6,おかわりはいかが
店内に戻った陣太は、カウンターに置いてある古びた大笊を持ち上げた。どこにでもありそうな笊の直径は30センチほど。
「これがこの不思議な店の理由、だっけ」
「そうっすよ。マスターが【まよいが】から持って帰ったものです」
エプロンをつけた虎が答えた。
昨日、酒の席で聞いた話を思い出す。
まよいがは山奥に忽然と現れる立派な屋敷。扉は開いていて、煮炊きされたごはんも酒も風呂も馬もあるのに、中には誰もいないという、東北地方に伝わる怪異だ。
まよいがに出会ったときは、敷地内にあるものを何でもいいから持って帰ればいいらしい。山の神様が、その人間に与えるために招いていると言われているからだ。
数十年前、まよいがに遭ったマスターは大笊を得た。川につけると、ヤマメや鮎、川魚が自分から飛び込んでくるというそれを手に入れた男が、この場所に赤い屋根の小屋を建てたのだ。
「その、マスターが、俺と?」
「「はい!」」
元気に答えるのは猫のシノと人の虎。
勢いだけはいい2匹に、陣太は胡乱な目を向ける。
そんなことを言われても俄かには信じられない。確かに夢に見るこのカフェを探していたけれど……顛末を聞いても何も思い出すことはなく。
「っと、お客さんもう来てる」
虎が窓の外を見て言う。すでにそこには動物の姿があって。ぞうきんを持った彼はばたばたと駆けて行った。
残されて、なんとなくシノを見ると目があった。黒い尻尾がゆらりと揺れる。
「帰ってきてくれて嬉しいですマスター」
「俺はマスターじゃないよ」
昨日から何度か交わされたやりとり。けれどシノは取り合わなかった。
「俺にはちゃんと分かります」
「あのなぁ」
「猫は生まれ変わっても飼い主のことはちゃんと覚えてますから」
例えばこれが、笑みを浮かべている化け猫ならば恐ろしいが、目の前の黒猫はえへんと胸を張るだけだ。その様子に思わず脱力したのは、――――可愛いと思ってしまったから。
「……」
溜息をついた陣太は笊を片手で持ち、膝をついてその頬をそっと包んでみる。柔らかい感触と毛皮の手触り。嫌がる様子もなく、黒猫は上機嫌に金目銀目を細めた。
けれど認めるのも癪なので、些か乱暴に小さな頭を撫でた。
「わかった。よくわからないけどわかった。一先ず店を手伝う約束だ」
ぱぁぁ、と顔を明るくする黒猫から視線を逸らして、最後に、気になる事を聞いてみた。
「結局、その……マスターはどう死んだの?」
「突然庭で倒れて、そのまま」
「……そっか」
「あ、庭に埋まってますよ」
「そうなの!?」
シノの軽い言葉に、陣太は思わず窓を振り返る。その時に、大笊を持つ手に力が入ってぺきっと音をたてる。
次の瞬間、嫌な音がして建物が揺れた。上からわずかに瓦礫が降ってくるのを見て、陣太はそっと大笊をカウンターに戻した。
朝一の客は8匹ほどの小さい子の集団だった。席に着いた皆が、手に手に持ったドングリを机に広げて、口々に注文をした。
「おいもさんたべたいですー」
「ひまわりのたね!」
「はいはい」
エプロンをつけたシノが対応する。
カウンターを任された陣太が何の気なしに床を見ると、影はネズミだった。
「ふ、不衛生……」
「おやアカネズミとヒメネズミじゃないか」
いつの間に入ってきたのかカウンターで落ち着いている白助が言う。飲食関係者としては天敵とも言える存在におののいたが、考えてみれば衛生面の心配も今更だ。
「あんたはネズミをとらないのか」
「ここではそういうのは無しなんだよ」
蛇に問えば彼は肩を竦めた。
「敷地から出たらご勝手に、だけど」
「ご勝手にねぇ」
色々な動物がいた昨日の店内を思い出す。人間と違って、生まれた時から喰う喰われるの世界に生きている彼らを。
動物だけが訪れる山の奥。倒れたとして、簡単に助けを呼べる状況ではなかったのだろう。前のマスターは――――きっと山に還ったのだ。
自分は、それを確認しに来たような気がする。
「でも、獲物が顔見知りだったりするんじゃないのか」
「それが?」
意外なほどあっさりと白助は返した。
「ま、同種にすら狩られるようじゃあどのみち山ではねぇ」
「思い出させるな」
顔を顰める。実のところ、顔を洗いに出た時には殴られたところに痛みがあったが、ありがたいことに今はほとんど気にならない。
芋を半月切りにして、棚にあったひまわりの種と一緒にシノに渡す。そのついでに聞いてみた。
「荷物って見つかった?」
「いえ、まだ」
少年が首を振る。
売り払われていなければいいがと思ったところで、彼の胸元が目に入った。今日もシャツのボタンはとまっていない。
気になっていたことがもう一つ。
「服はちゃんと着なさい」
言われて言葉を詰まらせたシノは、皿を置いて指を彷徨わせた。
「ボタンというのがどうも苦手で……」
「とにかく、閉めろ」
もそもそとボタンをしめるのを見守っていたが、あまりの不器用さに陣太は諦めて手をのばした。上の一個だけは見逃して他は閉じる。
「俺はこういうのはしっかりす、る」
顔を上げると、少年が嬉しそうに笑っているのが見えた。
不意に顔が近づいてきて、猫が挨拶するように鼻がわずかに触れる。ボタンに手をかけたまま陣太は固まった。
「なっ……な、な」
「はい。マスター」
「いやだから俺は」
「じゃあ陣太さん」
「……もうそれでいい」
結局このペースに巻き込まれている陣太だった。