河童化け 壱
夏の暑さはすっかりと和らぎ、丁度過ごし易い時期となっている。夜になれば、虫の音が風鈴がわりに鳴り響き、僅かな風に肌寒さを感じさせる。
すでに夜も深くなってきた時刻。昼間の喧騒とは打って変わって眠りについた銀座の小道を二人の芸者が歩いていた。
「涼しくなったねぇ。ついこの間まではお座敷帰りに汗もかいたもんだけど、このくらいなら夜風も気持ちいいねぇ。」
一人が頬に当たる風に、さも気持ち良さげな声で呟くと、もう一人もころころと笑いながら相槌を打つ。
「ほんとね、佳乃姐さんは北の生まれだから暑いのは嫌いなんでしょ?」
その言葉に佳乃と呼ばれた芸者も笑顔で答える。
「そうよ。だからこれからの季節は私の三味線ももっと良くなるわよ。だから千代の踊りも練習してもっと腕を上げなんしな。」
千代と呼ばれる芸者も佳乃の言葉に笑いながら手をヒラヒラと踊ってみせながら「はいな」と答えた。
「千代、今日は風も涼しいし、変な噂もあるから川縁は避けて遠回りして帰ろうか」
佳乃の提案に千代は笑みを絶やさず言葉を返す。
「あら姐さん、あんな噂信じてるの?あれはきっと、最近流行ってる怪談物語の影響よ。神宮寺雄座って言う物書きの…」
佳乃はフゥッと溜息をつきながら、千代の言葉を遮る。
「そりゃねぇ、信じる気は無いけど、妹みたいなアンタに何かあったら、たまったもんじゃないからねぇ。遠回りだけど、大通りならガス灯もあるから明るいし、安心できるじゃない。」
そう言いながら、佳乃は千代の肩にポンと手を置いた。
噂とは、河童である。何でも夜中に歩いている女を川に引きずり込んでしまうらしい。河童のせいで、すでに何人かの若い娘が行方知れずになっていると言う事だった。
佳乃は最近大衆娯楽誌で話題の物書きが怪談物を書いたために、そんな噂が拡がったのだろうと思っていた。しかし、自分のことを心配して言っていることを理解して、嬉しくなった。
「気を使ってくれてありがとうね。姐さん。そうしましょうか。」
千代の了承を得て、佳乃が笑いながら言う。
「まぁ、大通りに行くにしても、この橋は渡らないといけないけどね。」
「こんな小さな橋、河童が本当に居たとしても川から上がってくる前に渡りきっちゃうわね。」
佳乃の言葉に千代が続ける。
サラサラと水の音が風の音、二人の下駄の音がカラカラと混ざり合う。二人とも何となく早足で渡っていく。
ばしゃん
二人ともビクッと足が止まる。次の瞬間橋の裾側から伸びた濡れた腕が千代の足を掴んだ。
川の流れと風の音。そして悲鳴が辺りに響いた。
銀座のとある一角、小さめの古い神社。雄座は相変わらずこの社で酒を呑んでいた。物書きの仕事がない時や、仕事に行き詰まると、雄座は月丸を訪ねた。今日も、原稿料が入ったため、月丸と共に酒を呑みながら語らっていた。
雄座が書いた人を守る狐の物語、「天狐御伽草紙」は月丸からも面白い、と太鼓判を押され、雄座と懇意の新聞社に持ち込まれた。大層評判が良くすぐに連載の運びとなった。新聞に載ると大層な人気の読み物となっており、暫くは雄座にゆとりと懐を潤してくれたため、最近ではすっかり社にいることが多い。
「お前にも天狐の恩恵が与えられたのだろう。」
そう言う月丸に雄座もまんざらではない。天狐に関わった者としては、あの存在を読み物としても、空想のものとしても、自分の書き物によって知ってくれた人々がある。それだけでも雄座は満足していた。
そんないつもと変わらない穏やかな時間を過ごしつつ、ふと月丸は鳥居の方に目をやると人が一人、倒れている。
「雄座、鳥居の外に誰か倒れていないか?」
月丸の言葉に雄座も鳥居に目をやると、確かに外の通りに人が倒れている。
「これはいかん。」
雄座は直ぐに立ち上がり、草履に足を通すと、鳥居に向かって駆け出した。倒れている者を抱き起こしながら声を掛ける。
「もし、どうしました?大丈夫ですか?」
女であった。雄座でも、その身なりから、女が芸妓と判る。余程走ったらしく、息が上がり倒れてしまったようである。雄座の姿を見て女は雄座にしがみつき懇願した。
