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ウォーターグローブ・スーサイド  作者: 孤迄 真仁
1/10

迷子の少女と見知らぬ男

 眠い。ただただ眠い。

 耳元では轟々と燃え盛るような何か、音がする。肌は引き裂けるように痛み、反して瞼は錨のように下へ下へ意識を押し留めようとする。

 呼吸すら億劫なほど、安らかな揺らぎが痛みから引き剥がすようにゆっくりゆっくり私を底なしの闇へ沈め込んでいく。


「……――起きて」


 遠くで誰かの声が聞こえる。輪郭のはっきりしない声が、焦りを帯びてたゆたう。


「――死んでしまう、起きなさい」


 微睡みをふるいにかけ、私を誰かの手が引きあげていく。ざあざあ、ごうごう、ざあざあ、ごうごうと、ふるいの上には私だけが徐々に取り残されて、浮上していき、そして……ぴしゃりと頬を張られた。

 途端、身体を激しく揺さぶられていることに気付く。

 寒い。身体が濡れている。轟々と突風が濡れた身体に吹き付けて、凍えるほど体温を奪っていく。それを意識した途端、身体が悲鳴をあげ、がたがたと震え始めた。


「……ああ、よかった。目が覚めたのですね」


 私の身体は何か大きな布のようなもので包まれて、それごと誰かが私を抱え込んで顔を覗きこんでいる。

 合わない焦点を必死に手繰り寄せて、それで、ようやく相手の姿を認識する。

 フードの男だ。その容貌は深く覆った布に隠れて見ることが出来ない。覗く口元は安堵で緩んでいる。

 その男の腕の中で、自分でもなんと冷静なことかとは思ったけれど、辺りを見渡してみると、そこは突風吹き荒ぶ草原の中心部だった。

 私のすぐ隣はバケツを返した冬の朝ように氷が張っている。どうやら男がここで倒れている私を見つけて、布にくるんで声をかけ続けたようだった。


「こんなところでどうしたんです。私が見つけていなかったら死んでいたかもしれませんよ」


 答えようと口を開くと、震える歯が舌を噛みそうになる。一音喉から漏れ出た声が情けなく震えて落ちる。

 助かりたい。死にたくない。その気持ちがそのまま彼の腕を掴み、凍えた腕が彼まで冷やした。力を入れすぎたのか、爪と衣服の間からじわりと赤いものが滲む。


「ああ、すみません。そうですね」


 彼は荷物を下ろすと、私を今まで以上に簀巻き然と包み込み、抱き上げた。先ほどより温かい。助かるという安心感か、その温かさに多少筋肉がほぐれたのか、またうとうとと瞼が落ち始める。

 その私の身体を彼がきつく締め上げる。


「まだですよ。もう少し、この近くに小屋があるはずですから、そこまでは寝ないで」


 辛うじて開いた瞼の隙間から彼を見上げると、フードの下から優しい目が覗いていた。何か懐かしい色が反射して、それがきらりと驚きに変わる。その後ろでは、青白い太陽のようなものがさらさらとその光を辺りに振りまいている。

 光を見つめていると、ほんの少し乗り物酔いのような気持ち悪さを感じて、視界が細かく揺れ始める。視線の先で青白い光が徐々に徐々に振れ幅を大きくしていき……。

 彼の忠告も虚しく、私の意識はそこでふつりと途切れた。


 聡が画用紙に青い砂を糊で貼り付けて、海を描いている。

 高いところから砂を落として、ぱつり、ぽつり、ぱちりと、音をたてて遊んでいる。

 手を伸ばすと途端に手の届かないところまで遠ざかってしまう。蜃気楼のように、聡はその場から動いていないというのに、掴もうとすればするほど私との距離が離れていく。

 聡、と呼び掛けたいのに、私の喉からは呻き声すら紡ぎ出されない。聡、聡。何度そう呼びかけようとしても、私の声だけでなく私の存在に気付いていない様子で砂で遊んでいる。

