2,ようこそ!
上機嫌でカウンターに向かう少年を横目で見つつ、陣太はソファから立ち上がった。
「……あ、ったた」
思わず出た欠伸に途端に口の端が痛んで、陣太は顔を顰めた。
「また怪我が!」
「平気です!だいじょぶ!」
再度駆け寄って抱き上げようとする少年を押しとどめて、陣太は顔を洗おうと、建物の裏から外に出た。
庭に足をつけて、青空の下で大きく伸びをする。
赤いとんがり屋根に風見鶏。白い壁の、小さな家。ここは、夢で何度も見た場所……だが、色々問題が発生していた。
二日酔いとぶつけたからだけではない頭痛に、額をおさえる。
まず結論から言うと、陣太は現在無一文で、着の身着のまま、打ち身と切り傷だらけの体でここにいる。
原因は、カツアゲだ。
店を探して全国津々浦々。バイク旅をしていた陣太は昨日、村に着いて早々に柄の悪い連中に目をつけられたのだ。
余所者が来ること自体珍しかったのか、静かに後をつけられて山のふもとにある人気のない公園で襲われた。
殴る蹴るの仕打ちを受けた挙げ句、金とバイクを盗られたのである。
「っと」
足下に何か触れる気配がした。
見れば、明るい茶色地の、トラ柄の猫がそこにいて。人懐こく陣太を見上げている。
陣太はしゃがんで、その、まだ10歳にもなっていない猫を持ち上げた。
「昨日はありがとうな」
話しかけると、みゃあ、と茶トラが嬉しそうに鳴いた。
山の中に、ぽつんと古びた祠があるのを見つけて、彼はそこでようやく足を緩めた。
走り過ぎたせいで疲労困憊だ。
分厚く積もった葉や枝で何度も滑りそうになりながら歩き、後ろを振り返り。誰も追ってきていないことを確認して、陣太は祠の前で脱力する。
突然現れた、朽ち果てる寸前の人工物。
普段であれば恐ろしく見えたかも知れないが、植物が鬱蒼と茂ったここでは、オアシスを見つけたような心持ちになった。
一先ず手を合わせて、傍らに座り込んだ。そうして尻をつけると立ち上がる気力もなく、陣太は持っていたものを置いて息を吐いた。
「はぁあ」
蹴られて痛む脇腹を押さえ、深く息を吐く。
常葉樹、針葉樹、低木、夏草。木立から降り注ぐ日差しは、周りにある木々を柔らかく照らしていた。
「油断した……」
駅前でグループに声を掛けられた時に、さっさと村から逃げるべきだったかもしれない。切れた箇所の痛みと、鈍痛に呻きながら陣太は独りごちた。
けれど、入った店で『20年ほど前にそういう建物を見た』という話を聞いたら、いかずにはおれないだろう。
身を苛む焦燥感。
夢を見る度に苦くわき上がるものの正体は、自分の感情なのに未だ掴めない。
グループから本当に逃げ切れたのか、まだ半信半疑だが、痛む体を捻り、状況を確認する。
貧乏文系大学生の財布の中身はたかが知れている。
携帯はバイクの維持費のために持っていない。
つまり、取り返さなければいけないものは、バイク。
「あーでも今は山おりたくねぇ!また殴られんのは勘弁です!」
一人で叫ぶ。
日が暮れて、暗闇に紛れるのが一番安全だろう。地の利がある複数人に対して、陣太は丸腰だ。
いや、殴られるだけならともかく、もし証拠隠滅に埋められでもしたら
「にゃあ」
「ひっ!!!?」
間近で上がった声に思わず悲鳴をあげる。
しかし前を見ても誰の姿もない。素早く視線を巡らせると、くるりと、茶色の尻尾が視界の端で揺れた。
いつのまにか茶トラの猫が、近くに寄っていたようだ。陣太が見つめる前で、ぐるぐる、若い猫は確認するように周りを回って。
やがてお眼鏡にかなったのか、彼は陣太の足や手にすり寄った。
温かい体温と毛の感触に、縮こまっていた体が少しだけ解ける。
「野良猫かい?」
抱き上げて、胡座を掻いた膝に乗せた。と、猫がじたばた手を伸ばす先を見て、陣太は彼が何に期待しているかに気づいた。
「ダーメ。これは食えねぇよ」
今となっては唯一の持ち物の袋を開ける。
ふわりと立ち上るのは焙煎されたコーヒー豆の香り。先程、情報収集のために立ち寄った店で買ったものだ。バイト先の店長にと思ったが、逃げるときにとりあえず無我夢中で掴んで、そのまま持っていた。
動物にコーヒーなどのカフェイン類は禁厳だ。
たしなめるとしかし、猫は諦め切れない様子で鳴き声を上げ、袋に執着する。危ないと持ち上げて、ふと聞いてみた。
「そういえば、知らない?この辺に昔、赤いとんがり屋根のカフェが……ってなに猫相手に」
「にゃ」
自分で突っ込むと、やけに自信の籠もった声が返ってきた。
陣太の手から逃れるように地面に降りた猫は、一目散に駆け出す。そして、笹藪の前に座り込んだ。
その姿を追って、陣太も思わず立ち上がる。
【カフェ 縞々】。
茶トラが座る側に、杭で固定された小さな看板があったからだ。
祠と同じくらい朽ちかけのそれは、青い線が1本入ったコーヒーカップの絵と左を向く矢印と、どうぞおこしください、という文字が書かれていた。




