乱 玖
より一層、結界の輝きが増した刹那、月丸がぴくりと肩を震わせた。
「なぁ。呉葉さん。」
月丸が突然口を開いた。その声に呉葉は答えなかった。月丸から次に発せられる言葉が想像できたからだ。
「俺、行くよ。お師様の命がどんどん小さくなっていくのが分かる。助けに行く。」
呉葉は震える声で答える。
「吉房様は見届けよと申されたのです。その命に背くのですか?何より、月太ちゃんはどうするのですか?今行けば、あなたも封の中へと引きずり込まれますよ。行かせません。」
そう言うと、呉葉の背からぶわりと翼が広がり、月丸を囲むように球状の結界が瞬時に現れた。
「あなたは吉房様が言われたとおり、安寧の世を家族と共に暮らしてください。助けるというのであれば、私が参りましょう。」
それは呉葉の最大限の結界であった。第六天魔王の力の全てをこの結界に注いだ。月丸を留め、平和な世を過ごしてほしい。呉葉も吉房と同意であった。この純粋で優しい妖霊にはまだ生きていてほしい。そう思ったからこそ、ここに縛り付ける必要があった。
「無理だよ。呉葉さんじゃあの八百万の神が注ぐ力に耐えられないよ。」
月丸は申し訳なさそうに笑った。そして手をふわりと横に薙ぐと、ぴん、と小さな音を立てて呉葉の結界が破れた。
妖の中でも最強と謡われる妖霊である。だが、その最強とは、以前の、狂った妖霊であり、この幼い妖霊であれば、第六天魔王の力全てを使えば抑え込める。そう思ったが、容易くその結界を破られてしまった。
「ごめん。呉葉さん。ここで百鬼夜行を封じなければ、お師様の術が無駄になってしまう。それにこんなすごい術、お師様が居なくなってしまったら、もう誰にもできないよ。だから、今、やらなきゃ…。」
「駄目よ!あなたには幸せになってほしいからこそ吉房様は…。」
呉葉の言葉に、月丸は深々と頭を下げた。
「多分、俺でなければできないと思う。だから、これが俺が成すべき事なんだ。だから、助けに行く。」
そう言うと、月丸は頭を上げ、数歩前に出た。
「月丸さん!!」
呉葉の声に、月丸は振り返ることなく言う。
「ごめん。最後に我がままを言うが、呉葉さんの手で、月太を育ててやってくれないかな?すずの子だから、きっと優しくていい子になると思う。きっと呉葉さんも好きになってくれるよ。」
「駄目よ!月太ちゃんはあなたが…。」
「行く。」
月丸は呉葉の叫びを背に受けながら、社に向かって駆けだした。
吉房がどうなっているかは分からない。ただ、最早余程集中しなければ吉房の生を感じることができない。やはり今の傷を負い疲弊した吉房ではこの儀は耐えられなかったのだろう。駆ける月丸の足は結界を物ともせずに光の中に飛び込んでいった。
月丸が鳥居を潜ると、境内の真ん中で吉房が倒れていた。辺りに血をまき散らし、両の腕も両の足も折れているのか、曲がらぬ方へと曲がっている。それでもただ、力強く呪を唱えていた。
ごぶり、と吉房が血を吐き呪が途絶える。そこに重ねるように月丸が呪を続けた。
驚き目を見開く吉房。
「ば…馬鹿者が。何故戻ってきた。早く逃げよ。お前まで封の中に閉じ込められるぞ。」
その言葉に答えることなく、月丸は自らの髪を一本抜くと、呪を唱えながら一体の分身を作り上げた。分身は月丸の呪を引き継ぐと、ようやく月丸が口を開いた。
「俺の成すべきことをするために戻ってきた。俺以外で、こんな霊力受け止めれる奴なんて、元気な時のお師様くらいだろう?」
月丸は冗談を言いながら笑った。だが、その目からは涙があふれる。こんなにぼろぼろになりながらも、師は生きていてくれた。またこうして語ることができた、それが嬉しかった。
「儂はお前に幸を与えてやりたかったのに…。親の心子知らずとはよく言ったものだな。」
