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市松小澄、灼熱の時間。

 最初は一年の安藤君だった。

 安藤君は同じクラスのちょっと粗野な男の子で、「先輩の手を煩わせる必要はないッスよー」とかなんとか言いながら自信満々に葛生の前へでていった。

 この格技場は柔道部との兼用のため、畳が敷いてある。

 その二間を挟み、両者がむきあう。葛生は男子部から胴着を借り、白帯を締めている。律儀にも三年のOBが審判役をひき受けた。腐っても試合形式と言うことなら、よもやリンチまがいのことにはなるまいが、もしもの事態になれば拳で間に割って入ろうと小澄は考えていた。

 だけど――今すぐとめようとはしないのは。

 興味があったからだ。並木葛生は三年の先輩でもおいそれと手をだせないほどの不良であると聞く。その噂は誤解だと〝本人の口からは〟訂正されていたが、はたして本当なのだろうか? 火のないところに煙はたたない。小澄は己の体の奥の方がうずうずしていると自覚しつつある。

「はじめ!」

 審判の声がかかると、安藤君は余裕たっぷりに両手を広げ、葛生へと歩み寄った。

 その彼はというと表情は特になく、同様にすたすたと相手へ近づいていく。

「なぁ、クズ先輩よ。空手っていうのはさ――」

 言いかけた瞬間。

 ベチィ!と大きな音が格技場に響き渡った。

「あ――?」

 安藤君の顎から頬にかけて、葛生の右背足が叩きつけられていた。

 上段まわし蹴り。

 しかも脳震盪を狙って、わざと浅めにあてていた。

 憐れ安藤君はぐるりと宙を見あげると、そのまま白目をむいてぶっ倒れた。

「お、おまえ――ッ」

 審判が憤怒も露わに葛生にむかう。

「今のは一本だろう、審判。空手にもまわし蹴りってあるんじゃないのか」

「おまえ、顔に……!」

「ん? ああ、フルコンタクトじゃなかったのか。でも、そこの部長が〝他流試合〟だって言っていただろう」

 名指しで呼ばれては、隠れているわけにいかない。

「おい、その一年片づけろ」

 新部長が畳に足を踏みいれた。

 他の部員が安藤君をひきずっていくのを見届けると、彼はのっそりと葛生にむきなおった。眉根は寄せていたが、プライドが口元の笑みを残している。

「未熟な後輩がすまなかったな」

「なに、構わんさ。部長殿がケツを持ってくれるんだろう?」

「不良めが。その言葉、後悔させてやるよ。空手の強さを思い知るがいい」

「……不良ってのは誤解だって言いつづけてきたんだけどな」葛生が胴着の襟をなおしながら、爪先で畳を強く叩いた。「今日はもういい。ここまでやられて、へらへら笑ってひきさがれるほどできた人間でもない。おまえらには心底腹がたってるんだ」

 二人が距離をおき、帯を締めなおした。

 審判が新部長に「いいのか?」と声をかける。「問題ありません」と視線だけで頷き、彼は格技場の奥と目前の相手に一礼した。意外そうな表情をつくる葛生、薄く苦笑を浮かべ、礼をかえした。

「はじめ!」

「シャアァ!」

 裂帛の気合いとともにとった新部長の構えは、前羽であった。

 両手を目線と同じ位置に突きだした絶対の防御。急所が集中した顔面まで線を通さず、また少し腰をひいて金的に備えることで、相手に隙ができるのを待つ構えである。

 ――ああ、これは駄目だなと小澄は思った。

 防御先行が有利に働くのは〝一撃で死ぬことがない〟がちがちのルールに守られた試合においてのみだ。たとえば、テレビの中の立ち技であるとか、反則がやたらとられやすい競技化された柔道であるとか。

 新部長は先の一撃から、守りを固めたのだろう。だけど、それは判断の誤りだ。空手に先手なし、というのは一部の達人の間にしか通用しない言葉である。おまえに拳足を見てからいなす真似ができるのか? 一撃で殺しにくる他流試合で後の先がとれるのか? 嗚呼、おまえの唯一の勝機は先の先をとるのみであったのに。

 案の定。

「うっ――」

 絶対防御などものともせず、葛生はガードの上から殴りにかかった。

 正拳、というよりも体重を乗せたボクシングのストレートに近い突きだった。

 新部長はかろうじて両手で防いだものの、その結果態勢を崩し、側頭部ががら空きになってしまう。そこに狙い澄ましたまわし蹴り。今度は深く、背足がめりこんだ。

「く、クソッ」

 いや、見なおした。新部長は倒れなかった。よろよろと後退したものの、構えをなおすだけの力が残っていた。

 限度間合いにおいて、今度の彼は天地の構えをとっていた。相手を威圧するように左手を高くあげ、己を大きく見せている。相手の間合いから外しているのは一度喰らった恐怖からか、しかしプライドは後退を許さない。一体、この先どうするつもりなのかと見守っていると――ああ、これは。

