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妖霊異譚  作者: 天戸唯月
第拾伍幕 ひんな
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ひんな 陸

「ふむ…。ここだな。」


 少し歩くと、月丸が静かに言った。考え込んでいた雄座もふと、月丸の言葉に顔を上げ、目の前の建物を見る。


「…ここか?」


雄座が問う。


「ああ。ここだな…。」


 二人して歯切れ悪く目の前の家屋を眺める。それもそのはずである。見た目も遊びも金がかかっていそうなお大尽の岸川を追ってきたはずであったが、雄座と月丸の目の前には随分と年季の入ったぼろの長屋があるだけである。

 雄座は少し小走りに長屋の端に行くと目を凝らし遠くを見る。長屋の向こうにも同じような長屋があるだけで、とても岸川が住んでいるとも思えない。

 月丸の元へ戻ると、雄座は再び月丸に問う。


「間違い無いのか?」


 その問いに月丸はこくりと頷く。


「ああ。間違いない。何なら呪の糸もこの家から出ているぞ。」


 そう言うと月丸は何かを追うように目線を流す。


「岸川だったな。あの男は別の場所にいるようだな。はてさて、どういう訳か、この家には人の気配がない。だが呪の気配はあるな。」


 月丸の言葉に雄座も考える。

 夜明け前の流行とした風は、魚の生臭ささも運んでくる。長屋の間に干してある網からも、ここは漁師の多く住む長屋なのだろう。この場所と岸川とどのような因縁があるのやら。

 漁師の誰かが、金持ちの岸川を妬んで呪いをかけたのだろうか。

 それとも岸川自身がこの家の者に恨まれているのだろうか。

 そんなことを考えていると、月丸が言う。


「まあ、ここが岸川とやらの家で間違いなかろう。本人はおらぬ様だが、どうする?」


 雄座は首を傾げ、応える。


「いや、こんな長屋にあんな金持ちが住んでいる訳ないだろう。しかし、月丸が言うならそうなのか?」


 月丸が改めて尋ねる。


「どうする?誰もいないようだが、出直すか?それとも呪だけでも祓ってゆくか?」


 月丸の言葉に雄座はうむむと考える。暫くの沈黙の後、


「そうだな。見知らぬ人とは言え岸川さんの命に関わるのだ。呪は祓ってやってくれるか?」


 雄座の言葉に月丸は頷くと、すっと長屋の一部屋の引き戸を引いた。鍵もないようで、戸はすんなり開いた。夜明け前の薄暗い部屋の中は、長年染みついたものであろう魚の生臭いがある。戸のすぐ傍には乱雑にまとめられた漁網、いくつかの釣り竿のような長い竿も見える。

 月丸は臆することなくその部屋へ歩を進める。雄座は月丸の後をそっと付いていった。


「あれだな。」


 月丸は部屋に入ると一言、こぼした。左程広くもない部屋でも暗がりの中ではいくら雄座が目を凝らしてみても月丸が見ているものは見えない。きょろきょろとする雄座を見て、月丸は右手を胸の高さまで上げると、手のひらからほわりと小さな焔を立てた。その焔の明かりで雄座の視界は一気に広がる。

 両の壁に吊るされた紐に、いくつかの手ぬぐいや着物が無造作にかけられている。部屋の真ん中にある小さなちゃぶ台には置きっぱなしにされているのであろう湯呑があった。部屋の乱雑さから、独り身の男、どう見ても浅草橋に住む一般的な漁師の家であろう。

 月丸はゆっくりと焔を部屋の一辺に向けた。それは雄座の目にも留まる。


「人形か?」


 雄座の呟きに月丸は頷く。雄座の目に入ったのは、おかっぱ頭で、少し汚れた和装の人形であった。人形は壁に立て掛けられ、月丸の焔にその白い顔を不気味に浮かばせる。


「どうやら『ひんな』になっているな。それで生気を奪っていたんだな。」


 月丸の言葉に雄座が問う。


「ひんな?なんだそれは?」


 雄座の問いにつき舞うが応える。


「ああ。ひんなというのは、人の強い念が込められ、その念が自我を持ったものだよ。人に大事にされる人形などはひんなという妖になることがある。」


 月丸の説明に雄座は人形から目を逸らさずにふむふむと頷く。


「しかし、ひんなに変わってしまうほどの強い念など、早々あるものではないから、この人形をひんなにした者は余程強い念を持っていたのだろうな。恨みか、恋慕か、念の種はわからぬがな。さて。」


 月丸は一息つくと、人形(ひんな)に向かって呟いた。


「動かぬまま正体を隠しているようだが、こちらはお前の呪を祓いに来たのだ。何か言うことはあるか?」


 月丸の言葉に人形(ひんな)はかたかたと震えだし、ゆっくりと宙に浮いた。


(祓うな…。居ね…。私は望みを叶えただけ…。私は誰かを幸せにできる…。)