 ぱちり、ぱきり。音だけが私の耳元で鳴り響いて消えていく。

 その時、誰かの腕が聡を抱き上げて――。


 はっと大きく一度息を吸い込んだ。その勢いに自身が一番驚いて、堪えられずむせてしまった。

 夢だったのだろうか。そうだ、聡は、聡は無事なのだろうか。

 痛む身体を何とか持ち上げ辺りを見渡す。薄暗い小屋の中だ。丸太を組んだ壁の外では、既に風は鳴りを潜めている。そばでは暖炉の炎が音をたてて爆ぜている。


「……気がついたんですね。お腹は空いていませんか」


 少し離れた灯りがようやく届くかという一角に、男は壁にもたれて何か作業をしている。

 忙しなく手を動かし、何かを分別しているようで。

 炎の熱で解れた身体は先ほどよりもすんなりと動いた。


「あの……ありがとうございます」


 ちらりと男がこちらを見る。何か警戒するように、言葉を選んでゆっくりと話し始める。


「あなたは、あそこで何をしていたのですか」


 広大な草原の真ん中で、私は何をしていたのだろう。

 最後の記憶は海と車と、そして水越しに歪んだ、目を閉じた聡の顔だ。水を飲んで、息を手放して、力なく水中に倒れこんでいく聡の薄く開いた瞼の向こうから見つめてくる瞳――。

 私は咄嗟に口を抑える。胃からせり上がってくるものを懸命に抑えたが、鼻に抜ける匂いに負けそうになってしまう。


「お、え……」


 無理に堪えた所為か、鼻からも胃液を垂らして布を汚してしまった。

 男は驚いて目を見開きつつも私に駆け寄って背中をさすってくれる。その掌が温かくて、優しくて、つい涙が溢れた。


「すみません。申し訳ないことを……お辛い経験をなさったのですね」


 温かくて心地よい熱が背中を往復する。最後に誰かにそうされたのはいつだっただろうか。人の優しさが当たり前でなくなったのはいつだっただろう。

 男はしばらく背をさすると、先程分けていた物を私に差し出す。

 木の器にこんもりと盛られたそれは赤く熟していて、小ぶりではあるものの瑞々しく、美味しそうな果実だった。


「これを食べて。大して吐けもしないではないですか。もう夜も明けます。朝が来たら移動しますから」


「移動……息子が……」


 いつの間にか海から移動してしまったとはいえ、私がここにいるのであればきっと聡も近くにいるだろう。

 その言葉に男は何か言い淀んで、何度か唇を動かしたあと、探るように言葉を紡いだ。


「――、……それは、黒い髪で黒い目の、物心つかぬ年の端の子供ですか。男の……」


「……! はい! そうです! 聡というんです!」


 男は何か迷うように、フードで隠れてはいるものの、こちらにも分かるほどに視線を彷徨わせている。何度かこちらを見はするものの、言い難いのか口を開いては取りやめ、唇を噛むのを繰り返す。


「――、――……ええと、はぐれてからどのくらい経ちましたか」


 男が覚悟を決めたように、こちらをしかと見つめて言う。その真っ直ぐな視線に何か後ろめたさを感じ、つい視線を逸らしてしまう。


「気を失う前は、一緒にいたんです……」


「気を失う前、というと」


 こちらをのぞき込むように小首を傾げる男の瞳に、炎の赤が好奇心が煌めいている。

 顔の整った男だった。かといって異国を感じさせるものでもなく、黒髪黒目、日本人の中でもかなり持て囃される部類の顔だろうか。歳は20代前半……私よりも少し上に見えた。


