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苦手な方はご注意ください。

冬卯花

作者: 明日葉甘楽

 冬が香った。

 風に踊る枯葉や、氷に湿気る土、奥の方を貫くような冷たい空気。

 夜に映える幾つもの星は、歳を重ねる事に大きく見える。

 冬が来る。

 香りと共に、冬が来る。

 死が近くなる気がするのは、何処か気の抜けた格好をする樹木達の所為だろう。

 けれど、白の中だからこそ黒が目立つように―― 冬の中だからこそ、より一層、良く目立って見えるものがある。

 何かに取り憑かれた様な、冬のある一日の話。



 ■



 「―― え? なに?」

 彼女の声が響いたのは、T高校北教室棟三階、第二総合演習室の、奥の奥。埃を被せられた分厚い本に興味を示した友望(ともみ)が、きらきらと光る表紙に釣られて、星座の本を読んでいる途中だった。

 「…… だから、花だよ。『花』」

 それに、うんざりといった声で応える晴夜(せいや)が見ている物は、表紙に書かれてある文字を読むことが出来ない程に古びた、一冊の本。指を曲げて友望を呼び出した。

 「ほら、これ―― 『冬卯花(ふゆうばな)』」

 「ふゆう…… ばな…… ?」

 「ふゆ、うばな。卯の花の一つみたい。普通の卯の花は、梅雨の辺りに咲くんだけど、この花は、冬以外の季節の気温が、平均して高い所にしか咲かないって書いてある」

 彼がなぞる紙面には、その花の色、香り、葉の形など、植物にとって必要な情報が多々記載されていた。だが、友望が見る限りでは、その花の写真はおろか、写生の一枚も載っていなかった。

 「…… ほおー。それで、その『ふゆうばな』がどうかしたの」

 見えない物に興味が沸くことがない友望は、わざと無関心な態度を取って応えた。けれど、晴夜が返した言葉は、彼女が期待した日常の一部ではなかった。

 「…… 載ってないんだ」

 「―― え?」

 それから晴夜は、背後に積み立てられた植物辞典を指差した。

 「載ってないんだよ、『冬卯花』とかいう花なんて。この、俺の身長と同じ高さに積み上げられた辞典に、一つも!」

 友望が見落としていたのか、晴夜の目元に大きな隈があった。元から顔色が良い時が少なかったから、かれこれ十年と少しの付き合いになる友望でも、はっきりとは分からなかった。

 「まさか、それ全部から調べたの?」

 「…… ああ。どこにも載っていない植物が、この古びた本一冊にだけ載っているなんて、おかしいと思ったんだ」

 「おかしいと思ったからって、そこまでやるかね、普通」

 友望が苦笑いで肩を竦める。

 「普通じゃなくていいんだよ。やるからには徹底的に、だろ? ここのルールは――」

 「ああ、はいはい。大丈夫、分かっております。『納得の出来ない妥協をするな』でしょ?」

 「分かっていればいいよ。友望もこの同好会の一員なら、守って貰いたいからな」

 「………」

 目を輝かせる晴夜とは対照的に、友望はどこか疲労を感じさせる表情だった。

 『興味同好会』―― それは晴夜達の七代上の先輩三人が作った同好会。『興味を最優先しろ』『やるからには徹底的に』『納得出来ない妥協はするな』の三柱から成り立ち、少人数で数々の数奇な出来事を記録していった、いわば幻の組織だ。

 この二人が、この同好会に入った経歴を述べるには時間が足りない。ただ、簡単に言うなら、まだ右も左も分からない高校生活初日に、幼馴染同士の晴夜と友望が、部活見学の際、偶然見つけたこの同好会に晴夜が興味を持ち、それの付き添いとして、友望も仕方なく入会した。という感じだ。そこから一年強、ぐだぐだと長引き、目立った活動も出来ないまま、今を迎えてしまっているわけだ。

