市松小澄、やっぱり筋肉には勝てなかったよ。
小澄はなんか盛りあがっていた。
すごく気分が盛りあがっていた。
たとえば、絶対音感とは幼き頃から楽器に触れていなければ身につかないものだという。では、代わりに人を殴りつづけてきた彼女はいったいなにを手に入れたのだろう。
三歳で正拳の握りを覚えてから、稽古、稽古、稽古。砂も殴ったし、大樹も殴った。道場の先輩に協力してもらい、殴られる瞬間にも瞼を閉じない訓練だってみっちりとした。(そして〝ハートレスエッジ〟のリングネームをもらった)十五の夜には盗んだバイクを素手で解体するに至ったし、手刀でのビン切りにも成功した。足が相手の頭上まで届くのは、股関節を脱臼するまでいじめ抜いた成果だ。いざという時のために力を蓄える日々は楽しかった。いつの日か花を開かせる場面がやってくるのを心の底から待ち望んでいた。地区大会で優勝しても、全国の常連になっても、これまではいまひとつ満ち足りない灰色の日々であったけれど、しかししかし今この瞬間だけは自分こそが物語の主人公なのだ。
目の前に道着をまとった並木葛生がいる。
すべてはこの時のために生きてきたと言っても過言ではない。
――それが典型的な中二病の症状であることは、アドレナリンがばんばんでまくってる小澄さんに気づけるはずもなく。
「開始の合図はいらないよね、並木さん」
「……ああ」
では遠慮なく、と微笑んだ。
葛生は戸惑いからか、それともまだ女の子の戯言とでも考えているのか、だらりと両腕をさげたままで構えをとる様子もなかった。
ならば目を覚まさせてやろう、と。
「今から顎を蹴ります」
「――え?」
蹴った。宣言通りに。
彼女の爪先が光の速さで彼の顎に喰らいつき、そのまま脳天まで跳ねあげた。
見えなかっただろう? 笑みを深める。そりゃあ見えなかったはずだ。一日に千回、欠かさず蹴り抜いてきたこの足は、もはや神の目にもとまらない。この不可視の前蹴りあげに、小澄は〝ヴァニッシングデス〟と名をつけていた。
ちなみに、その名は小澄が大好きだった先輩と日々プレイしたゲームのバグ技からとっている!
「もう一度撃つから、防いでみてよ」
顎をおさえ、まだぐらぐらと膝を笑わせている葛生にむかって、そう目を細めてやった。
びくりと体が硬直するタイミングにあわせて、再びヴァニッシングデス。
反射的に守ろうとする手を綺麗に避けて、かつ正確無比に、今度は喉を突き刺した。
「ぐ……ごほっ」
背中を丸める葛生。だけど、まだ畳に手をつかないのがとても嬉しかった。
この男、頑強だ。
「小学生の頃にね、大好きな先輩がいたの。彼女はあたしと同じく道場の娘で、よくうちに出稽古にきてくれた。いっぱい遊んでももらったわ。そこで教えてもらったのが、この技だった。彼女はある日は己の拳を見て、ある日は己の爪先を見て、よくこう言っていた。『人類の打撃はいつ音速を超えるのかしら』超えるわけがない、って思うでしょう。あたしも冗談だとばかり思っていた。でも、実際こうしてみるとどうだろう」
クズオが初めて構えを見せた。
両手をあげた前屈立ちのようなスタンスから、弧を描くように、右足が持ちあげられる。
得意のまわし蹴りか。しかしこうして目の前にしてみると――遅い。
小澄の側頭部に背足が届く前に、神速の打撃が彼の鳩尾を貫いた。
「一〇〇パーセントの死よ。あたしはこの蹴りをそう呼んでいる」
高らかにそう歌いあげた。背中に羽が生えているかのような感覚がある。
〝ハートレスエッジ〟の異名を持つ先輩に、はじめてこの技を教わった時、小澄はまだ幼かった。体重は軽かったし、足も柔らかかった。同じように蹴っても、同じ結果が得られない。八つも年が違えば、それはごくあたりまえのことであったのだが、当時の小さな頭ではどうにも理解できなかった。不合理であると感じられていた。
市松小澄が市松小澄たる人間性を語るのに最も必要なのは、まさにここである。