吉房もふっと、笑う。吉房もまた、最後に我が子に会えたことが嬉しかった。
「お師様を助けて、百鬼夜行を封じて、この地に二度とこんな禍が起こらない世を作る。それが俺の幸せだよ。もう、すずみたいな悲しい死はこれで最後だ。」
月丸はそう言いながら、妖術で吉房を浮かせる。できることなら抱き上げて運んであげたかったが、近くで見れば、八百万の神の力に耐えられず、吉房の体中の骨が砕けているようであった。抱いては吉房に激痛を与えてしまうだろうと、一切の振動を排するように浮かせ、小屋に運んだ。
月丸たちがこの社を立った時、吉房はこの小屋で横になっていた。そのため、布団も敷かれている。月丸は吉房をそこに寝かせると、着物の袖で吉房の顔に付いた血を拭った。
「…良いのか?すずの忘れ形見はどうする?今ならまだ結界は完成しておらぬ。すぐに脱出すればまだ、間にあう。」
吉房の言葉に月丸は首を横に振る。
「月太は呉葉さんにお願いした。呉葉さんなら優しいから、きっと月太を立派に育ててくれる。すずも言ってたんだ。呉葉さんとはあまり話せなかったけど、綺麗で優しくてとても良い人だって。だから、すずもきっと許してくれるよ。」
月丸の表情は澄んでいた。すでに覚悟を決めた顔であった。吉房はふう、と息をもらすと、目を細めた。月丸の言うとおり、自分でも命を賭せば何とか耐えられると考えた結界は、強大となった百鬼夜行を封じるため、その結界を作る力も強大となっていた。その力に押しつぶされ、封印ができるかも怪しくなった時、月丸が現れた。
たしかに、この八百万の神達の力を受け止めることができるのは、吉房の知る限り、大神。だが、地にあっては、恐らく妖霊の他居ないであろう。それを悟り、己も封じられると分かってこの月丸は来たのだ。
「お主は優しく育ってくれた。儂はそれだけで満足じゃ。願わくば、お主に自由を与えてやりたかったがな。」
そう言うと、折れた震える手を持ち上げ、いつものように月丸の頭を撫でた。月丸の美しい銀色の髪に吉房の血が付くが、すでに吉房の目は徐々に盲しており、それすら気づかなかった。
月丸は吉房の手を心地良く受けた。恐らく、もう二度と頭を撫でてもらえることはない。この手のぬくもりは間もなく消えてしまう。心の中では、必死に術を組んでいた。
何かないか。
癒す術とはどうすればよいのだ。
この血を止めてあげるには。
この傷を癒してあげるには。
この痛みを取り払ってあげるには。
だが、顔には出さない。師が安心できるよう、弟子がいともたやすくこの結界を完成できるであろうと思ってもらおうと、穏やかな笑みを浮かべ吉房を見つめる。
「俺は自由を与えてもらったよ。だから、自分の好き勝手にここに来たんだ。だから、心配しないで。」
「かか。そうか。ありがとう。月丸。お主に会えてよかった。お主に会えて儂はこの上なく幸せであったわ。」
「俺もだよ。お師様が色んなことを教えてくれた。友達を与えてくれた。人の世の営みを教えてくれた。何もない妖霊を…月丸にしてくれた。会えてよかった…よ。ありがとう…お師様…」
「…話は尽きぬが…、もういけぬ。命が巡りし、いつかの世で…再び…お主と……。また、こうして語ろ……」
言葉が終わる前に、月丸の頭にあった吉房の手がとさりと月丸の膝の上に力なく落ちた。
刹那、吉房に安堵を与えようと、笑みを浮かべた月丸の顔が青ざめた。
「お師様…お師様…………」
月丸は吉房の胸に手を当てる。その鼓動はすでに停まっていた。胸の骨も砕けているのだろう。あれほど固く広い師の胸は押せば潰れそうなほど柔らかい。これほどになるまで、人の世のために尽力したのだ。
月丸は着物の袖で涙を拭うと、そっと立ち上がった。
「お師様が命を懸けてここまでやったんだ。後は俺に任せてくれ。終わったら、この永久の封の中で共に過ごそう。」