「お願いします。その先の橋で、河童に襲われました。私を逃がそうと姐さんが……。お願いします。姐さんを助けて。」
そう言うと芸妓は気を失ってしまった。雄座は芸妓を抱きかかえ、境内に運んだ。月丸から拝殿に運ぶように言われ、二人で布団を敷き芸妓を寝かせた。
「月丸、この娘の言っていた橋に行って来る。」
そういう雄座に月丸も頷く。
「本当に妖の仕業ならお前だけでは危うい。俺の分身も連れて行ってくれ。」
そう言うと、月丸は境内に咲く青く小さな花を摘むと、自らの髪の毛を結び、小さな童の月丸を作り出した。以前、神田男爵宅へ行く際に見ているので雄座は驚くことはなかったが、やはり花の色によって、現れた月丸の分身は青い髪と目の色、そして薄く青みがかった装いとなっていた。
「よし、行こう。」
そう言うと雄座は月丸の分身の手を取り、鳥居へと駆ける。前回同様、雄座に手を引かれた月丸は容易く社の外に出た。
「この通りの先の橋といえば、三十間堀川の木挽橋だろうか?」
銀座には多くの川が流れており、通りごとに橋がかかっている。あの芸者が真っ直ぐ来ていれば木挽橋にあたるが、通りをずれれば賑橋や三原橋といった多くの橋が架かる。月明かりの中、月丸の手を引きながら走る。
「月丸、河童なんぞは良く怪談話に出てくるが、本当に居るのか?」
駆けながら月丸に問う雄座。同じく駆けながら月丸が答える。
「居るには居るが、俺が知る河童は人を襲わない。とても怖がりでな。人や他の妖が近づくと、直ぐに逃げ出してしまう。臆病で穏やかな妖だ。まぁ悪戯好きではあるが、それも人の子相手に驚かす程度だが……。」
その月丸の答えに雄座は思案の表情を浮かべる。
「ならば、別の妖か、それとも河童の悪さが過ぎたか……。」
間も無く木挽橋に辿り着く。辺りは夜の静寂に包まれ、近隣の店は既に明かりを消している。川縁の柳がさわさわと風になびくその光景は、いつもの代わり映えしない夜の光景であった。橋の上を歩いて見ると、秋の夜風が肌寒い。
「この橋ではなかったか?」
あまりに普通の光景に雄座が零す。次の橋に向おうとする雄座を月丸が制する。
「雄座よ。この橋で当たりだ。見てみろ。」
月丸がしゃがみ、闌干の元を指差す。雄座が促され視線を向けると、僅かに濡れたような跡がある。
「雨も降っていないのに濡れているとは、川から何かが上がってきたと言うことか?」
「まぁこんな小さな水染みなんざ、桶でもひっくり返せばできるだろうが、俺が見て欲しいのはこれだよ。」
雄座の質問に欄干の影から白い何かのカケラを指で拾い上げた。手の上に乗せると、何か割れたような木の片である。
「撥か。」
雄座の言葉に月丸が頷く。木の片は撥という三味線を弾く際に手に持ち、弦を弾くものである。月丸が持っているのは取っ手が割れて無くなり、平たくひらいた部分であった。
「ここで何かしら、あの娘が言った事が起こったようだな。」
月丸の言葉に頷きながら、雄座は川を覗き込む。黒く影を落とす川面は月明かりだけを反射し、キラキラと穏やかな流れを見せる。
二人は橋の上から色々と調べたものの、撥の片以外を見つけることはできなかった。
「月丸よ。天狐の際は野狐の妖気を感じたと言ったな。河童なり、他の妖怪の妖気は判らぬのか?」
雄座の言葉に月丸は首を横に振る。
「妖気を残すのはそこそこの力を持った者に限られるのだ。河童なんぞは人に化けても通りすがらなければ妖気に気付かぬ程度でしかない。」
雰囲気から、社で寝ている芸妓が言う姐さんは、恐らく連れ去られたものと見てよい。殺すだけならわざわざ体を持っていくことはないだろうと月丸は考える。
「困ったな。辺りの家の者に聞こうにも、こんな夜分ではそれも出来ない。」
雄座が辺りを見回しながら呟く。それに月丸が語を続ける。
「聞いてみよう。ずっと見ている者が居た。」