「気を失っていた時間が……わからなくて、一日も経ってないかと……。でも、海にいたはずで」


「……海」


「ええ、そうです。草原に来た記憶はなくて……」


 男の眉が怪訝に歪む。何かおかしなことでも言っただろうか。

 少し考えた様子の男は小さくなった炎を見咎めて、暖炉に歩み寄り薪を焚べる。

 振り返りもせず、そのまま男はぽつりと言った。


「生きていないかもしれませんよ」


 それから男は様々なことを教えてくれた。

 あの場所には時々使い方もわからぬようなものが落ちていること。その中でも使えるものは魔道具として高値で取引されていること。以前一度だけ、人が倒れていたことがあること。その者はこの世界のことを知らず、馴染むのにかなり苦労したこと。そしてそれから心配で時々この場所を見に来ていること。


「その者は大人で、茶色い髪をしていたのでご子息ではないかとは思いますが……」


「……生きていないかもって?」


「それも含めてお話しましょうか」


 この世界には白熱した太陽の他に、『大燐』と呼ばれる青白い太陽のようなものがあるらしい。それは地上のエネルギーを熱という形で吸い上げたり、また直接的に冷気を放っていたりして、昇っている間非常に冷え込むそうだ。

 また太陽と大燐の状態によって時間の概念があるらしく、太陽が昇り始めた頃を朝、大燐が昇り始めた頃を昼、両方が出ている間が明、太陽が沈んだ頃を夕、大燐のみが出ている間を冷、大燐が沈んだ後を夜というと。明の時は過ごしやすい気温だが外は非常に眩しく日除けが手放さないと言うし、冷の時は生命の活動限界ぎりぎりまで気温が下がると。どちらも出ていない夜は22時頃から3時頃までしかないらしい。


「ですから、冷の時に水浸しで気を失っているあなたを見た時は、流石に肝を冷やしましたよ」


 男は今なお恐ろしいという顔でこちらを振り返った。

 硬い表情の私を見た彼は、気まずそうにまた暖炉の方を向いて話し始める。

 かといって大燐にも良いところがあると。大燐は全ての種族の言葉を共通化することができるらしい。そもそも大燐は遥か太古に人工的に打ち上げたものであるらしく、その効果を発揮するためにエネルギーを使い、結果気温を下げてしまうことになったと。双方の同意があれば言葉にせずとも意思の疎通すらできると。


「遥か昔、太古の時代に、人の子と魔物の子がおりました。二人は寝食を共にし、学びを共にし、生きることを共にして育ちました。

 彼らは互いの言葉を完璧に理解し、しかし互いの心を完璧に理解することなく、互いに互いを尊重し、相互理解の必要などなく、互いが口にすることを受け入れておりました。

 しかし彼らの他はそうは行かず、言葉も心も行動さえも理解できず、彼らはそんな状況に心を痛めておりました。

 ある時ついには争いが起こり、彼らでない者たちがお互いを傷つけあってしまったのです。

 彼らは決意しました。自分たちには必要ないが、自分たちでない者には必要であると、すべての心を繋ぐ魔法を使うことを。

 彼らは二人で自身の全ての魔力を使い、全ての生命力を魔力とし、大燐を空へ打ち上げました。そうしてその後に彼らは二人、手を取ってそう、丁度あなたが倒れていたあの場所で息を引き取ったのです」


 だから私の話す言葉も、あなたの知る一番近い意味の言葉であなたの耳に届いているはずです、と男はおかしそうに呟いた。


「ですが彼らの望んだ通りにはならなかった。

 人は安定した力を持っている代わりに、個々の幅があまり大きくなかった。時に強大な力を持った者が生まれますが、それでも魔族のそれには叶わなかった。

 魔族は四半年程度で息絶えるものから数千年に渡って生きるものもいますし、極わずかな魔力しか持たないものもいれば国ひとつを滅ぼせるものもいます。賢さに関しても同様です。長く生きる種に関しては顕著ですね。

