記憶 拾参
体に付く地面が冷たい。
目は開かないが瞼裏に色もない。まだ夜なのか、それとも何処か影なのか。
耳を澄ます。
何かしらの音が聞こえないか。意識を向ける。だが、聞こえてくるのはぬらりひょん達の声と、僅かに木々の揺れる音。
場所を特定することは出来ない。
既に酔いはない。そもそも、あれ程酩酊する程呑んでもいない。ならばあの酩酊自体が、ぬらりひょんの術によるものだろう。
それが覚めているということは。
思い至り、目を開けようとする。
開かない。
指をそっと動かす。
やはり動かない。
さてどうするか。思い倦ねてみると、ふと昔の月丸の言葉が思い浮かぶ。
月丸と初めて出会った夏の日。月丸は境内の桜を咲かせてみたり、指に焔を立て、雄座を驚かせた。だが、月丸はそれを暗示と言った。
(物事の本質が対峙する同じ時間の中の真実と合ったときにのみそれが現実となる。)
これまでの月丸の、あやめの、出会った妖怪達の術を思い出しても、そんな簡単なこととは思えない。だが、雄座は月丸の言葉を信じた。
(ならば、今俺が動けぬのも、俺が術に掛かっていると思っているからだ。体を動かせぬように『されている』と思い込んでいるだけだ。そんなことはされていない。そんな術などに掛かっていない。)
雄座は頭の中でこの状況を何もないものと思い続けた。
やがて。
すっと瞼が開く。
指を小さく動かす。
動く。
先程までぼぅ、としていた感覚が一気に戻ってきた。
「月丸の言うことは本当であったな。流石だ。」
雄座は月丸の術は暗示であるという言葉を素直に信じた。そしてそれを持ち前の集中力で頭に、体に注ぎ込んだ。
その結果、ぬらりひょんの術は雄座の中でただの暗示となり、その力を失った。
気取られぬよう、薄目を開けると、昨晩出会った爺、ぬらりひょんがいる。その隣、謎の低い声の正体を確かめる。
ボロの着物は纏っているが、思っていたよりは小さい。六尺程度であろうか。薄目のぼやけた視界でもやたらと筋肉で膨らんでいるのがわかる体付きである。
視線をそっと上に向ける。視界の隅に男の顔が入る。髪の毛は茫々と乱れている。その乱れの中に一本、太い髪束のような影。
(角…。鬼か。)
帝国ホテルと社に餓鬼を放つと言っていた。月丸はともかく、婦人に知らせてやらねば身が危ない。何より、婦人にもしものことがあれば、次に狙われるのはあやめである。
「おい、帝国ホテルだろう?ならば俺が直接行って、そいつを襲ってしまえばよかろう。態々餓鬼で誘い出す必要があるか?」
鬼が言う。
「結界でも張ってあったらどうする?お前さんなら楽勝であろうが、もしものことがある。根城から離すのは当然じゃろう。それにお前が行けば、妖気であの天狗に見つかってしまうやもしれんからな。天狗を討ちたければ、言う事を聞けい。」
ぬらりひょんが応える。
ぬらりひょんの応えに、ふん、と鼻息をこぼすと、鬼は掌からぼたぼたと大粒の汁を零す。地に落ちた汁から、にょきにょきと人型が生えてくる。やがてその人型は痩せ細った童の姿となる。
目は虚、口は開いたまま涎を垂らしている。服は纏っておらず、浮き上がった肋骨、骨だけの腕と足。異常に膨れた腹は昔から絵にも描かれるような餓鬼そのものである。それが五匹居る。
「ほうら。さっさと行ってばばあなり小娘なりを誘い出してこい。」
鬼の声に、餓鬼達はぺたぺたと足音を立てながら闇へと消えていった。
「で?この男はどうする?」
鬼の声。
「何者かは知らんが、妖と親睦があり、見たところ爵家のようじゃ。金もあろう。儂の傀儡にでもしてやろうと思うとる。殺すなよ。」
ぬらりひょんが応える。
「勝手にしろ。逃げはせぬのだな?」
「儂の術で意識を奪っておる。儂が術を解かねば目は覚めぬよ。」