 新入会員も無く、集会室としているこの第二総合演習室には、毎日の放課後、この二人が何かに興味を持つまでだらだらとしている。だが晴夜は、こんな状況に、少しばかり焦っていた。

 先輩方は必ず何か、誰が見ても面白そうな物を研究し終えている。このままでは俺達の代だけ何も残せない。そんな事になってしまえば、この素晴らしい会は無くなってしまう。と。

 「―― ようやく見つけた」

 喜びを隠しきれていない呟きをする晴夜を横目に、「また面倒事に巻き込まれるのか」とため息を付きながらも、一緒に笑う友望だった。どうやら、満更でもないらしい。



 P.26 『冬卯花』

 ―― 夜桜落つる小川の淵に 浅根を巡らす冬卯花

 弱く儚い物だけれど そこに刈らんとする者無し


 ―― 粗大な光を避けるよう 蕾を隠すは冬卯花

 探せど探せど現れぬ 光に恋される花である


 ―― 景色を織り成す赤蜻蛉 彼らが追うのは冬卯花

 彼らは欲を嫌う 恋を嫌う 羨望を嫌う


 ―― 白雪に――


 「ここから、誰かに破られたような跡があるんだ」

 「本当だ……」

 晴夜が見つけ出した本に記載されている、『冬卯花』の基本の物以外の情報。それは、誰かに詠われた、詩の様だった。

 「先代が取っていったのだろうか……」

 「先代って……」

 七代上までしかいないじゃん… と友望は肩を竦めた。

 けれど、友望にも次第に興味が沸いてくる代物だった。『冬卯花』―― 春の小川の淵に根を張り、夏の陽を避けるため日陰で育ち―― と、春と夏の部分は分かるが、秋の部分はどうしても関連付かない。

 「…… 冬なんて、問題外だよなぁ」

 「一番重要かもしれないのに」

 その通りであった。何しろ、冬の卯花なのだから、冬に関する記述が最も大きなヒントになる可能性が高い。

 「―― あ、続き…… これ、先輩の誰かが書いた奴だ」

 「え… ? どれ?」


 手記: 宇津木島夏 T高校第二十三代在校生三年。第二総合演習室より

 1月31日

 ―― 私はとうとう、見つけることが出来なかった。

 あの花、忌々しいあの花は、私の人生を滅茶苦茶にした。奴は災害だ。

 美しい花には棘があるという。それならばあの花には、何がついているだろう? 爆弾でも付いているんじゃないだろうか。

 昨年秋、私はこの本を見つけた。ちょうどそこにいた純一と、あの花の事を同時に知った。今思えば、それが全ての間違いだった。

 そこからずっと、私達の代のこの会の活動は、あの花の事で一杯になった。白雪にさえ接吻を迫られる程美しい花とは、一体どういう物なのか、一目でいいから、見たかった。

 ―― 結論を言えば、見ることはできなかった。

 純一の奴は一目見たらしい。本当かどうかは知らないが、あの日からのあいつは、少し変化が見られていた。

 『例えるなら―― 目が覚めた瞬間に自分のベッド以外の全てが素粒子レベルまで分解されて、二時間程呆然としたままで居た後、何億光年先に見える小さな新しい宇宙の始まり―― みたいな花だった』

