3,いらっしゃいませ。
茶トラの後を追う。
というよりも、看板の矢印の通りに猫が先を進むのだ。時折、彼は振り返っては陣太が付いて生きているか確認した。その度に、再び吹き出した汗を拭って付いていく。
日はもう暮れかけだ。足下の影がみるみる伸びて濃くなっていき、登ってきた道も、行く道も黄昏に沈んでいた。
正直なところ、まともな位置も分からないまま夜になるのは危険だ。まともな装備もないのに山中での野宿は、命に関わる。
それでも足は前へと進んだ。
水の流れる音が聞こえてきたのはしばらくしてから。がさりと下生えの藪を揺らして猫が向こう側に消えたので、陣太もえいと木をかき分ける。
そこに、かなり開けた空間があった。
藪に囲まれたそこは、大小様々な大きさの座り心地のよさそうな岩が転がり、植物が林立していた。
その奥に赤いとんがり屋根に白い壁の、小さな家を見る。
「……嘘」
夢で何度も見たカフェ、それだった。
狐につままれたような気持ちで、体に着いた葉っぱを落とす。石で出来た階段を下りて、小さな石橋を渡って庭に踏み込む。
あまりにも夢の通りの建物を見やり、頬をつねってみた。痛い。
むしろ、蹴られたところも痛い。
茶トラは庭の真ん中で行儀よく座り、陣太を待っていた。若猫を拾って抱き上げ、店に近づく。
夢見心地で家に近づき、扉に手を伸ばした。そこで。
からん。
ドアが向こう側に開く。ベルの軽やかな音とともに、黒色と青色が翻った。
「……え」
ノブを手にしたまま、こちら側へ開けた人物が目を見開く。
そこにいたのは、深緑のシャツに青いエプロンをつけた少年だった。どんぐりのような大きな目で見つめられて、ドアを開ける格好のままの陣太も固まった。
まさか、人がいるとは思っていなかった。
陣太の胸元までの彼は小学生くらいだろうか。そのシャツのボタンは1つも留まっておらず、少しだらしない格好にも見える。胸元の金属プレートには、黒文字でシノ、とあった。
「……」
「……」
「……」
「……マ」
見つめることしばらく。先に口を開いたのは、少年の方だった。
「スターなんでそいつ抱えてるんですか節操なしですか浮気者おおぉおお!!!」
「はっ!?」
節操なし。浮気者。
初対面の相手に言われる筋合いはない上に、こちとら彼女いない歴イコール年齢である。
少年による渾身の威嚇に、ブワァッと腕の中で毛を逆立てた茶トラは、慌てて腕から降りた。
少年の足の間をすり抜けて店の中に入ろうとする毛玉を、むんずと少年が捕まえる。
「ちょっと面貸せ」
「にゃあぁごぁあ」
低い声を出した少年は、あわあわする猫とともに中に引っ込んだ。
扉が閉まりかけて、一瞬遅れて陣太は枠を押さえた。
中に入る。店内は、想像以上に明るかった。年代物のランプ。細かい蔦もようの壁。笊とサイフォンの置いているカウンター。食器の入った戸棚。
夢でみた光景が、そのまま目の前に広がる。こじんまりとした店内は準備中なのか客の気配はない。
「違うっす!誤解!俺は案内してきただけで!」
「あぁ!?」
茶髪のチャラい青年の首根っこを捕まえた少年が声を荒げる。
「ほ、ほんとにマスターなんですか?この店知らないかって、コーヒーの良い匂いさせたこの人が白さんとこに」
青年に指を指されて、入り口にいた陣太がびくつく。カツアゲのトラウマは未だ健在だった。
しかしこの茶髪は自分を襲った連中ではない。そして案内をしてもらった覚えもない。
変な店。
けれど、確かに来たかったのはここだ。全景を見ようともう少し後ろに下がったところで。彼はとん、と誰かにぶつかった。
「お邪魔するよ~」
振り仰ぐとそこには、長い白髪を1つにくくった、着物の男がいた。
「白助さん、珍しいですね」
「あぁ、面白いことになりそうだなと思って」
「ついでに手を離してもらえますか?」
少年から白助と呼ばれた男は、それを聞き、にやりと笑って陣太の肩に乗せていた手に力を入れた。
「ほらほら座って」
「い、いや、俺は」
「遠慮しなさんな、今日はあたしが驕ってやるから」
粋な女言葉のその人は、陣太を押して無理やり窓際の席に座らせた。
「……ちっ、面白がってる」
「ぷぷシノさん必死すぎあだぁ!」
少年が青年をパンチ一発で黙らせた。
ドメスティックな店だなと、妙な展開に戸惑いつつ陣太は向かいに座る男から、窓の外に視線をうつした。
ざぁああああ、と大きく木が揺れた。山の向こうに日が沈み、囲む山はすでに真っ暗だ。
しかし客と店員がいるということは、安全な山道があるということ。ひとつ不安がなくなってほっとする。帰っても無一文という現実は残っているが……。
「ん?」
その時、陣太はあの石の橋を渡ってくる小さな姿に気づいた。
ぽてりとした体、太い尾。狸だ。口に実のついた枝を加えた彼が、このとんがり屋根に近づいて来る。
人馴れしているのだろうか。可愛いなぁと、状況を忘れてなんとなしにそれを眺めていると、玄関までたどり着いた狸が、扉を押しあけた。