月丸はすたすたと橋を渡り、川縁の柳に向かっていった。そして一本の柳に手を置くと、淡い光とともに柳の中から妙齢の美しい女性の姿をした何かが現れた。その姿は淡く光り、薄く透き通る。まるで芝居や絵画に出てくる「幽霊」のように見える。しかしその姿は決して禍々しいものではなく、月丸に優しく微笑みかけている。
「月丸……。これは一体……。」
驚き佇む雄座に月丸が手招きする。
「大丈夫だよ。この方はこの柳ご自身だ。怖がる必要はない。」
月丸の言葉にそろりと近付き、柳に軽く会釈する雄座。透き通った柳は雄座にも笑顔のまま会釈を返した。
「さて、少し前に、ここで河童に襲われた娘が助けを求めてきまして。一人がどうも攫われてしまったらしいのだが、何があったか教えてもらえませんか?」
月丸の言葉に柳が透き通るような声で答えている。月丸も頷いてはいるが、雄座には柳の言葉が聞こえない。月丸に聞きたいが、柳を見るとその美しい顔立ちに満面の笑顔で何かを話している。会話の途中で割り込めぬ雄座は、黙って二人を眺めた。
月丸の分身はやはり十歳前後の小さな童であるが、元の月丸の美しさに幼さが混じり、その透き通る肌と青みがかった装いでこの世のものとは思えない美しい少女に見える。片や柳は人で言うと二十二、三ほどの年頃の見目である。髪は腰ほどもある長く美しい輝きを放つ。何より優しく温和に見える大きな瞳と笑みを含む口元は、その文字通り透き通った姿もあり、神々しく見える。
そんな二人が話しているのだから、雄座からすれば、高天原にでも迷い込んだのではなかろうかと錯覚する光景であった。
暫くすると柳が雄座の方に顔を向け、会釈した。慌てて雄座も会釈を返す。すると柳はスゥッと木に吸い込まれ、元の柳の木になった。
「柳の精霊だ。すまなかったな。精霊の言葉は普通の人には聞こえないのだ。音ではなく気で発するのでな。耳では聞こえない。忘れていたよ。」
そう言うと、月丸は頭を掻いた。
「柳の話では黒く大きな人の形をした何かが、二人の娘に襲いかかったらしい。一人は手に持っていた何か、恐らく三味線だろう。それで黒い陰を叩き、もう一人の娘を逃したらしい。三味線を持った娘の方は、川に引きずり込まれたそうだ。」
月丸の言葉に雄座の顔にも陰を落とす。
「では、助けられんと言うことか。」
雄座の言葉に、月丸が答える。
「なんとも言えん。ただ、この橋では何度かそういうことがあるらしい。一人、二人で夜に歩く若い娘を黒い何かが川に引きずり込むということが。骸が出てこないと言うことは僅かに希望はあるかもな。」
そう言うと月丸は来た道を社に向かって歩き出す。
「一先ず、帰ろう。多分探しても埒があかない。直接捕まえるとしよう。」
月丸がそう言うのならと、雄座も月丸に続いて社に戻ることにした。道すがら、
「月丸。お前は河童を見たことがあるのか?」
雄座は気になっていたことを問う。
「ああ、随分昔の話だが。人の四、五歳程度の体つきでな。頭も人の童と同じくらいだろう。随分と愛らしい妖だった。見た目も人の子とあまり変わらないので、妖とも気付かぬかもしれんな。」
雄座は驚く。そんな者が人を襲うのかと。それを察した月丸が言葉を続ける。
「今回の件が本当に河童の仕業なら驚きだが、柳は「黒く大きな人の影」と言っていた。多分、別の何かの仕業だろう。水辺の妖は何も河童だけではない。」
月丸の言葉に納得する雄座。確かに人は、何かあれば昔からの怪談に合わせる。山で奇異なことがあれば、狐や狸に化かされたと言うし、風でなびく柳を幽霊と見間違うたり。あの娘も、そんな認識程度だったのだろう。
そんなことを考えていると、ふと気になることがあった。
「月丸、柳は、今日みたいに人の姿で現れることがあるのか?」
月丸が答える。
「ああ、時々な、優しい柳などは道の先で危険がありそうな時はあの姿で人間に語りかけようとする。まぁ、先程もあったように言葉が通じないのだが。」
昔ながらの、柳の下に佇む女の幽霊の正体を知り、言葉がわからずとも人は理解し得ない存在は往々にして恐怖の対象としてしまうのだろう。
雄座は先ほど見た美しい柳の精霊に申し訳なさを感じつつ月丸の手を引き、社への帰路を進んだ。