妖霊 弐
雄座の呆けた声に、あやめも首を傾げるが、直ぐに何かに気付いた様にパンと小さく手を合わせた。
「あぁ、そっか。正体を隠してるのにバレてたら驚くわよね。でも、ちゃんと隠さないと少しだけど妖気が体から漏れてるわよ。」
正体を見破られたことで雄座が驚いたとでも思ったのだろう。あやめは雄座を安心させようと小声で説明するが、雄座には身に覚えのないことである。そもそも自分は人間なのだから。呆然とする雄座を他所に、あやめは更に続ける。
「実を言うと、銀座で見かけた時に雄座が妖怪なのはすぐに分かったの。でも、お話しするきっかけがないでしょう? だから、このお店の前で悩んでる貴方を見て、声を掛けたの。」
そう言うとあやめは美味しそうにワッフルを口に含んだ。
雄座としては、何か勘違いされてるようではあるが、自分を騙す様な怪しい素振りもない。上流華族ともなると妖怪と人間との区別も付くものなのだろうか。しかしそれにしてもその鑑定は誤っているのだが。そんな事を考えつつ、雄座は少しだけこの不思議な娘に興味を持った。
「もし俺が妖怪だとしたら、どうするのだ? 祓うつもりか?」
本気かそうでないかは解らないが、月丸への土産話にもなるし、雄座はあやめの話に合わせる事にした。そんなことも知らないあやめは両手を顔の前で振りながら答える。
「祓うわけないじゃない。それこそ雄座が悪意を持つ妖怪ならともかく、そんな気配は全然ないし。きっと人間に紛れて静かに暮らしていたんでしょ?」
全て分かっていると言わんばかりに得意気に言葉を並べるあやめ。雄座はその姿に若干の面白みを感じ始めていた。
「ふむ。あやめさん。貴女も悪い者ではないと思っていいのかな?」
雄座のその言葉に、あやめが笑う。
「こんな可愛らしい娘が、どうやったら悪者に見えるのよ?」
コロコロと笑うあやめの声に、辺りの客もチラリと視線を向ける。自然と他の客の声が雄座の耳に届く。
「仕草も笑い声も可愛らしいわね。本当に、どこのご令嬢かしら?」
「ほら、アレじゃない。帝国劇場で公演していた歌劇の女優さんにも似ているわ。妖怪なんて言ってるから、何かの演目のお話かしら?お連れの方も役者さんの様な綺麗な男性ですし…」
店内はとても繁盛しており、テーブル席は埋まっている。近くの席から聞こえる小声の会話や視線を感じる。
目の前の先程あったばかりの娘が並以上に器量が良いのは雄座でも分かる。しかし、周りの婦女子がチラリチラリとこちらを見ながら話題にする程となると、同席者としてはどうにも気まずい。話を合わせてみようかと思ったが、周りが気になって仕方がない。
「教えてやるのもいいが、あやめさん。貴女はこの店の中でも目立っているようですよ。ここで語るのは如何なものかと思うが……。」
雄座の言葉にあやめは周りを見回した。先程までチラチラと見ていた周りの婦女子達が一斉に下を向く。
「あら、気付かなかったわ。そうね。確かにここじゃ他の人の耳にも入っちゃうものね。気付かなかったわ。ごめんなさいね。」
そう言うとすまなそうに笑いながらあやめは肩を竦めた。おそらく、この娘にとって、注目を集めることはよくある事なのだろう。直ぐに納得したあやめを見て雄座は悟る。華族とは言え、見た目だけで注目を浴びるとは災難なものである。
その後は雄座が百貨店や銀座の店々に明るくない事を知ったあやめが、どの店の何がいい、何某を買うならあの店が良い。等々世間話が続いた。
雄座は途中で女中を呼び、土産用に持ち帰るワッフルを注文した。
面白い話でも聞けるかと思った雄座であったが、あやめもわきまえているらしく、それ以上雄座が妖怪であるなどとは聞いてこなかった。
食べ終わった頃に土産に包んでもらったワッフルも届けられたので、雄座は帰り支度を始めた。それを見て、あやめが真面目な顔で改まる。
「ねえ、雄座さん。さっきの話の続き、安心して話せる場所があるんだけど、そこに行きませんか?」
器量良しの娘からの誘い。普通の男なら喜んで乗るところではあるが、雄座である。この娘が何者かは気になるが、流石に月丸の元に連れて行くにも、月丸の了承を得ていない。
「お誘いはとても有難いが、これから行く場所があるので申し訳ないが遠慮しておくよ。」