月丸はそう言うと、小屋を出て分身の元へ歩み寄った。吉房を看取りながら、分身へ大半の力を注ぎ込み、呪を続けながら神の力を受けていた。その分身を戻すと、月丸自らが呪を唱える。
体に流れ込んでくる力は途方もない程であった。余りの力に体が軋み激痛が走る。だが、それすらも月丸は嬉しかった。
今はお師様と同じことをしているんだ。お師様を継いでいる。
ふっと笑うと、月丸は儀の仕上げに入った。
一方、呉葉。
月丸を止められず、自らも師の元へ向かえず、悔しさで咽び泣いていた。鞍馬はそっと、呉葉の隣に立つと、言葉を掛けた。
「お前たちの師も。妖霊も。儂ら神だの妖だのとは何か違うのであろうな。神の力を制するなどと正気の沙汰とも思えぬ。だが、儂らは儂らで、成すべきことがあるのであろうな。お主も妖霊に何か託されたのであろう?」
語り終えるが早いか、鞍馬は呉葉の前に立ち、ぐっと耐えるように身を屈めた。
刹那。
結界の光はまるでそこに陽が落ちたかの様にまばゆく輝いたかと思うと、溢れるほどの霊力が津波の様に押し寄せた。その力から呉葉を守るために鞍馬は立ちふさがった形となったが、あまりの威力に眼も開けていられるほどである。
恐らく、力の奔流はほんの刹那の出来事であったのであろうが耐える者にしてみれば、随分と長い時間に感じた。やがて力の奔流が消えると、鞍馬はゆっくりと目を開ける。先ほどまで傍に控えていた天狗達の姿がない。恐らく先ほどの力の奔流で飛ばされてしまったのであろう。
振り向き呉葉を見ると、さすがは第六天魔王である。鞍馬の陰にあったとはいえ、耐え凌いだ。
「終わったようだぞ。第六天魔王よ。」
鞍馬の言葉に呉葉も顔を上げる。
真っ青に晴れ渡った空に、命豊かな木々草々が青々と茂っている。日比谷入り江は波穏やかに陽の光を受け煌めいている。
すでに辺りを囲っていた八百万の神達の気配は存在しない。先ほどまでの畏怖がまるで嘘のように穏やかな光景が広がる。
「吉房様…月丸さん…」
呉葉は力なく立ち上がると、とぼとぼと社に向かって歩き出した。見かねた鞍馬は、力なく歩く呉葉の後を付いていった。
半刻ほどで社に辿りつく。いや、社があったと思われる場所に。
道は覚えている。間違いないはずである。
だが、そこには何もなかった。いや、見えなかった。だが、在る。それは分かる。
結界の気配がある。しかし、それがどこにあるのかもわからない。ただ、当たり前の林が広がっているだけであった。
月丸は全霊を賭して結界を完成させた。だが、その疲労から境内の真ん中で仰向けで空を眺めていた。
「終わったよ。お師様。やり切ったよ。」
どうやら、この社に百鬼夜行が封じ込められたらしい。それは理解できた。月丸の傍には、陽があるにも関わらず、禍々しい瘴気を放つ六尺ほどの黒い石があったためである。恐らくこの石に百鬼夜行が封じられている。儀は成功したのだ。
ふと、視界に動く者が見えた。鳥居の方に目を向けると、呉葉が蹲り泣いているようであった。後ろには鞍馬が立っている。
月丸は何とか這って、呉葉の元へ向かう。
「呉葉さん…やったよ。百鬼夜行を封じたんだ。これでもう…」
ばちん
鳥居までやっと這っていき、呉葉に手を伸ばそうとしたとき、見えない何かが月丸の身体をはじき返した。
どすんと地に倒れ込む月丸。だが、呉葉はそんな月丸に気付く様子もない。気が付けば、咽び泣く呉葉の鳴き声すら聞こえない。
「あぁ、そうか。これが封印か…。」
月丸は何とか上身を起こすと、呉葉に向かって声を上げた。
「呉葉さん!お師様に言われた通り、幸せになってね!月太のこと、よろしくお願いします!いままでありがとう!」
届かぬ声と分かっていた。だが、それでも月丸は声を上げた。




