郎が大切にしていた人形なのであろう。女郎の好かれたい、愛されたいという念はその人形に宿ったのだろう。
自分と居るだけで幸せであるという男の甘言を真に受け、それが自身の信念となり、死してなおその念に突き動かされていたのだと思うと、月丸のいう念の強さに背筋が凍る思いであった。
「さぁ、呪も解けたし、帰るか。」
月丸の言葉に、雄座が頷く。
「ああ。そうだな。帰りはゆっくり歩いて帰ろう。帰りがてら、人形について教えてくれ。」
こうして雄座にしてみれば、あっけなくも呪を祓い終えた。
恐らく、岸川氏も命の心配はなくなるであろう。そう思い、雄座は安堵した。
明け方の人のいない広小路を歩きながら、月丸が語る。
ひんなとは怨念や恋慕といった人の強い意志を継ぎ、若しくは憑依されて存在するそれこそ霊のような存在だという。
幽霊などはその者の強い念がただただ漂流している存在。悪意の念があれば生者を襲うやもしれぬし、ただ存在しているだけの場合もある。ただ、ひんなは幽霊などと違い、その現世に在する人形、つまり体を得た者となる。その念の者の意思によって、何物にも変化する。ただ、元は人形。無論自ら行動ができるわけではないが、力のあるひんなは動けない分、都合の良い誰かを呼び寄せることもできるのだという。
月丸は過去、吉房とともに悪意のこもるひんなを祓ったことがあったそうで、その時の記憶が残っていたため、すぐにひんなと気付けたのだという。
そんな話をしながら、勤め人が少しずつ増えてきた通りを二人は歩いて銀座へと向かった。
暫く後。
既に日も登り、人々が活動を始め、路面電車や乗り合いバスが行き交う頃合いとなっている。
先ほど雄座と月丸がひんなを祓った長屋の前を、一人の男が通り過ぎた。岸川である。
岸川はそれが毎日の行事であるかのようにすたすたと長屋を抜けていく。その先には船止めがあり、岸川が漁に使用する小舟も係留してある。
しかし岸川の姿は、昨晩雄座たちが見たような背広姿であり、漁に出るような姿には到底見えない。しかし岸川は自身の小舟につくと、慣れたように船に飛び移る。そして係留している舟の先まで進むと、海面を覗き込んだ。暫くきょろきょろと海面を見回し、反対側へ移ると再び水面を覗き込んでいた。
舟の全周で何かを探すように海面を覗き込んでは、手を水につけ何かを探す素振をした。
暫くそんなことをやっていたが、顔を青くし冷や汗を浮かべた岸川は、はっとしたように駆け出した。
自らの家に戻ると、勢いよく戸をばんと、開け、家の中の一か所に目を凝らす。
「ああ!」
そこにあるはずの日本人形が無くなっていた。
靴も脱がずに畳に上がると、壁にかけていた漁具や棚を狂ったように探し出した。
「どこいった…どこいった…」
部屋の中をひっくり返しても人形は出てこない。
「誰かが盗んだのか…人形がなけれりゃ俺は…」
岸川はその場にへたりと座り込み、畳に額を付けた。
部屋の外では騒ぎに気付いた隣人たちが外から岸川の奇行を見てひそひそと何かを話していたが、そんなことすら岸川にはどうでもよかった。
あの人形を拾ってから、毎朝ずっと、舟に金が引っ掛かっていた。毎朝、毎朝。どこから流れてくるのかもわからないが、その金は岸川を潤した。
漁に出て小金を稼ぐのもやめた。その金で毎日遊んで暮らしても、翌日にはまた金が舟に引っ掛かっている。
あの人形はきっと座敷童に違いない。
あの人形がこの幸運を運んできたに違いない。
岸川はそう思った。毎日働く必要はなくなった。芸者を呼んで酒を飲んでも金には困らない。座敷童が俺の願いを叶えてくれた。そう思っていた。
しかし、今日、目の前の人形はなくなり、毎朝引っ掛かっているはずの金もなかった。
もう金は入らないのか。
もう遊んで暮らせないのか。
また貧乏にもどらなきゃいけないのか。
岸川の頭の中で、ぐるぐるといろんな思いが広がる。
あんな貧乏な暮らしに戻るくらいなら死んだほうがましだ。
しゃがみ込み畳をばんばんと叩きながら、岸川は号泣した。
金が入るようになってから、近隣の漁師達とも疎遠にしてきた。こんな貧しい連中と関わる必要がなくなった。そう思っていたからだろう、長屋で号泣する岸川を見ながら、隣人たちはひそひそと話すのみで誰も岸川に理由を尋ねるようなことはしなかった。
戸の外に人だかりができてることに気付いた岸川。叫びながら誰彼構わず飛びついた。
「誰だ!俺の人形をとったのは!」
「誰だ!返せ!」
泣きながら叫ぶ岸川は、気が触れた者のようであった。
岸川の叫びはその後しばらく続いた。
日が変わり、月丸がひんなを祓ってから三日ほどたったある日。雄座は神保町のそば屋で昼飯をとっていた。
雄座はそばをすすりながら、自分の小説が載る新聞を眺めていた。
一面は政治や経済、日本軍の記事が並んでおり、雄座が喜ぶような記事はないが、案外、広告欄の絵は色々と工夫があって面白い。それに東京で新しく開店した洋食屋の紹介などは、月丸を連れて行ってみようかなどと考えることもある。
新聞の小さい記事に浅草に所在する会社や店などで暫く続いた金銭の盗難事象がぱたりと止まったことや、浅草橋の漁師が入水自殺したことがかかれていたが、雄座の目には留まらなかった。
店を出た雄座は大きく伸びをする。
「さて、月丸のところに遊びに行くか。」
そう言うと足取り軽く銀座へと歩み始めた。
主の居なくなった岸川の部屋は、岸川が散らかしたままになっており、長屋の家主が近隣に頼んで部屋の掃除へと来ていた。
そこには灰の上におかっぱ頭の人形が不気味に横たわっている。
「金がほしい…金をくれ…」
金に執着した岸川の念は新たなひんなとなって誰かの手に渡るのであろうか。それは月丸も雄座もあずかり知らぬところ。