記憶 拾漆
建物の陰に入ると、雄座は御岳を寝かせる。
「もう大丈夫ですよ。婦人も安全な場所にお連れしました。」
御岳を落ち着かせようと雄座は努めて穏やかに語るが、ここに来るまでに必死に月丸にしがみつき、そして御岳をここまで連れてきたためか、息が荒い。
「すまない。あなたは神宮寺さんですよね?一体何故…?」
御岳はそこまで言うと、はっとしたように自らの足に目をやった。先ほど食いちぎられた足は、まるで何事もなかったかのようについている。あの時、月丸という少女に癒されたのであろう。夢の様ではあるが、ズボンが膝から下が破れ消えていることが夢ではないことを語る。ただ言える事は、目の前の神宮寺も、あの月丸という少女も、敵ではないという事だ。
「失った足まで癒すとは…貴方も、あの月丸という娘も、何者なのです?」
雄座は深呼吸して息を整えると、立ち上がりながら答えた。
「月丸は妖怪です。ただ、良い奴ですよ。見られるなら、一緒に目にしておきましょう。あの鬼は月丸が何とかしてくれますよ。」
そう言うと、雄座は壁の端から月丸と鬼を覗き込む。御岳も何が何やら分からぬまま、壁の端まで這っていくと戦場を覗き見た。
ゆっくりと立ち上がる羅刹童子。
「痛てぇ。誰だ…。俺様を吹き飛ばすとは…。」
立ち上がり辺りを見回す羅刹童子。その目が月丸に向く。
「何だ。驚かせやがって。あの忌々しい天狗が現れたのかと焦ったぜ。なんだ?てめぇは?」
月丸の姿を見るなり、にやりと笑う羅刹童子。月丸は表情すら動かさずに羅刹童子を見つめていた。
「おい。天狗と言ったな?お前と天狗と何の関係がある?」
月丸は静かに尋ねる。
「ふん。僅かに妖気を感じるな。小娘。貴様も妖か?ならばわかるだろう。天狐が消滅し、やっとこの人の多い地で動けると思っていたところにあの女天狗がまるで人の味方であるかのように妖を狩ってやがる。俺の仲間もあの女天狗にやられた。俺は霊力を持つ人や妖を狩ってその力を得て、あの女天狗を喰らってやろうというのだ。」
羅刹童子は言い終えると、一歩、一歩と月丸に向って来た。
「小娘。貴様程度の妖気を喰らったところで大した力にはならんだろうが、腹は満たされそうだ。俺はさっきの男を喰らわねばならんからな。遊んではやれぬぞ。」
言いながら、羅刹童子の手が月丸に延びる。
「いかん。あの娘、喰われてしまう!」
御岳が這いながらも懐から符を取り出したところで雄座が制した。
「ちょっと!月丸なら大丈夫です。邪魔しないで!」
雄座は御岳を抑えながら言葉を続ける。
「大丈夫ですよ。身なりはあんなだが、月丸は強い。それこそ貴方達の師である婦人よりもね。だから、安心してみていなさい。」
雄座の言葉を聞きながら、符を収める御岳。師である織林婦人よりも強いなどとふざけた話である。織林流陰陽術は現代の陰陽道では最も高位、かつ、強大な呪術である。御岳は幼き頃から、婦人が怨霊や生成鬼などをその術を以て討ち払ってきたのをその目で見ている。過去には鬼ですら討った織林の力を馬鹿にされたような気分である。しかし、御岳は素直に雄座の言葉に従った。己で戦ってあの鬼には勝ち目がない事は先程体現している。だが、あの娘は自分が手も足も出なかった鬼を容易く吹き飛ばした。ならば、この雄座の言うとおり、婦人ほどではなくとも、それなりの力をもつ妖怪であるのだろう。そう思い手を引き、状況を見続けた。
「お前に構う暇はない。一思いに頭をつぶしてやるから感謝しろよ。」
羅刹童子は、月丸の頭をその大きな手で掴みにかかる。
ぱちん。と軽い音が響く。月丸がまるで蚊を叩くかのように片手で鬼の手を叩いた。
その光景に御岳は目を見開いた。
まるで小さな娘である月丸が、ゆっくりと鬼の手を叩いた刹那。鬼の腕はそれこそこん棒で殴られたかのように勢いよく弾かれ、その勢いで鬼は宙を舞い、ずしん、という音と共に地面に叩きつけられた。
月丸は倒れた鬼を見下ろしながら言う。
「女天狗は天狐の守護するこの地を守る者だ。この地ではお前達のような邪妖が生きる術はない。」
羅刹童子はうつ伏せに丸まったまま応える。
「ならば天狗を討たねば俺に先はないということか!面白い!」
羅刹童子が叫ぶと同時に、その体は地面に吸い込まれるように消えていった。
「くはは…。小娘。何か力を隠しているな。お前も喰らって俺の力としてやる。感謝しろよ。」
どこからともなく笑い声と共に羅刹童子の声が響く。雄座も御岳も目を丸くしてその光景を見ているが、当の月丸は動く事なくじっとその場に立っている。
「あの鬼は地の中から襲ってくる。それで俺も足を喰われた。あの娘に教えてやらなければ…。」
御岳の言葉に、はっと我にかえる雄座。
「…大丈夫ですよ。月丸なら心配はいらない。」