鬼の言葉にぬらりひょんが返すと、ずしゃずしゃと足音を立てて二人は闇に消えていった。
雄座は再び薄目を開き、ゆっくりと辺りを見回す。地面は土だが辺りは壁に囲まれている。そっと上を見ると屋根がある。
とはいえ、民家とも思えない。音を立てぬように上身を起こし、目を凝らす。
壁沿いには木材が積まれている。改めて木の香りが鼻をつく。如何やら材木屋辺りの倉庫であろう。
「木場か?」
場所は変わり、帝国ホテルの一室。
織林婦人は街灯明るい銀座の街を部屋の窓から眺めていた。
「大奥様。明日の受診は午前9時からとなります。車ですと15分程度で到着しますので、8時40分頃にはお迎えにあがります。」
黒い背広に身を包んだ男が窓に目を向ける婦人に言う。男は予定を書いているのであろう手帳をぱたんと音を立てて閉じると、婦人の背に話しかけた。
「大奥様。昼間の少女ですが一体何者ですか?隠してはいたようですが、只ならぬ妖気を持っているようでしたが…。」
男の言葉に、婦人は笑いながら振り向き応える。
「あら。気付いていたのね。凄いわ。」
婦人の言葉に男は頭を下げる。
「これでも織林家に仕える陰陽術師です。大奥様に鍛えられた我ら、全員気付いておりますとも。」
男の言葉に、ドアの前に並ぶ数名の黒服も同じく頭を下げた。
「ふふ。そうね。貴方達は私の大事な弟子だもの。気付いて当然だったわね。でも安心おし。あの子は決して、悪い妖ではないわ。」
男は婦人の言葉に頷く。
「はい。あれ程の妖気を内包しながら、微塵も邪気を感じませなんだ。最近天狐に代わり帝都を守護する女天狗がいると聞き及びましたが、もしかして…」
男の言葉に婦人はころころと笑う。
「まぁ、それならば私は帝都の守護者とお友達になれたということね。それは嬉しいわ。」
自分の予想を肯定されたためか、それとも婦人が機嫌良く笑っているからか、男達も、つられてはは、と笑った。
「さあ、そろそろ貴方達もお休みなさい。私も苦手な診察の為に今日は覚悟をしなければならないからね。」
「承知しました。ですが、旦那様も大奥様のお身体を案じて、此度の診察を依頼されたのです。どうか…。」
男の言葉を遮るように婦人が言う。
「ふふ。心配しないで。病院が苦手だから冗談を言っただけ。息子が心配してくれているのもわかっていますよ。だから帝都まで来たのだから。今更逃げませんよ。」
婦人の言葉に安堵の色を浮かべる男達。
「では大奥様。我々は外にて…。」
ガシャガシャ。
突然の音に婦人と男が音のする窓に目を向ける。
後ろに並ぶ男達は直ぐに駆けつけ、婦人を守るように窓との間に入り込む。
ガシャ
ガシャガシャ
音のする窓は既にカーテンで隠れて外が見えない。
「妖気を感じます。悪鬼か?」
男は上着のポケットから符を取り出し構える。そっと窓に近付く。
それに合わせて他の男達が婦人を護るように婦人の四方に立つ。
男は他の男達の準備が整ったのを確認すると、がばっとカーテンを開けた。
「あらあら、まあまあ。」
婦人は笑顔をこぼしながら手を叩いた。
窓の外には銀色の小さな猫がいた。その猫はまるで窓を開けようとしているかのように、爪で硝子を擦っていた。
「まぁ、可愛らしいこと。」
婦人が近付こうとすると、男が止める。
「おやめください。大奥様。なりは小さいですが、妖気を放っております。」
警戒し、猫を睨みつける男に、婦人は再び笑って応える。
「貴方も術者としては素晴らしいけど、気をもっと良く感じることができれば、更に高みを目指せるわね。」
婦人の突然の言葉に男も困惑する。
「この猫の妖気は感じておりますが…。」
「そうね。妖気は感じるわ。月丸さんのね。」
そう言うと婦人は男の横をするりと抜けて窓際に来ると、恐ることなく窓を開けた。