 これは、純一の奴が、あの花を見た、と言った直後の感想だ。訳がわからない。

 是非ともお目にかかりたいモノだったが、私に残されていた時間を全て費やしたとしても、きっと見つかるものじゃ無かっただろう。

 けれど、あの花が恐ろしいと言えることは、そこから先にある。

 ―― 私はどうやら、あの花に恋をしてしまったらしい――


 「…… ここで途切れてる」

 「………」

 さっぱり分からない。何なんだ、冬卯花って奴は。友望の頭の中は、難しい数学の公式を徹夜で詰め込んだ時よりも、ぐちゃぐちゃになっていた。

 「あー、わかんねぇ。友望、何かわかる?」

 「分かんないわ。さっぱり」

 「だよなぁ……」

 晴夜は部屋の天井を仰ぎ見る。ついでに首の骨を鳴らしていた。

 「痛そうだよ」

 「そうでもないさ―― でも」

 「でも…… ?」

 「見てみたいよな」

 「…… ね」

 ページの最後に、大きく、殴り書きされたような字でこう書いてあった。


 『決して探してはならない』と。



 ■



 「冬卯花…… ? 聞いたことないね」

 「そうですか…… ありがとうございます」

 一応、自分達より博識な、生物学の先生にも聞いてみたが、収穫は得られず。

 「まぁ、これで知ってたら拍子抜けだよね」

 「ははっ、それもそうだ」

 どこか自嘲的な笑いを上げる晴夜。

 「それじゃあ、他の人にも聞き込みをして周ろう」

 「そうだね」

 友望はどこか、小さな不安の種を抱えていた。それにすら気が付いていない友望の今が、それこそ危険という物なのだが、彼女は何かを思うこともなく、目の前で大きな背伸びをする晴夜を、見守るような目で見ていた。

 「あ、そうだ。あそこの古本屋さんの人ならどうかな?」

 「ああ、あの爺さんね」

 友望が言ったのは、学校から少し離れた所にある、物件そのものが古い、古本屋のことだった。そこの店長は大体見た目からして六十歳くらいだから、何か知っているのではないかと思ったのだ。

