0-7 これは逃げではない、戦略的撤退だ。と王子は言った
少女が自分には名前がないと言った時、俺はもはやこの少女と仲良くなることが、少なくとも今の段階では不可能であることを察した。
仲良くなるために最適な、お互いに距離を掴みかねている時間が過ぎ去り、かなり遅れて行動を開始したらテンパった末に何故か『耳を触らせてくれ』なんて頭のおかしいセリフが口から飛び出て、挙句には名前を聞こうとして失敗、というかそもそも聞くべき名前がない……
そこまで体験すれば、俺のようなバカだっていやでも分かるのだ。
この状況が、いわゆる詰みってやつなんじゃないだろうか? ということに。
すでに俺に出来る手は尽くしたし、あまり異性と話すのは得意じゃないがなんとかして話しかけたりもした。
だが、少女の「名前はない」発言がこの空間に発生させたなんとも言い難い雰囲気……つまりは、聞いちゃいけないことを聞いてしまったような、そんなどうにも話しかけづらい雰囲気は、もはや俺に少女への挑戦権すら与えてくれないのだ。
もしもこの世界がゲームであったならば、迷わずリセットボタンを押すか、あるいは電源ボタン弱押しでセーブポイントに戻っているところだ。
それほどに状況は悪い。
……まぁ、残念ながらこの世界にリセットボタンとセーブポイントはない。
一応、電源ボタンだけはないとも言えないのだが、それを弱押ししたところでリセットすることは出来ないし、そのやり方だって分からない。
だから、俺は今現在直面しているこの理不尽で予想外な現実を受け入れ、そして対処しなくてはいけないのだが……
一体どうやって対処すればいいというのだろうか。
打てる手はもう何もなく、これまでに打ってきた手も何一つ効果がなかった上に、さっき名前を聞いたことに関してはむしろ逆効果になってしまっている節すらある。
しかし、そうは言っても何か手を打たなければ現状に変化は訪れないのも事実だ。
何か手を打たなければいけないのに、手の打ちようがないとは……訳が分からん。
どうしたものかとまだも深い思索に陥りかけ、ふと俺は同じ過ちを繰り返しかけていることに気付く。
二度あることは三度あるとは言うが、同じ轍を何度も踏み抜いて自爆しかけるあたり、俺の人間としてのスペックの低さがよく分かるな。
普通のバカは一度踏んだ轍は踏まない。いやむしろバカだからこそ踏まない。痛いのは嫌だ、という単純明快な理由でこそあるが、それすら出来ない俺はそれ以下かも知れない……まぁ、今回は踏み抜く前に気付けたからよしとしておくが。
閑話休題。
……とにかく、もはやこの状況で俺に打てる手立ては本当に何一つないのだ。
たとえ出来たとしても、それではただの悪あがきにしかならないし、それがこの場にもたらせるのは更なる状況の悪化だけ。
散々この言葉を繰り返してきているような気もするが、今度こそ本当にどうしようもない。そう断言できる。
───仕方ない、今日は諦めよう。
ゆえに、そんな言葉が心の奥底から浮かび上がってくるのも、かなり自然なことであった。
俺は心の中で降参のプラカードを激しく振りながら、ひとまず今日は少女と仲良くなることを諦める方向で思考をまとめようとする。
そうだ、今日は公爵と話したりしてなんだかんだで疲弊していたんだから、本調子じゃなくて当然だ……つまりこれはただ諦めたって訳ではなくて、ここで再起不能なほどのダメージを負わずに次へつなげるための戦略的撤退なんだ。
戦略的撤退は、恥ではない。よってここで諦めることはなんら悪いことじゃない。
俺は自分にそう言い訳をし、すっぱりと今日一日は目の前の少女と仲良くなることを諦める。
これでようやく本日の面倒事も一段落だろう。
最後まで予想外たっぷりとは言っても、流石にこの次はないに違いない。
いくら王族、それも5歳児で第一王子という貴族たちからすれば垂涎の的以外の何物でもない身分を持っているとは言っても、こんな時間から絡んでくるような奴は居るはずもない。
……と、前世の俺ならば不吉だと言って絶対に考えもしなかった、明らかにフラグと取れることを考えていた。その時。
不意に、トントンという扉をノックする音がした。
これ以上はもう何もないと考えた瞬間にこれかよ、と心の中ではぼやいてみるが、しかし断る正当な理由も特に見つからない。仕方なく入室を許可する。
「失礼します」
扉の向こうに居たのは、いつぞやのやたらと髭が立派な男性だった。
この城を一気に駆け登りでもしたのか、こころなしか呼吸が荒いようにも見える。
ただ、俺の記憶によれば彼はパーティー会場のドアを開く係だったと思ったが……いったい何をしにきたのだろうか?
「ウィズ様、そろそろ閉会の式を執り行いますので会場にお戻りいただけますでしょうか?」
……あぁ、なるほど。
髭の男性がこの部屋を訪ねた要件は、俺をパーティーの閉会式に参加させることのようだ。
体感ではさほど時間も経っていないように思っていたが、思っていたよりも長い時間が経っていたらしい。
「会場にそのまま戻ればいいのか?」
「いえ、まずは準備がありますので、今朝と同じ部屋に向かってください」
「分かった」
しかしまぁ、パーティーがいつの間にか終わる直前になっていたとは……俺、これでも一応、このパーティーの主役なんですけどねぇ?
あぁ面倒くさい、参加したくない。という本心を必死に隠しながら、曲りなりにもこのパーティーの主役である俺が閉会式に参加しないという訳にはいかないということもあり、仕方なく椅子から立ち上がって扉へ向かう。
ほとんど参加できていなかった奴が最初と最後だけ参加するというのもどこか違和感があるが、それを気にしてしまったらまた考えすぎて辛くなりそうだし、あまり気にしないでおくとしよう。
そんなことを考えながら、俺は部屋の外に一歩踏み出し、ドアを閉める……寸前で大事なことを思い出し、慌てて閉めかけの扉の隙間から顔を出して、男性に伝え忘れてしまっていた、あることを伝える。
「そうだ、紹介が遅れたけど、そこのそいつは一応俺の所有物ってことになるらしいから、あとで俺の部屋まで連れて行っておいてくれ」
「承知いたしました」
そして、それを伝えた後は、まるで何事もなかったかのように装いつつ、少しだけ早足で今朝衣装に着替えたのと同じ部屋に向かって歩き出す。
伝えていなかったら少女が投獄されてしまうところだった、危ない危ない……と、冷や汗ダラダラで呟きながら。