雄座の落ち着きぶりに三度驚く御岳。だが、再度月丸に目を向けた時、納得するしかない光景が目に飛び込む。
月丸は片足を軽く上げると、とん、と地面を蹴った。
刹那。
「ぎゃあ」
何もない地面から叫ぶ声。月丸は再び軽く地面を蹴る。
「ぎゃあああ」
先程よりも大きい悲鳴。そして月丸の背後、少し離れたところの地面が浮き上がり、苦しそうに呻きながら羅刹童子が浮き上がってきた。
「ぐうう…。てめぇ何しやがった?」
顔を上げた羅刹童子の表情は苦悶に満ちている。
「地面の中は流石に潜れないんでね。地面にちょっと気を注いでみた。上手くいくものだな。」
そう言うと月丸は手を広げ羅刹童子に向けた。
「嘘つけ!何の術だ?お前程度であれほどの妖気を放てるわけがなかろうが!」
「嘘は言わん。だが、お前に色々と話してやる気もない。お前は雄座を危険な目に合わせた。代償は重いぞ。」
月丸は呟くと、羅刹童子に向けた手のひらをぎゅっと握った。
「な…」
月丸が手を握った刹那、羅刹童子は小さな一声をあげ、まるで砂埃が舞うように、その体は塵となって消えた。
「終わった。もう大丈夫ですよ。立てますか?」
一部始終を見ていた雄座は御岳に問いかけた。その問いに御岳は答えることができなかった。
これまで、織林流陰陽道の使い手として、総代、織林呉葉の元で、人に仇なす幾多の悪霊、数多の妖怪を退治してきた。その中でも今日であった鬼は御岳が出会ったこともないほど恐ろしく、強かった。だが、目の前の月丸という少女はその鬼をあまりに容易く消し去った。
その光景は御岳の思考を止めるのには十分であった。
問いかけにも反応せず、目を見開き固まる御岳を心配し、雄座は御岳の肩を揺すった。
「だ…大丈夫ですか?意識はありますか?」
がくがくとゆらされて我に帰る御岳。
「あ…ああ。大丈夫です。あの…月丸という娘は一体何者だ?」
やっと反応を示した御岳に雄座も安堵の色を浮かべる。
「ああ。良かった。もう大丈夫ですからね。肩を貸します。立てますか?」
そう言いながら雄座は御岳の腕を自分の肩にまわすと、ゆっくりと立ち上がりながら言葉を続けた。
「月丸は妖霊で、俺の友人です。先ほども言ったとおり、良い奴なんで心配無用ですよ。」
雄座の言葉に御岳が問う。
「妖霊?妖霊とは…」
「雄座。ぬらりひょんの気配はもうないようだが、彼方に何人かの人の気配がする。弟子の仲間か?」
御岳の言葉を離れた場所から月丸が遮った。だが、その言葉に御岳がはっとするように応える。
「ああ。そうだ。鬼に飛ばされた俺の仲間が居る。生きているのか?」
御岳の言葉に雄座は頷くと、月丸に向かって声を上げた。
「この方の仲間だそうだ。月丸!助けられるか?」
雄座の言葉にこくりと頷くと、月丸はすたすたと歩いて行った。
「神宮寺さん。でしたね。貴方も妖怪なのか?それとも師と関係ある術者なのか?」
月丸の背を見送りながら御岳が尋ねた。
「はは。よく言われます。でもただの人だし、ただの物書きですよ。貴方のように術でも使えれば良かったんですけどね。」
そう答えながら雄座は笑った。
「改めて、神宮寺雄座です。婦人も無事です。色々ご心配なく。」
「御岳清次郎です。この度は助けて頂きありがとうございました。神宮寺先生。」
離れた場所で柔らかい光が見えた。
一刻して数人の男達がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。
「御岳さん!ご無事で!」
「ああ。お前達も無事で良かった。」
「あの娘さんが俺たちを助けてくれたのですよ。」
男達は雄座に代わり御岳の肩を支えながら、後ろから遅れてやってくる月丸を指す。
「ああ。きっと神の遣いだ。あの娘も。神宮寺さん。貴方も。」
御岳にそう言われ、気恥ずかしそうに雄座が応える。
「俺は何もしていませんよ。全て月丸がいてくれたからこそです。」
そう言うと、雄座は月丸の元へ駆けた。
「随分と容易く片付けたな。ありがとう。月丸。」
雄座の言葉に、にこりと笑うと言葉を返す月丸。
「呉葉の弟子達も無事で良かったよ。呉葉も心配していたからな。だが…。」
月丸は言いかけて周りを見回す。
「ぬらりひょんにはちょっと灸を据えないと駄目だな。雄座を攫うなどと…。」
そう言葉を続けながら月丸はため息をつく。
「ぬらりひょんは探せないのか?」
月丸は少し肩をすくめて応える。
「あいつの妖気は弱すぎて、感じることもできぬよ。妖気だけならいつも俺と居る雄座。お前の方が強いくらいだ。」
へえ。と、ぬらりひょんに対して変に関心しながらも、相変わらず自分に妖気があるのかと複雑な思いであったが、一先ずは安堵する雄座であった。