 「うーん、あの人、よく分かんないんだよな」

 「だからこそだよ!」

 いつの間にか友望は、晴夜以上に張り切るようになっていた。



 木製の窓が軋んでいた。

 ガタガタと大きな音を立てて風を受け止めるその窓は、内側で灯されている、蝋の火を、ほんのりと映し出していた。

 午後五時二十三分。この季節の中では、もう日は沈みきり、西の方がまだ気持ち悪く色付けされている、微妙な時間帯だ。

 「さむい…… 早く入ろう!」

 「ちょ、ちょっと!」

 大きな音を立てて開くドア。立て付けが悪いわけではないが、それぞれがぶつかり合うため、どう優しく開けても音が鳴ってしまう。

 「…………」

 老人は、分厚い老眼鏡で、蝋燭に灯された火を頼りに、なにかの、一冊の本を、まるで取り憑かれたかのように読んでいた。

 「あ、あの…… すみません」

 お前が声をかけてくれ、という晴夜の眼差しに負けた友美は、読書に没頭している老人に声をかけた。

 「…… ん、何ですか」

 喉に何かが引っかかっているような声で彼は言った。ただの客として見られているようだった。

 「そ、その、き、聞きたいことがありまして!」

 「………」

 すると老人は、読んでいた本に栞を挟み、机の上に閉じて置いた。そしておもむろに立ち上がり、座布団を二つ、持ってきてくれた。

 「…… ここに座って」

 「あ、ありがとうございます」

 「…… ありがとうございます」



 ■



 ―― 『冬卯花』

 「今、何といった?」

 老人が、時を止めるほど、何かの力がこもった声で言った。

 「―― 今、何といったのか、と聞いている」

 「あ、はっはい!」

 あまりの迫力に気圧されていた友望は、慌てて我を取り戻した。

 「『冬卯花』」

 横から、晴夜が言った。

 「俺達は、その花を探しているんです。爺さんなら、何か知ってるかなって思って、ここに来たんです」

 「……… そうか」

 今までとは別人のように、饒舌になった晴夜を見て、友望は目を丸くいていた。

 老人はまた立ち上がり、背後にある無数の古本の中から、そこにあることをずっと覚えていたかのように、自然な動作で、一冊の本を取り出した。

 「夜桜落つる小川の淵に 浅根を巡らす冬卯花―― 弱く儚い物だけれど そこに刈らんとする者無し、と」

 老人は、その本のどこかのページを見ながら、そう言った。

 「え…… ?」

 「それって……」

 少年少女が首をかしげていると、老人は怪訝そうな目で見た。

 「どうした?」

 「その詩、うちの学校にもあったんです」

 「確か…… 『粗大な光を避けるよう 蕾を隠すは冬卯花―― 探せど探せど現れぬ 光に焦がれる花である』」

 「ほう…… まだ残っていたのか」

 老人は嫌な顔をした。あまり知られたくなかった事のようだ。

 「あ、あの、その詩の、冬の部分、そこに載ってませんか?」

 「ん? 冬…… 『白雪に――』か」

 「は、はい! そうです! そこだけ何故か、抜き取られていて……」

 「…… なるほど」と、老人は口を歪ませた。白いひげが皺の渦に飲まれて、気圧されるような表情だった。

 「―― 悪いが、今は教えられんな」

 やがて老人は言った。

 「この詩を最後まで知ってしまうと、もう戻れなくなる。『冬卯花』は人に魅せられる花だ。君達がまだ、知っていいものではない」

 そう言い捨て、老人は本を仕舞い込んだ。

 「そんな……」

 晴夜は、洞窟の行き止まりに会った気分になった。何かのヒントが手に入れば、それだけでも良かったのだが、この老人は、それすらも与えてはくれないらしい。

 「―― もし、見る覚悟があるなら」

 老人が低い声で言った。

 「もしも、他の全てを捨てる事が条件でも、見る覚悟が有るなら、教えてやらんことも、無いがな」

 その目は笑っていた。まるで二人を試すような眼差しだった。

 「…… 全てを?」

 「そう。全てを――」

 「―― 貴方は、見たんですか?」

 この問いに、老人は答えなかった。突然外から、雷の音が聞こえてきたからだ。慌てて二人は、老人に断って帰ろうとした。

 ―― 奇妙だったのが、その老人が、最初から用意をしてあったかのように、二人が入れるだけの大きさの傘を、用意していた事だった。

 老人はその傘を、気前よく貸してくれた。先程とはまるで別人に見えた。


 「あ、雨が…」

 店を出た瞬間、気の滅入るような大雨が、彼彼女の目の前で振り続けていた。向こうの方で稲光が見えた。間も無く轟音が鳴り響く。友望は、雲が近い証拠だ、と、父がよく言っていた事を思い出していた。