 ですから相互理解を得た人と魔物は、理解してしまったのです。お互いの力量を。お互いの力を」


 ぱちり、と炎が爆ぜる。男が振り返りはしたものの、灯りが強く逆光で、その表情は伺いしれなかった。


「魔族は気にはしませんでした。魔族の中でも特に優れた者劣った者はおりましたから、今更何を、と考えたのでしょう。ですが人間はそうもいかなかった。

 人間は優れた者劣った者がいたとしてもその想定の範疇に収まる程度だった。自分たちよりはるかに賢い、強い、長命な魔族がいる。その事実は恐れとして彼らに重くのしかかったのです。そしてまた、そのような優秀な者がいる一方で、自分たち、ましてや子供よりも弱い魔族がいる。暴行の対象となるまでは時間の問題でした。

 しかして、人間は魔族を拒絶し始めた。嫉妬し、畏怖し、憎んだ。もちろん魔族にも人間にかなわないことがありました。でもそんなことは人間たちには関係なかったのです。

 魔族はみな黒や、又は暗い色の髪や体毛、瞳をしています。人間は主に金髪が多く、その他には非常に明るい色の髪や瞳をしています。……もちろん人間の中にも暗い髪や瞳の者は現れます。

 人間はそういった疑わしい遺伝子を、『忌み子』として迫害し切り捨て、愚かしい形だけの平穏を保とうとしているのです。

 ごく稀に魔族の集落の近くに捨てられた子供は魔族に保護され魔族として育てられますが、そうでない子供は大抵冷の時に命を落としてしまいます」


 ただ力の問題なだけで、彼らは決して魔族ではないのですが。と、悲しそうに彼は言った。

 お互いしばらく無言だった。にわかには信じられないような言葉ばかりで、聡のことを思うと吐息が震えるばかりだった。


「……そうして迫害され、時には虐殺された魔族もまた、人間を憎むようになりました。

 お互いに傷つけ合い、今も争いを続け、結局人間と魔族の間で相互理解は成り立たなくなってしまった。互いの了解がなければ心を読むことはできませんから、大燐を打ち上げた二人の願いは叶わなくなってしまったのです」


 外では空の裾の方が白んで、鳥の声が辺りに響く。ざわざわと植物が目を覚まし、生が地に満ち満ちていくのが肌で感じられた。

 男が外を見て、眩しそうに目を細める。


「……朝が来ましたね。近くの村までお送りしますよ。日が出てから冷え込むまで時間がありませんから」


 男はそう言うと、暖炉の炎に砂をかけ、その燃えさし共々大きなちりとりのようなもので片付けた。

 男はまた今度は栗のような木の実を袋で私に差し出すと、にこりと笑った。どうやら弁当替わりのようだ。

 外へ踏み出す。男が差し出す布切れを体に巻き付けていてもまだ外は寒さを抱いていた。息がほんの少し可視化されて、そしてまた直ぐに溶けていった。

 土には霜柱が立っている。草原の草の上には半透明の露が乗っている。

 ザクザクと踏みしめて、男の後を追った。


「もしかしたら私の言葉に違和感がある箇所があるかもしれませんが、それは私の言葉を大燐があなたの言葉に置き換えた時、最適なものがなかったということです。語弊があったら聞き返してくださいね」


 男は幾度となく振り返りながら、私の歩く速度に合わせて歩く。その綺麗な言葉遣いのどこに違和感があるのだ、という疑問を抱きはしたが、こくりと頷くに留まった。


「……黒髪黒目ですよ、ね。生き残ったんですか……?」


 少し目を細めて、男は歩く先の方へ冷たい視線を投げかける。

 一歩、二歩、三歩目は踏み出されず、男は止まった。


「……まあ、私は拾われましたからね」


 私は。他の子供は。

 拾われるまで、どれくらい辛い思いをしたのだろう。聡も今、辛い思いをしているのだろうか。それとも拾われて、私よりも良い母に恵まれて……いや、そうであったとしても、聡に会ってまた一緒に暮らしたい。

 男はまたゆっくり一歩を踏み出すと、何事も無かったかのように私を先導する。その歩みに迷いなど感じさせなかった。


「あなたも気をつけた方がいい」

次回更新予定 10月27日

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