乱 陸
鞍馬は伝心を使い、鞍馬山に隠れ住む他の天狗で霊力の強い者達を呼び寄せた。
呉葉より学んだ吉房の結界は、あまりにも大きな霊力を必要としたためである。
元々連れてきた天狗達は戦闘に特化しているため、結界を維持するのは困難と判断した。そもそも、第六天魔王の力を持つ呉葉、妖霊である月丸はともかく、人の身でその結界を維持した吉房なる術者が異常であり、鞍馬を驚かせた。
月丸はと言えば、無意識に百鬼夜行の瘴気から身を守っていたようだが、数日もの間、強い瘴気の中、戦っていたため、瘴気に毒されているようであった。
すずを殺された怨、守れなかった自分への怨、元凶である百鬼夜行への怨。
積もった怨は月丸の精神を蝕んでいる。まずは月丸を清める必要があった。
その晩、呼び寄せられた数十名の天狗と呉葉によって辛うじて百鬼夜行から月丸の姿を隠した。
幸いであったのは、数日の月丸の強攻は、百鬼夜行を強大にしただけではなく、本来百鬼夜行に本来存在しない「恐怖」を植え付けた事であった。
「今宵はあの恐ろしき妖が姿を見せぬ…。逃げよや。逃げよや。」
百鬼夜行から聞こえる声。
結界に護られた月丸達に気付く事なく、百鬼夜行は逃げるように江戸へと歩を進めた。
江戸までの百鬼夜行の道のりは、呉葉が人里のない道を用意しているとの事なので、そこは心配しなかった。
まずは月丸の穢れを祓う。
鞍馬自ら陣を組み、その陣の中心に月丸を座らせると、術を唱える。それは日が昇り、また沈んでも続いた。
二晩掛けて禊を行った。禊の儀は、護法魔王尊と謳われる鞍馬と、その配下四名をもってして、三日もの長き間、休む事なく続けられた。地に住まう神、妖、人の類であれば、それ程の禊をもってすれば、数刻で儀は終える。だが、月丸の怨は深かった。それ程、この村の者達を信頼し、愛していたのであろう。そのような感情を妖霊が持ったというのは、鞍馬にとっては喜ばしい事である。だが、そのためにこれ程の深い怨に駆られる妖霊に一抹の不安を覚えた。
今は百鬼夜行に怨が向いているが、呉葉の話ではそもそもの企みは朝廷。いつ、妖霊の怨が人に向けられるか、そうなってしまえば、果たして自分が妖霊に敵うか。鞍馬の中に様々な思惑が溢れた。
やがて儀式が終わると、月丸はまるで長い眠りから醒めたようにゆっくりと目を開けた。真っ先に月丸に駆け寄り抱きしめたのは呉葉であった。
「ごめん。呉葉さん。心配かけたみたいだね。」
月丸は朧げではあるが、己の行いを覚えていた。すずが殺され、我を見失っていた。だが、残された者を’思い出すことができた。
月丸の言葉に、呉葉は首を横に振る。
「良かった…月丸さんが正気に戻って…。」
そう言うと呉葉は月丸を抱き締めたまま、静かに泣いた。
「…村のみんなは…すずは…どうしたの?」
すずという名を口にした時、月丸の目からは自然に涙が溢れ出ていた。だが、月丸はそれすら気づかない。
「吉房様と私と、生き残った村の者達で埋葬しました。最後に月丸さんに会わせることができずに、申し訳ございません。」
「そうか。ありがとう。俺がすずから頼まれたのに…情けないな。」
月丸と呉葉のやりとりを静かに聞いていた鞍馬が口を開く。
「久しいな。妖霊。仔細は第六天魔王に聞いた。今の百鬼夜行はお主達の企てにより江戸前島に向かっておる。そこでお主の師が神々より受けた封印の儀を行う。やれるか?」
その声に月丸は振り向く。その昔、自分を退治しに来ながらも、戦い方や妖術の使い方を教えてくれた天狗であることにすぐに気付く。
「あんたも来ていたのか。」
月丸の言葉にふん、と鼻を鳴らし答える鞍馬。
「強大となった百鬼夜行と妖霊の退治を命じられた。まぁ、お前は大丈夫であろうと信じておるが、あれ程の百鬼夜行は、最早儂の手にも余るぞ。やむを得ぬとはいえ、余計な事をしたな。妖霊。」
皮肉を言ったつもりであったが、月丸は素直に謝罪した。
「ごめん。大切な…本当に大切だったんだ。すずも、父上も母上も…正次郎も…村の皆も。あんな死に方…許せなかった。信じられなかった。そこから、記憶があやふやだ。俺も怨に呑まれてしまった。お師様に散々言われたのにな。」