雄座の言葉に少しがっかりしたような顔を見せる。
「残念だけど、用事があるのなら仕方ないわね。」
会計をしようとするあやめを制して、雄座が会計をすませる。色事に興味はないものの、婦女子に払わせるのも躊躇われる。幸い、原稿料が残っているので、これくらいは問題ない。
「それではあやめさん。また縁があれば。」
そう言うとあやめに軽く会釈した。あやめも会釈を返す。
「一言だけ。貴方も気づいていると思うけど、この地を守る天狐が消えたわ。一応、気を付けていてね。」
天狐を知っているあやめ。雄座の興味を引くのに十分であった。立ち止まり振り返ると、雄座に小さく手を振り立ち去って行くあやめの姿があった。雄座はその後ろ姿を見送るとそのまま月丸の元へと歩を向けた。
一時後、雄座は社のいつもの濡れ縁にあぐらに座っていた。側には買ってきた酒や肴、先程のワッフルがある。
「月丸、洋菓子は食べたことはあるか?」
来て早々の雄座の問いに月丸は首をかしげる。
「徳川の時代に、かすてら?かすていら?とかいうものを食したことはあるが、それがどうかしたのか?」
雄座はワッフルの包みを月丸に渡した。
「ワッフルというものだ。最近銀座で流行している洋菓子だ。月丸に食べてもらおうと思って買ってきた。」
月丸の反応が楽しみな雄座は自然と笑顔になる。驚いた月丸であったが雄座の笑みにつられ、ふと笑顔をこぼし包みから溢れる香りを確かめた。
「ほう。甘い香りだな。それではありがたくいただくよ。」
そう言うと月丸は正座に座る膝の上で包みを開ける。
「これはまた……。なんとも愛らしい菓子だな。」
厚めのスポンジ生地でクリームを包んだ焼き菓子。月丸は見るのも初めてであるが、興味を持ったのか、手で一つ一つ摘みまじまじと眺めていた。その姿を見ながら雄座が手酌で買ってきた酒を盃に注ぐ。
「何となくな。ここから出られないと言っていたのでな。せめて、目新しいものを月丸にも味わって欲しくてな。」
そう言う雄座を見ながら、月丸も微笑む。
「ありがとう。いただくよ。」
月丸は一口ワッフルを口に含むと、ゆっくりと味わう。
「これは、柔らかくて美味しいな。初めての味だ。」
そう零すと、ぱくぱくと食べ始めた。
月丸の喜ぶ反応に雄座は満足し、口元を綻ばせながら酒を干した。
「そういえば、これを買いに行った時、多分華族の娘だと思うが、不思議な娘に出会った。」
酒を一飲みした後、雄座が先程のことを月丸に語って聞かせた。月丸はふむふむと聴きながら、ワッフルを味わっている。
「お前さんを妖怪と勘違いするなどと、それは確かに可笑しい娘だなぁ。」
一通り話を聞き終わった月丸は、ころころと笑った。合わせて雄座も笑う。
「全くだ。こんな取り柄のなさそうな俺が妖怪であるわけがないし、そもそも妖気など人である俺が出せるものか。」
そう言いながら、雄座は顎に手をやり考え始める。
「いや、待てよ。もしかすると人間として育てられたため、自分が妖怪であると気付かなかったとしたら……。」
「安心しろ雄座。お前さんは立派な人間だ。妖気のかけらも持たんよ。それは俺が保証しよう。」
そういうと月丸はお茶の注がれた湯呑みを口に運んだ。
月丸に即座に否定はされたものの、妖怪と気付かずに人として生きる妖怪の話もまた面白そうだと雄座は頭に記憶した。そしてここに来た目的を思い出す。
「そういえば月丸。俺が書いた短編ではあるが天狐のような狐の物語を書いてみた。読んでみて感想を聞かせてくれないか?」
そういうと懐から原稿用紙の束を出し、月丸に渡す。
「ほう、天狐の……。この間の事を書いたのか?」
月丸の言葉に雄座は首を振る。
「いや、話自体は創作だ。ただ、天狐の様に人や地を護り続け、終いには一人の娘を助けるために自らの命を投げ出す様な、そんな有り難い存在が居た、その事を他の者にも知ってもらえたらなと思ってな。」
そう言うと、雄座は酒を口に運ぶ。そんな雄座を見ながら月丸は口元に笑みを浮かべた。
「あの天狐も、こうまで想われていたら、きっと満足であろうよ。読ませてもらおう。」
月丸が原稿を開こうとした時、それは起こった。
きぃーん
風もなく、僅かな葉の音や虫の声を搔き消す、甲高い音が響く。