できないから、やらない。
できないから、諦める。
そのような思考が、彼女にできなかった。というよりも、欠片も存在しなかった。あるいは、いずれできるようになるとか、時がすべてを解決してくれるとか、そういった平和的解決も彼女の脳にはぽっかりと抜け落ちていた。
すべては今なのである。今できないことが耐えられない。
ゆえに行った毎日千回の基礎稽古。スピードを手に入れてからは砂を蹴った。爪先を硬質化させた後には人を蹴った。それによって生みだされた前蹴りは、いつしか道着を擦る音すら置き去りにした。
だが、そこまで至っても大人と子ども。大好きだった先輩に師事してから一年が経ち、三年の月日が流れても、小澄の蹴りが彼女の顎を割ることはなかった。
その時は、まだ。
「音が、聞こえないでしょう。風を切る音、袖がはためく音、聞こえたと思った時にはすでに蹴られている。ならば、あたしの蹴りは音速を超えているんだ。防ぐこともかなわず、目にもとまらないのであれば、すでに光の速度すら超えているのかもしれない」
もちろん、この小澄の台詞は女の子の戯言だ。
半ばそう信じかけているものの、用いた道理は別にある。
年をとって、背が伸びた。気がつけば先輩も超えていた。男子と見紛うリーチと、それに見合った筋力。中学にあがって帯もとり、同世代の大会では何度も何度も優勝を重ねた。なのに、それでも先輩には決して届かなかった。立ちあえば、次の瞬間、眼前に拳があるのである。未だ圧倒的な速度の違いがそこにはあった。
人には才能というものがある。
たとえば、ピアノ。どれだけ優れた技術を身に着けても、手が大きくなければ押さえられない鍵盤があるように。
たとえば、囲碁。どれだけ定石を学んでも、記憶力が乏しければ実戦では無惨に石をとられてしまうように。
決して努力だけでは越えられない壁、才能とはそういうものだ。
小澄が空手を極めるには、致命的に欠けているものがあった。鍛えあげたとばかり思っていた筋肉の質。長く闘うための持久力を十二分に持つ一方で、瞬発的に足を跳ねあげるための速筋が、彼女の肉体にはあと一歩不足していた。それまで常軌を逸した鍛錬により覆い隠されてきたが、先輩との埋められぬ差はそこにあった。そして、一度断裂した靭帯がもとには決して戻らぬように、どれだけ努力をしたとしても、持って生まれなかったものを育てるには限界があった。
では、なぜ小澄は今、いともたやすく並木葛生を蹴れるのか?
「が、は……ッ!」
負けじと再度蹴りを繰りだそうとした彼に、プレゼントを渡した。もう一度、鳩尾にだ。ヴァニッシングデスは騎兵の槍のごとき重みを持って、真っ直ぐに貫いた。
それでもまわしきった彼の足には、安藤君や新部長を床に這わせた威力が見る影もなく、くたりと小澄の左腕を叩くに留まった。胃がせりあがり、呼吸はとまり、痛みに肉体が発狂しかけているだろう。どうして避けられぬのか。葛生は混乱の最中にいるに違いない。それには二つの理由がある。
一つ目を語るにはボクシングがいい例だ。ベタ足のファイターがあれだけ接近した間合いで互いの拳をかわしあえるのには理由がある。予備動作である。放つ前の肩を入れる動作、前傾する姿勢に気配を読みとり、予見によってジャブをかわす。ストレートにはそれでカウンターをあわせる。同じように離れた間合いで蹴りからはじまる空手では、踏み込んだ軸足を見て、どこを狙っているかをはかるのだ。
しかし、小澄の技にはそれがない。少なくとも、ここまでの打撃では意図的に予備動作を消している。少女にしては高い背丈を利用して、前蹴りを放つ際にも踵をあげず、上半身を揺らさない。するととたんに相手は技のでどころを見失ってしまうのである。
「必ず刺さるナイフがどれほど強いか、あなたにわかって?」
葛生にとっては魔法にも見えるだろう。