 人形(ひんな)の声が響く。いや、声ではないのだろう。しかし雄座には人形(ひんな)の言葉が聞こえてくる。声にならぬ声に雄座は月丸の小さな背に隠れ尋ねる。


「月丸…。何か聞こえるが、この声が?ひんななのか?」


 月丸は頷く。人形(ひんな)は続けて声にならぬ声を発する。


(居ね…。私は幸福を与えることができる…。私は誰からも好かれている…。祓われることはない…。)


 雄座はその人形(ひんな)の言葉に目を細める。

 幸福を与える存在、好かれているとまでいう人形(ひんな)。妖が、しかも念の種は月丸でもわからぬというが、人の念によって生まれた妖が、幸福を与える存在というのはどういうことか。雄座の頭に疑問は浮かぶが、雄座の知識は『座敷童』を思い浮かべた。

 座敷童といえば、住まう家に富をもたらす妖怪と言われている。月丸が言うこのひんなもその類なのだろうか?ならば、岸川が金持ちなのも、このひんなのおかげなのだろうか。そうであれば、祓うことは岸川から財を奪うことにならないか?

 思考する雄座を遮るように月丸が言う。


「幸福を与えることができるのか。幸福を与えることができるから好かれるのか?」


 月丸が人形(ひんな)に問う。


(何人もの男が私と居るだけで幸せと言っていた。私を好きだと言っていた。身請けを申し出た男も居る。私が嫁だったらと理想を申す男も居た。私は幸福を与えることができる…。私は誰からも好かれている…。)


 雄座は人形(ひんな)の声を聴きながら、気付く。身請けと言った。この人形に念を与えたのは、女郎であろう。何人もの客がこの女郎に甘言を与えていたのだろう。そしてその女郎もその言葉に酔いしれたのだろう。そこまで思い込める念が、この人形(ひんな)を生んだのであろうか。


 月丸が更に問う。


「ならば何故そのような人形に念を宿す?何故生を吸う?」


(私は何人もの男に言い寄られた。好かれている。愛されている。病に冒された私は座敷に呼ばれなくなった。きっと男たちは私に会えなくなり不幸になっているだろう?私が与えてやらねば、男たちは不幸になってしまうだろう?私は男たちの望みを叶えてあげられる。私は好かれているから…。)


 静かに人形(ひんな)の言葉を聞き、月丸は応じる。


「望みを叶え、生を吸い、その生でどうする?」


(生を重ねれば、私が帰ってこれる…。私が帰ってくれば、男たちはきっと喜ぶ…。また、好いている、愛していると言ってくれる…。体を撫でてくれる…。私を求めてくれる…。ならば私が帰るまで、男たちに望みを与えてあげる…。男達には私の望みを叶えてもらう。私が帰れば、男たちはきっと喜ぶ…。)


 成程ただの自己満足であろうと雄座は思う。恐らくこの人形(ひんな)に念を込めたのはどこぞの女郎で既に病で亡くなっているのだろう。この人形(ひんな)は『私』と語る。つまり、この人形にその女郎が憑りついているようなものだろう。他人の命、生を吸って自身を蘇らせようとしているのか。


「死ねば黄泉返ることはない。お前はただ、標的にした男の命を吸っているだけだ。それは何の意味もない。ただ、命を奪っているだけのこと。」


 月丸が言う。人形(ひんな)が応じる。


(この男も…私を好きだといった。弁天の如くといった。私はこの男にも愛情を与えている。男も喜んでいる…。)


「雄座はここで見ていろ。」


 そう言うと月丸は雄座の右手を掴み、自身の右手に立てた小さな焔を雄座の右手に与えた。その焔は決して熱くなく、まるで空気のようなものだった。

 焔を渡すと月丸はつかつかと人形(ひんな)の元へと向かうと、人形(ひんな)の頭に手を置いた。


(やめよ…。居ね…。やめよ…。居ね…。)


 人形(ひんな)の甲高い声が響く。月丸は口元でぼそぼそと呪を唱える。


(やめよやめよやめよやめよやめ……)


 人形(ひんな)の悲痛な叫びが続いたが、月丸が触れる頭から、さらさらと砂へと変わってゆく。顔がすべて砂に変わる頃には人形(ひんな)の叫びは消えていた。やがてその姿は全て砂と化し、沈黙が訪れた。


「終わったぞ。」


 月丸の言葉が沈黙を破る。


「お…、おう。」


 雄座は呆然と眺めたままであったが、ゆっくりと部屋を出る月丸に我を取り戻し、その後を追って部屋を出た。

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