4,ご注文は?
そしてドアを開けて入ってきたのは、目の下に隈をこしらえた初老の男だった。
「…………ん!?」
陣太はドアと、席に案内される老人と、窓の外を見た。狸の姿はどこにもない。代わりに、今入ってきた客の手には、実の付いた枝が握られていた。
からん。からん。次々にドアベルを鳴らして客が入ってくる。すぐに店の中は客で一杯になった。
「腹減った~」
「こっちリンゴよろしく」
食べて飲んで、楽しそうな会話が聞こえてくる。繁盛していると、端から見ればそうだろう。しかしここは、電灯すらない山奥だ。こんなところにあるカフェに、この時間にこんなに人が来るものなのか。
「何か飲みますか?」
少年――シノに聞かれて、陣太はぎこちなく首を振った。
「イイデス、俺、金持ってない、から」
「だからあたしが払うって言ってんだろ」
そう言う白助の手には、小さな紙袋が握られている。見覚えのあるそれに、陣太は首を傾げた。
絡まれた時に、唯一持って逃げたあの袋そっくりだ。そういえば茶トラを追うのに夢中で、祠の前に置いてきてしまったのだっけ。
この店はどうやら物々交換で成り立っているらしい。他の客も皆、色々なものを持ってきて好きなものを注文している。
「コーヒー豆ですか」
袋を受け取って、シノがぱっと顔を明るくする。
「じゃあこれでコーヒー淹れますね」
陣太が何か言う前に、彼はカウンターに戻った。
その背を見送って、ぎこちなく陣太は立ち上がった。
「おや、どこへ?」
「……ちょっと、外」
逃げるべきだ。ここは、人間がいて良い場所ではない。
シノの足下の影。それに二叉に分かれた尻尾が生えているのに気づいた今は。
素早く視線を動かせば、店に居る全員の影も動物のシルエットになっているのが見える。青ざめた顔で正面を向くと、蛇の影を持つ白助は、ちろりと長い舌を出した。
しかし、引き留められることもなく陣太はそろりとドアに近づいた。ベルが鳴っても構うか。ダッシュで逃げるだけだ。
手を扉にかけたところで。
―――――すぐに、ヒトを呼んできますから!
悲痛な声が頭に響いた。横になった景色の中で去って行く背中も。
「っ」
「マスター?」
後ろから声を掛けられる。振り返ると、カップを持ったシノがいた。
「どうかしました?」
「あ、……や、なんでも」
心臓が妙に高鳴っていた。
逃げ遅れたことよりも、今見た白昼夢に気を取られる。
赤いとんがり屋根の白い家。ここは変なカフェだ。けれど、自分は、何かをするためにここを探していたはず。
何かを。何を?
差し出されたカップとソーサーには、エプロンと同じ青い色の線が縁に入っている。それもどこか懐かしく、震える手で受け取った。
「あ、ありがとう」
飲んで平気だろうか。一抹の不安があったが、顔に愛想笑いを浮かべて陣太はカップを見下ろした。
「んん?」
先程シノからコーヒーと聞いたが空耳だろうか。カップの中身は、真っ白。
飲むと、底に沈んでいるらしいコーヒー豆が転がる振動が伝わってきた。
「……」
「おいしいですか」
そう聞く少年の影に見える2つの尻尾が、嬉しそうにゆらゆら揺れる。
「シノ、あたしの注文を聞かないのかい!」
「ちょっと今邪魔なんで後にしてもらえますか」
「お前、昔からそういうところだぞ!」
見やることもなくシノが言い捨てる。
その間、陣太は額を押さえていた。
「ちょっと、これは」
彼はカップを持ったままカウンターに近づいた。
「ない」
台に飾られたサイフォンを手に取る。
この頃には客達も騒ぎに気づき、様子を伺っていたが。陣太はそれを気にする様子もなく、カウンターの前の席について、調理台を覗いた。
綺麗なシンクの横に、紙袋のコーヒー豆が顔を覗かせている。陣太はシノを振り返った。
「アルコールランプとマッチと、ミルはある?」