ところで、小澄は魔法の存在を信じている。幼いころから、そして今日に至っても、この世のどこかには、きっと人知を超えた力があるに違いないと考えている。男のようななりをしていても、実はそこらの少女より少女らしい。だが一方で、自分がそういう素養を一切持たないことも、はっきりと自覚していた。ゆえに願いをかなえるためには、彼女は積極的にトリックを使う。そのためによく学ぶ。あの男装もそうだ。ベースを覚えたのもそうだ。技から予備動作を消したのも、またもう一つ彼の弱みをついていることも。
葛生が放つまわし蹴りは、格闘技において最も見栄えがよく、あたればまず間違いなくノックアウトできる花形の技だ。
ところが、そこに大きな欠点が隠されていることは意外に知られていない。
破壊力を第一とするその技の性質上、着弾するまで余分に距離を必要とするのだ。弧を描く軌道、それは言いかえれば滑走路のようなもの。助走してからでなくては飛びたてない。
ならば、目標まで直線でむかう前蹴りに、速さで負けるのは道理だろう。筋肉の質で劣る小澄であっても制することができたのは、このためだ。そして、先にあてさえすれば、いかに男と女の力の差があれど、相手の態勢は崩れ攻撃力は半減、いやゼロに等しくなってしまう。
考えること。己にない才能を埋めるために、考えつづけること。
そのたゆまぬ研鑽によって、彼女の打撃は人の域を超えた。
さてしかし、このトリックに葛生は本当に気づいていないのだろうか? 新部長をこともなげに倒してのけた彼が弱いとは思わないが、もしまだわかっていないのなら、いささか期待外れだとがっかりせざるをえない。おまえの蹴りは、所詮はテレビで覚えたにわか仕込みだったのか。
さて、どうだ。
立てつづけに鳩尾を蹴られた彼はそのまま倒れるかと見えたが、ドンと前に足を突きだし踏みとどまった。やはり頑強。男の子はこうだから楽しい。
「やっぱり、あたしの蹴り、見えない?」
「――っ」
ようやく学んだのか、次の一手は突きだった。
体重をのせた、ボクシングのストレートを彷彿とさせる右拳。
これならば態勢を崩されても問題ないとでも踏んだのだろうか。
馬鹿め、おまえは死んだわ――呪いの言葉とともにヴァニッシングデスを撃ちだした。拳の射程は足よりも短い。ゆえに限度間合いから突きをあてるためには、一歩踏みこむ必要がある。その一瞬が、到達した空手家の前では永遠ほどに伸びることが、まだわからないのかッ。
拳が腰から発射されるよりも早く、ナイフと化した爪先が鳩尾に。
――刺さらない?
「筋肉――ッ」
小澄は意識の外で叫んでいた。
筋肉か! 筋肉なのか!
こいつは急所にすら筋肉をつけて、ガード不要という対抗札を手にいれたのか。
それにしても、なんと鍛えあげられた腹筋よ!
「この……ッ」
神速で蹴り足を戻し、同時に守りに移行する。が、相手を舐めていたのは自分だと思い知らされた。葛生に対抗し、平行立ちからろくに備えをしていなかった油断が、ここにきて深刻な亀裂となる。こいつは一撃で安藤を屠った男だぞ!? 黒帯の新部長ですら足元にも及ばなかった! なんという迂闊、慢心。もう受けは間にあわない。前に突きだした左手を避け、顎の前に添えようとした右手をも蛇のごとくすり抜けて、その拳が迫る、迫る、迫――。
直撃したのは。
なぜか胸板であった。
「――おまえ」
咳き込みかける肺を必死に押さえつけ、目の前に無表情に立つ男を睨めつける。
「この紳士野郎が……ッ」
手加減をされたのだ。
女だから、顔を殴らないと暗に言われたのだ。
これほどの屈辱があろうか。
これほどの屈辱があろうか!
「殺す。並木葛生、おまえは殺すよ」
三戦をとり、息吹によって呼吸を整えた。
油断などもう存在しない。己の持てるすべての空手を駆使して、この男を破壊する!
――ちなみに。
小澄さんが当初の目的を忘れているのは、なんつーか、ほんと言うまでもなく。
遠く離れて見守る親友のドリル子さんは、どうしてこんなことになっちまったんだよと頭を抱えているのであった。