「並木ぃ!」

 新部長は上段を振ると見せかけて、態勢を低く前進する。

 諸手刈り――それはもう空手じゃない。

 柔道の、特に相手の仕掛けを怖れる外国勢が多用する、両足を狙ったタックルだった。

 刹那、葛生が残念そうに口元を歪めたのを、小澄の目は捉えていた。

 ガキン、と。

 確かに音を響かせて、膝がはいった。

 突っこんできた頭を手で押さえ、そのまま顎へ一撃。彼の拳法ではどう扱われているか知らないが、総合格闘技と違って多々防具をつけない空手においては、あまりの破壊力から禁技とされている蹴りだった。

 新部長の手は葛生の足にかかることなく、畳の上に沈んだ。

 手加減をしたのだろうか、口から血が漏れでていないことから、歯までは折れていないと推察される

 小澄は、感じていた。

 子宮の奥の方がぞくぞくと震えるのを感じていた。

 手加減を、する余裕があったのだ。昇段できなかったとはいえ、地区大会を勝ち抜くくらいはやってのける、あの新部長を相手にして。

「並木てめぇ! ――おい、おまえら! 囲めッ! 袋にするぞ」

 審判のくせに、一度も判定をしなかった役立たずの三年が周囲に声をかけた。

 わっと後輩たちが立ちあがる。一斉に殴りかかるつもりか、それともラグビーのごとく飛びかかって押しつぶすつもりか。どちらにしても空手の精神に反する。

「その必要はありませんよ、先輩がた」

 親指で加速をつけて、誰よりも先に葛生の前に立った。

 なにやら声をあげかける審判を、平の手で制す。

「あたしがやります」

 三六〇度見回すと、皆が中腰のまま固まっていた。

 それもそのはずだ。

 おそらく今の自分は、餓えた虎よりも鋭い気を発していることだろう。

「先輩がたは座って見ていてください」

 すると場違いなことに、そこに先に倒されたはずの一年の安藤君がふらふらと近づいてきた。いつのまに蘇生したんだろう? 彼はなれなれしくも小澄の肩に手をかける。

「市松ちゃんさぁ……その勇気は買うけど、やっぱここは男の出番っつーか、女のでる幕じゃねーっつーか」

 こういう度胸のある態度は嫌いじゃない。

 なので、小澄はにこりと笑顔をかえした。

 彼は虚をつかれたように動きをとめると――そのままスナップを利かせた裏拳を顎に喰らって、また白目をむいてぶっ倒れることとなった。

 空気を読めないやつは嫌いなのだ。特にこいつはぶち殺してやりたくなるほどに。

「座って見てろって言ったのが聞こえなかったのかァァッ?!」

 窓がびりびりと震えるほどに叫んで拳を振りあげ、左前屈立ちをとった。

 ドンと畳を踏み抜く音が、その場にいる葛生以外の全員の腰を落とした。審判も含め、全員のだ。

 小澄は笑う。見れば眼前の彼は困惑の表情を浮かべている。なんて顔してるんだ。笑え、笑えよ。笑うのは真にのめり込んだ武術家の特権だろう? 笑いながらあたしの一撃を受けてみろ。

「審判はもういりません。さっさとここで倒れてる馬鹿な身のほど知らずをむこうへやってください」

 その三年は震える足でなんとか立ちあがり、安藤君の両脇を抱えて退場していった。

 これで邪魔ものは、もういない。

「これ以降、誰も口も挟まないでくださいね。どちらかが死ぬか、殺すまで。それが他流試合ってものですから」

「お、おい。君はショウコの――」

 と葛生が慌てた様子で口を開いた。

 もしかしたら、二人の間に会話が成り立ったのは、これがはじめてかもしれなかった。

「あんたも黙れよ、並木さん。あたしは空手部で、空手家だ。こんなに強いやつを前にして、やるなという方が無茶な話だよ」

 左の拳を開き、手首を返して、くいくいと誘ってやった。

「死ぬまでやろう」

 葛生は腰に手をあて、首を振ると、やれやれとばかりに溜息をついた。

「……わかった。やろう」

 こうして第二ラウンドの鐘がカァンと鳴り響いたのである。

 ――ちなみに。

 小澄が当初の目的を忘れていることは言うまでもないだろう。

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