 「早く帰ろう――」

 会話をする事に、頻繁に鳴り響く龍の声。風が無い事が唯一の救いだろうか。

 一歩一歩、ゆっくりと歩き出した。既に水浸しになっているアスファルトに、靴は沈んでいく。

 「うぇ…… 気持ち悪い」

 「うぅ……」

 靴下がびしょ濡れになる。仕方のないことで、何度も経験するものだけど、あまり慣れるものではない。

 「あ…… あれ? 道って、どっちだったっけ?」

 「う、嘘でしょ?」

 晴夜が不安そうに辺りを見渡す。雨粒が光を遮る形で、視界不良、2m先もろくに見ることができない。

 「こんな所で迷うなんて、災難だ……」

 「どちらかと言えば、災害かな」

 友望は少し笑っていた。



 ■



 ―― 一人、いや、ひとつの何かが、そこに立っていた。

 海へ続く道を逆に上り、何を目的に作られたのか分からない、ずっとそこにあった、何の変哲もない、小さな高台。

 二人が、やっとの思いで上りきった階段の先に、立っていた。

 真黒の、美術で使う針金人形の様なモノ。それでいて、身長は2m強程。傘を静かに握っていた。

 二人は唖然として、その何かを見ていた。

 「な、え? な、何あれ…… って言うか、人?」

 「さ、さぁ……」

 雨が段々と弱まっていった。上がる訳ではないが、視界は少しだけ回復した。

 ソレに、顔面は無かった。


 「はぁッ…… はぁッ……」

 水が跳ねる。大きな音を立てて、濡れた靴下を潰して走る二人が居た。

 「ほ、本当に…… な、何なの!?」

 友望が叫んだ。見たモノを忘れようと、頭をぶんぶんと振りながら。

 二人の家は割と近くに有った。少し走れば着く程だった。

 「ば、化物…… ?」

 「知らねぇよ……」

 晴夜も、見たモノがまだ信じられずにいた。

 「でも何だか…… あそこに居ちゃ駄目な気がした」

 友望が言った。息が整ってきた頃、傘に落ちる水滴の音がしなくなっていた。

 「奇遇だな、俺もだ」

 晴夜も、大分落ち着いたらしい。傘を下ろして、空を見た。

 「…… 可笑しいな。何か、嫌だ」

 月明かりが眩しい夜空だったのだ。夜空。星が瞬く夜空だ。

 「あ、あれ…… ?」

 友望も異変に気がついた様だ。

 「雲は?」

 辺りを仕切りに包んでいた厚く大きな曇天が、いつの間にか、すっきりと突き抜ける程の闇と、散りばめられた無数の星々に変わっていた。

 「有り得ない……」

 晴夜が、半ば自暴自棄になった笑顔で言った。

 「何かおかしい…… 『冬卯花』の所為なのか? それとも全く別の『何か』が動いているのだろうか?」

 空を見上げなから、彼はブツブツと喋りだした。

 「せ、晴夜? 大丈夫?」

 「大丈夫な訳ない…… 超常現象、だろ? 怪異だ。恐ろしい目に合った―― いや、まだ始まったばかりなのかもしれない」

 そこまで言った所で、晴夜ははっと気がついたように表情を緩めた。

 「ああ…… ごめん。つい」

 「いいの。私もそんな気分だし」

 少しだけ沈黙が続き、二人は、帰ろうか、とその場を離れた。



 ■



 晴夜は、外に出ていた。

 二十二時。片田舎ではもう、虫の声しか聞こえない。

 眠れなかった。眠れるはずもなかった。彼の心は今、何かに取り込まれそうな心地だった。

 沈黙が続く。星を見る気にもなれない。ただ、外の空気を吸いたかっただけだった。

 「……… !」

 背中を撫でられる様な感覚。頭の後ろを炙られる感覚。恐怖。息が詰まり、瞳孔が目一杯広がる。肩は緊張し、足を吊ってしまう程、無駄に力が入る。

 怖い、という感情。

 それが彼を支配していた。

 「――――」

 真黒の針金人形が、団地の角に立っていた。

 動悸がおかしい、破裂するんじゃないか、と言うくらいに動く心臓は、ソレの耳(?)に届きそうな程、強く響く。

 「うぐっ…… かはっ……」

 唾が喉に絡まる。ダメだ、声が出せない。何か、ヤバい。危険だ。おかしい、くるな、こっちを見るな、やめろ、くるな、こないで、くそ、みるな、みるな、くるな、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろ―― 