素直に謝罪する月丸に鞍馬はこれ以上何も言わなかった。暫くの間、沈黙が続いた。そして月丸が口を開く。
「呉葉さん。百鬼夜行を封印する。俺も江戸前島に行くよ。百鬼夜行を封印したら…。」
月丸は汚れた袖で溢れていた涙を拭うと、いつもの優しい微笑みを呉葉に向ける。
「月太を育てながら、静かに人として暮らして行くよ。月太をすずから頼まれた。せめてそれくらいは約束を守ってやりたい。」
呉葉は涙ながらに、うん、うん、と頷く。
「そう言えば、お師様は?」
月丸の言葉に、呉葉は小さな声で答えた。
呉葉の話では、月丸が正気を失った夜、村の中にはまだ野武士がふらついていた。月丸が結界を解いたため、吉房は呉葉とともに村人を襲う残った野武士達を討ちとっていった。だが、吉房自身も矢を、刃を受ける事となった。
野武士を全て討ち取ったのち、その身の治療もせずに、亡くなった者達の埋葬を行った。そして今は百鬼夜行に先立ち、江戸前島での準備に赴いているのだという。
「月丸さんは必ず正気に戻る。吉房様はそう言っておられました。本当にその通りで…。」
そう言う呉葉に月丸が目を見開く。
「お師様、怪我をしているのか?大丈夫なのか?」
不安の表情を浮かべる月丸に呉葉は目を閉じ語る。
吉房は呉葉に命を与えていた。月丸はいつか正気に戻る。その時、お前は事の仔細を伝えるために月丸の側にいるようにと。そして、自分は人生の最後にこの強大な百鬼夜行を封じ切ってみせる、と。
それは吉房が命を賭して封印の儀を行おうとしていると言う事であった。怪我はある。だが、それまで命が持てば良い。それだけであった。呉葉を月丸の元に置いたのは、己の身より月丸を案じたためであろう。
「行こう。呉葉さん。あんたも手伝ってくれるんだろう?」
月丸は立ち上がると呉葉と鞍馬に声をかけた。
「はい。吉房様も安心されると思います。」
「儂は百鬼夜行を封じるために来たのだ。当然であろうが。」
二人の言葉を聞き、月丸は頷くと、辺りを見回す。すずや村人達と土を耕し、種を植え、食物を育てた田畑は、連日の月丸と百鬼夜行の攻防で荒れていた。横を流れる用水は、恐らく百鬼夜行の瘴気を含んでいる。村に目をやる。すずと共に過ごした佐ノ丈の屋敷はそのまま残っているが、今はその屋敷に誰もいない。
月丸の脳裏にここで過ごした思い出が溢れ出す。
すずやその家族との思い出。
村人達の畑を手伝ったり、月ちゃんと呼ばれ、可愛がられた事。
子供達と共に山の栗拾いに行った事。
十余年の思い出が次々に頭に浮かんだ。
再び溢れる涙を拭うと、月丸は意を決したように、誰に言うでもなく呟いた。
「もうこんな悲しい思いをする者を作っちゃいけない。絶対に百鬼夜行は封じるんだ。」
それから、月丸は一度、佐ノ丈の屋敷に戻り、すずが命を落とした部屋で手を合わせた。まだ生々しく残る血の後を見て、再び声をあげて暫く泣いた。
ひとしきり泣くと、月丸は自分に与えられていた箪笥を開けると、着物を着替えた。そして大事にとっていた、すずから初めてもらったお手玉を懐に仕舞った。
「行ってくるよ。すず。月太が安心して育てるように、あの百鬼夜行は絶対に止めるから。今度こそ、約束を守るから。」
そう言うと、屋敷を後にした。
「何じゃその格好は?」
鞍馬が戻ってきた月丸の姿を見て驚く。月丸の姿は、薄く菜の花の様な密陀僧(薄い黄色)、裾や袖に花の刺繍がされた女物の着物であった。帯にも細やかな刺繍が施され、それなりに良い物であることが一目でわかる。良家の娘が何処ぞにお詣りにでも行く様な姿である。
およそ、百鬼夜行の封印に向かうような姿ではない。その為鞍馬の口から出た言葉であった。
「良いだろう。佐ノ丈が俺とすずにお揃いの着物を買ってくれたんだ。すずは大きくなっちゃったから着れなくなったけど、すずが好きだと言っていたから、これを着ていく。」
鞍馬にはすずという人間は分からないが、妖霊が家族と称する程、信頼し、愛されていたのであれば、この姿も妖霊なりの手向けであろう。そう考え、それ以降は口を出すことは無かった。
そして、月丸、呉葉、鞍馬天狗以下十五柱の天狗達は、一路、江戸前島を目指し駆けた。




