記憶 漆
雄座の住まう金子子爵邸は外濠の北側、小石川の近辺にある。
雄座は普段から飯田橋を抜け、靖國神社の側を抜け、内堀を下りて銀座に向かうのが、いつもの道のりであった。
神社から帝国ホテルならば、今話題の東京駅を眺めつつ早々に着きそうなものだが。そう思いつつ雄座は綺麗に着飾った月丸を連れて千鳥ヶ淵を北に歩いていた。
「そう言えば、お前が戦ってくれた跡もすっかりと無くなったな。」
千鳥ヶ淵を通りながら、ふと思い出した様に雄座が呟いた。
この地は月丸が死姫とやり合った場所である。死姫を討つ際、月丸が放った雷により、大きく地面が抉られた。一時期は落雷による事故として扱われ、修復工事がなされ、最早死姫との戦いの跡すら残らない。
「ああ。此処だったな。そう言えば此処には来る用事もなかったからな。うん。すっかりと元通りだな。」
花も葉も落とした桜の木々が並ぶ道を眺めつつ、月丸も雄座の呟きに応えた。
桜が咲き乱れた季節であれば、道のりの景色も楽しかったであろうが、この季節、葉を落とした木々や、吹き流れる北風、通り過ぎる人々は勤め人ばかり。何とも楽しめない。
折角月丸を連れて歩くならば、せめて道歩く景色くらい良いものを見せてやりたかったが、今回は着替えに戻るだけ。雄座は何とも申し訳ない気持ちになる。
だが、雄座の思いとは逆に、この景色のあちこちに目を移し、時には振り返り千鳥ヶ淵の高台から銀座の方を見てみたり。案外月丸は楽しげにしていた。
「この辺りって、あやめの暮らしている…あの老人の家の近くだよな?」
月丸が麹町の辺りで呟く。
「ああ。もう少し奥だが、神田御前の邸宅がある。そう言えば天狐の時も一緒に来たんだもんな。そう考えると麹町や千鳥ヶ淵なんぞは俺たちに縁があるのかもな。」
そんな事を語らいながら二人は歩いて行った。
途中、折角だからと月丸を連れて靖國神社を眺めてみたり、神楽坂に寄って有名な村木屋でパンを買ったりしながら雄座の家へと向かった。
のんびり歩いても一時間程の散歩であったが、普段銀座界隈でしか彷徨かない月丸にとっては、何気ない風景も楽しく思えた。だが、月丸の姿は人の多い靖國神社や神楽坂などは銀座以上に注目を集めた。
特に神楽坂などは元々花街もある娯楽の地。月丸の愛らしさは道ゆく人たちの娯楽の対象になっていた様である。最も、当の月丸はそれすらも楽しんでいた様ではあるが。
やがて雄座の下宿する金子子爵邸に到着した。白壁に囲まれた立派な屋敷であるが、雄座は通常、裏の勝手口から出入りしている。だが、今日は月丸を連れているため、折角ならと正面の門から帰った。その方が近いからというのもあるが、側から見たら良家のお嬢様にも見える月丸を勝手口から入れるのに何となく抵抗があった。
「おや。雄座さん。こちらからお帰りとは珍しい。」
門から声をかけたのは、子爵に仕える女の使用人である。庭の掃除から子爵の予定や食事の世話までと、独り身の子爵の身の回りの世話をしており、名を奥田という。子爵より二つ三つ年下とのことで、雄座とは随分歳は離れているものの、人当たりも良く穏やかな性格のため、雄座も気兼ねなく話せる相手であった。
「やあ、奥田さん。いつもお疲れ様です。知人の妹さんをお連れしたので、こちらから入ろうと思って。」
雄座がそう言うと、月丸も奥田に礼をした。
「初めまして。月と申します。少しの間ですが、お邪魔致します。」
特に相談などはしていないが、雄座の口からポンと出た役割を何事もなくこなす月丸に雄座の方が苦笑いを浮かべた。
「あら。ご友人の妹さん。随分と愛らしい娘さんで。外国の方かしら?それににしちゃあ日本語もお上手だし…。」
月丸の銀の髪と顔立ちから、そう思ったのだろう。奥田の問いに雄座は、はは、と笑って誤魔化す。
「では子爵は仕事で居りませんが、庭のテーブルでお茶でも入れましょうかね。」
そう言って案内しようとする奥田を雄座が止めた。
「あ、いや。実は友人と帝国ホテルで待ち合わせしていて。着替えたらすぐ出発するんでお茶は結構です。」
そう言う雄座に奥田も笑って応えた。
「ああ、帝国ホテルですか。それじゃあ今の雄座さんの格好じゃあ行きづらいですものね。承知しました。」
奥田と別れて庭に造られた庭園をてふてふと歩いて行く。庭木は綺麗に刈りそろえられており、地面も土が見えぬ様砂利が敷き詰められ、その砂利に箒の跡が波打つ。
「随分と手入れされているのだな。」
そんな庭を見ながら月丸が言う。
「ああ。さっきの使用人、奥田さんと言うのだが、庭の掃除も毎日のようにされててな。時折俺の家も掃除させろと言ってくるくらい綺麗好きだな人だ。まあ、庭木は庭師の人が定期的に来ている様だがな。」
そんな事を話していると、すぐに目の前に一軒の平家が見えた。
「此処が俺の住処だ。」
庭の一角に建つ平家である。恐らく、子爵が雄座のために用意したのであろうと月丸は感じた。
何のことはない平凡な木造平家だが、雄座を思う温かな気配を感じた。
「随分と、良い所に住んでいるな。」
月丸がそういうと、雄座も恥ずかしそうに笑って応えた。
「まぁな。母の縁と、子爵の心の広さに救われているよ。さあ、散らかっているが入ってくれ。着替えたらすぐに出よう。」
そう言って雄座はからりと戸を開け、月丸を家の中へと招いた。
「うわ…。凄いな。」
月丸の最初の一声。
入ってすぐに土間があり、竈門もある。飯炊もできる様だが、釜は埃が見てわかるほどかかっており、使っていないことが窺える。
何より月丸を驚かせたのは、板敷から畳まで、これでもかと積まれた本の量であった。
「この本、全部雄座が書いたのか?」
月丸の問いに雄座が笑って答える。
「だとすれば俺はすでに有名人だろうよ。母の形見の本だったり、子供の頃から集めた本もあり、気付けばこの有様だ。」
それでも入り口側に重ねられている本の山を指差す雄座。
「そこのが俺が書いた本だ。お前にも読んでもらった事もあるやつだな。」
普段、雄座が社に遊びに来ることがあっても、その逆はなかった。友人である雄座が、普段寝起きし、仕事するこの場所が、月丸には新鮮であった。
「ああ。ちゃんと居るんだな。」
月丸は呟く。
月丸が会いたかった二人。吉房とすずに会わせてくれた付喪神。雄座の母の気配が色強く感じることができる。だが、その気配は不快なものではなく、雄座を守らんとする心地の良い気配であった。
「うん。本当に良い所だ。」
月丸は改めて呟いた。
「まあ、本の整理もできていないから、寝る場所と机の前くらいしか座る場所もないがな。」
以前和代に買ってもらった燕尾服に着替えながら、雄座は恥ずかしそうに笑って応えた。
「いや。此処は優しい良い所だ。良かったな。雄座。」
そう言うと、月丸は板敷に腰を下ろし、先程村木屋で雄座が買ってくれたパンを紙袋から取り出し、頬張りながら雄座の着替えを待った。