 ―― すると、ソレが動き出した。しかし、こちらへ向かってきたわけではない。ずるずると、その細い体を引き摺る様にして、角を曲がっていった。

 「…… え?」

 とんだ拍子抜けだった。晴夜の緊張は次第にほぐれ、後は上がった息と咽せだけが残った。

 「ごほっ―― かはっ――」

 咳を吐き出した後、深く深呼吸をして、落ち着く。今の彼には、それが必要だった。

 そして―― とある一つの興味が湧く。

 抱いてはいけない興味かもしれない。けれど、彼の性分は、結構、面倒なものだった。

 「……… 行くか」

 友望を誘おうか? いや、友望は俺以上に恐怖していた。連れて行けば気が狂うかも知れない。それも、こんな時間だ。他の危険だってあるかもしれない。

 「……」

 その少年に宿った一つの、小さく、巨大な勇気が、その一歩を踏み出した。特に、何ら変わることのない、ただの夜道だった。



 ■



 「え?」

 友望が見たものは、何もなしにただ夜道を歩く晴夜の姿だった。

 寝つけない夜、晴夜と同じく、外の空気を吸うためにベランダに出ていた。夜には眩しすぎる程の外灯が、晴夜を照らし出していた。

 「せ、晴夜?」

 彼女は慌てて、家を飛び出した。家族に音を聞かれたかもしれないが、今はどうだっていいことだ。

 「ちょ、ちょっと!」

 後ろから声を掛ける。晴夜は驚いたように振り向いた。

 「友望!? どうしたんだ」

 「こっちの台詞よ!」 友望は少し大きな声を出した

 「さっき、あんなものを見たのに、普通外で出歩く? ねぇ、大丈夫?」

 晴夜は、妙に落ち着いた顔で、大丈夫、と言った。

 「これから、ちょっと行ってみようと思うんだ」 晴夜が言う。

 「行くって、どこに?」

 「あの高台だよ」

 友望の表情は酷かっただろう。彼の言葉が信じられなかった。恐怖に囚われた場所、あの高台には、昼間であってももう、二度と近付きたくは無いと思っていたのに。

 「う、嘘でしょ?」

 「本気さ」

 晴夜は後ろを見た。

 「―― アレがいたんだ」

 「嘘――」

 友望の表情が恐怖に染まっていく。

 「嘘じゃない。アレは、今俺が向かおうとしていた所に向かった、と、思う。ここの角に、さっきまで居たんだ。怖かったけど、でも、きっと、ここで終わるべきじゃ、ないと思う」

 「そ、そんな――」

 友望の瞳には、いつの間にか涙が溜まっていた。

 「だ、駄目! 行っちゃ駄目よ!」

 「ううん、俺は行くよ。何かある気がするんだ。別に、付いてこいとは言わないから、友望、無理しなくていい」

 晴夜の表情は、今まで見た全ての中で、最も優しいものだった。彼の目に友望の顔が映る。なんて顔をしているのだろう―― どこまでも対照的な顔だった。

 「雨は降らないよ」

 「え?」

 「それじゃ、行ってくる」

 晴夜は何かを言い残して歩き出した。雨は降らない。彼が言った言葉の意味が、彼女には理解できていなかった。

 「待ってよ!」

 晴夜から返事は来ない。

 「雨は降らないって、どういう事なの…… ?」

 ぼやけた視界は、遠ざかる晴夜を、嫌になるほどしっかりと見つめていた。

 「分かんないよ……」

 友望は、自分が抱いているものがよくわからない。なぜこんなにも、涙が出るのか、胸が苦しいのか―― 心が、何かをずっと、叫んでいた。

 「置いてかないでよ―― !!」

 涙に咽せた声で、彼女は精一杯を彼にぶつけた。晴夜が今、何を考えているか、彼女にはわからなかった。

 「待って―― いつもみたいに、笑って、一緒に行こうって、言ってよ」

 友望の声が、少しずつ、彼に近づいていく。

 「ねぇ―― 晴夜」

 「友望……」

 何か硬い壁にぶつかった。急に暖かくなるのを感じていた。

 ―― 晴夜が何かを言った。友望には聞こえなかったけれど。

 「行くぞ―― 友望」

 「…… うん」

 晴夜がいつも持っている、二年前の誕生日に渡したハンカチは、友望が直接プレゼントした、唯一の物だ。シンプルな柄で、触り心地もいい。その業界には疎いから、それが何という生地なのかは分からないが、隅にちょこんと置いてある、青色のペンギンが妙に可愛らしかったから、それに決めた。

 涙を拭くために貸してくれた晴夜の優しさが、何よりも暖かかった。

 「もう大丈夫」

 「おう」

 短い会話で、二人の存在を確かめ合う。それが、今の、彼らの距離だった。



 ■



 「―― ッ!」

 居た。

 ソレはそこに居た。

 傘を差そうとしていた。嫌に滑らかな動きだった。

 「友望、深呼吸をした方がいい」

 「…… ッ」

 友望の呼吸は乱れていたが、反対に、晴夜は不気味な程落ち着いていた。その事に、晴夜自身も、変に感じていた。

 「………」

 晴夜は、一歩ずつ、ソレに向かって進みだした。恐怖が無い訳ではないが、今はどちらかといえば、興味が優っている。

 ソレの腕が、届く程度の距離まで来て、晴夜の足は止まった。

 ソレは晴夜を見ていたらしく、じっと、二人は動かなかった。

 「―――――」

 ソレが何かを言った。聞き取れない言葉、晴夜は全身を緊張させる。

 おもむろに、ソレは、傘を差した。大きな傘だった。晴夜をも、中に入れてしまうほどの、大きな傘だった。

 「―― !?」

 晴夜に、何かが起こった。突然体を硬直させ、千鳥足になり、そのまま地面へとへたり、座ってしまった。

 「晴夜!? 晴夜!!」

 友望の声は遠く、届くはずもなかった。

 足が言うことを聞かない―― 晴夜が―― 晴夜のところに行かなければ!

 「晴夜―― !!」

 友望の叫びをかき消したのは―― 晴夜の静かな声――

 「ああ」

 友望の声が止まった。息もできない―― けれど、不思議と苦しくはなかった。


 「―― これか」


 晴夜が、そう言った。

 「せ…… い、や?」

 友望の声も絶え絶え、地面を這う様にして、数cmずつ、晴夜に近づく。

 「―――」

 「――― ? ――」

 「――――― !」

 「――…… ――――」

 「―― !! ―― ――!!」

 声では無い。音でもない。けれど、ソレと晴夜は、確かに会話をしていた。

 友望の目には、大きな傘の下で、晴夜とソレがずっと、同じ方向を見ている情景のみが写っていた。

 「  !! ……   !!」

 最早自分の声すらも聞き取れない。

 「―― 友望」

 晴夜が、友望を見ようともせず言った。

 「これは、見ちゃダメだ」

 友望が見た晴夜は、まるで死んでいるようだった。



 ■



 それから、晴夜は少し変わった。

 寝ることが多かった授業でも、全く寝なくなった事から始まり、言葉遣い、雰囲気まで変わり始め、目が大きく変化した。

 ―― 何も見ていないような目。

 失明とか、そういう事じゃない。ちゃんと景色は見るし、友望の顔だって見ている。けれど、見ることに何ら感情を抱かないこと、見ているようで見ていない、虚ろな目だった。

 古本屋の爺さんにその事を話したところ、彼はただただ、そうか、としか言わなかった。失礼して店を出たあと、男がすすり泣いている様な音がしたのは、きっと気のせいじゃないだろう。

 「友望――」

 晴夜が呼ぶ。以前とは違う、すっかり落ち着いた声で。

 「次はこれだ――」

 何かを示した声は、違っていても、やはり晴夜の物だ。友望は、そう思うと、やけに安心した。

 「いい? じゃあ、まずは――」

 そうして、ほんの少しだけずれた歯車は、自身もそれに気が付かないまま、回り続ける。

 そうして、彼らの日常は、少し虚しい気分を残して、続いていく。



 「あ、やっぱり、居た」

 友望の声に、ソレは振り向いた。



 ■



 ―― 白雪に裂かれ 紅き終わりは冬卯花

 恐れられしその虚は絶えず かの心を奪うだろうか


 ずっと先の話―― 冬卯花は咲き誇る。

 遠い過去の話―― 冬卯花は咲き誇る。


 その色は?

 ―― 誰かの目の前に広がる、一面の色――

 冬卯花は―― 確かにそこで、咲き誇る。


 ―― 愛する全てに、根を張って。


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