市松小澄、これどういう話だっけ。
「しかし、まさか優勝してしまうとは……」
あれから月日が流れ、小澄は放課後の音楽室で頭を抱えていた。
隣では親友のドリル子が同じ椅子に座って、ピアノで椎名林檎の『丸ノ内サディスティック』をメロウに奏でている。先のコピーバンド大会でも決勝後に余興に披露した曲だ。その際のボーカルは二人で務めた。
「オリジナルをやったら、今後デビューの可能性もあるって冬火さんが」
「あの人もなに者なのかね」
と相方の肩にもたれかかって小澄は溜息をついた。そうなのだ、即席で組んだはずのバンドが一昨日の舞台では大絶賛を受けてしまった。それにはノッキング・スリーのコピーというニッチなところを攻めたという点もあるし、ドリル子の変態的なギターテクもあっただろう。葛生のピアノさばきも評価が高く、小澄の男装も、まぁ、自分で言うのもなんだが相当に女性票を集めたものと思う。
だが、なによりも大きかったのは、あの葉山冬火の顔の広さだ。審査員一同が彼女に頭をさげていた。まさか出来レースであったのではあるまいなと疑うほどに彼女はその筋で知られた人らしく、予選、本線と対戦相手が可哀想に感じられるほど大差でがんがん勝ち進んでしまった。
「で、どうするよ、小澄ちゃん。デビュー目指してオリジナルつくっちゃう?」
「あたし、実家の道場を継がないといけないしなぁ……って、ちょっと待ってよ」
これ、そういう話だったっけ、と親友の肩を揺さぶった。違うでしょう。確かに音楽は好きだけど、本来これはそういう目的じゃなかったでしょうに。
「おやおや、いつ気づくかと思ったら、二ヶ月も経ってしまったぞ」
「そりゃ、マジ楽しかったし。まさかあたしのベースが世界に通用するなんて思いもしなかったし」
「いや世界は気が早いよ」
「世界なんて狙ってねーわよ! あたしが手に入れたいのは! ……手に入れたいのはさ」
「なんだ、マジでやる気じゃねーの、小澄ちゃん」
スカートを脱ぎ捨てたあの日とは打って変わって、と指摘される。
そうなのだ。一昨日の決勝が盛況に終わったあと、余韻に浸る兄妹の陰で冬火さんに肩を組まれ、こんな台詞を囁かれたのだ。
『あんた、クズくんにホレてるんでしょ』
確かに薄い本は大の好物だが、現実にそれを持ちだすほど腐ってはいないよ、と動揺のあまりおかしな返答をしてしまった。しかし冬火さんは平然と「私は一向にかまわないけど」などと呟き、そしてだ。
『ホモの女の子って、新しくていいと思うよ。――だけど、私のクズくんに手をだそうってんなら、話は別だ』
強く肩をつかまれ、背筋には震えが走った。巨大な二つの肉球が横から押しつけられていた。
『そんな倒錯した趣味で、私のクズくんをかどわかそうっていうならさ、もう勝負だろう。むこう一ヶ月以内に私は彼をおとすよ。この豊満な私の武器で、やつをめろめろにしてくれる』
この人、自分で豊満とか言ったぞ! マジかこのやろう!
『それが嫌なら、おまえもやってみせろよ。正々堂々の互先だ。……とはいえ、アドバンテージは六年来の私にあるだろうがなぁ』
そんな火蓋が切って落とされて、ただ手をこまねいているわけにはいかなかった。
しかし、どうすればいい? 繰りかえすが、ここにいるのは心に恥ずかしい闇を抱えた十人並の女の子だ。あの巨大なおっぱいに立ちむかうには己の武器はあまりに貧弱すぎる。
「いっそ、ボーイズラブで攻めるか……?」
「突然なにを言ってるの小澄ちゃん?!」
「いやね、ほんとあたしはどうすればいいのかと」
他に誰もいない教室の隅で、親友はピアノを弾きやめ、可愛らしい瞳をじぃっと小澄にむけてくる。この子くらいの魅力があれば、自分も強気でいけたろうにと思う。
「小澄はもっと自分に自信を持った方がいいよ。だって、男の子のふりをしている時は、いつも兄貴とちゅっちゅしてるんでしょ?」
「ちゅっちゅはしてない。したいけれども」
「しちゃえよ、もう」じと目に転じて彼女は言う。「でも、あんたのアドバンテージはそこにあるんじゃない? 兄貴と同じ趣味を共有できる。そして、恥ずかしがったりさえしなければ……」
そこで彼女が静止した。口元を片手で多い、なんだろう、なにを考えている?
ドリル子はトレードマークのロール髪をぴんと指ではじくと、そのまま横の壁をさし、コケティッシュに小首を傾けた。
「このむこうにはなにがある?」
「むこう? そりゃあ……」
「週三で小澄がむかいなさる格技場でしょ」
意図がつかめず、両手を前で広げた。週三と表現すると足しげく通っているように思えるが、それは空手部が柔道部と隔日で共用しているという意味であり、実際のところ他の部活よりも活動が少ないと言える。そのため、今日のように音楽室を占有する日も多いし、属する空手部よりも実家の道場で汗を流す時間の方が長かったりもする。
その格技場がなんだというのか。
「おやおや、頭のめぐりが悪いんじゃないかい、小澄さん。あそこはあんたの城でしょうに」
「そんなことないよ。うちは男子の方が幅をきかせてる。まぁ、どこの部活もそうだと思うけどさ」
「でも、空手をやってる時の小澄はまるで別人だよ。前の大会の時も、格好よかった。女の子からラブレターもいっぱいもらったでしょ。あれなら、兄貴だって惚れてしまうと思わない?」
「なわけないでしょう」
「それがあるんだなぁ。覚えてないの? この春にわたしが言ったこと。うちの兄貴は謎の拳法をやっていて、三年の先輩にも一目おかれてるって」
たった今、思いだした。
その勢いで小澄はピアノ椅子の上で回転し、彼女とむかいあう。
「翔子、それ……」
「悪くないでしょう。兄貴、テレビをつけると結構、柔道とかボクシングとか、あと最近流行りの立ち技とか、そういうのを見てるのよね。あれ、絶対に自分でもやるのが好きなんだよ」
「あたしも大好き」
「さすが道場の跡取り。どうだろう、いっちょ見せてあげない? 本当の空手が、音速を超えて爆ぜるところを」
小澄は鍵盤にむかって指を落とすと、これ以上はないくらいに満面の笑みを浮かべた。
「音速はさすがに無理だけれども」
だが、残り一ヶ月の間にあの人に見せられるものといったら、確かにこのくらいしかない。
ましてや空手だ。己の人生の半分はこれに注ぎこんできたと言っても過言ではない。親友はなんでも器用にこなしてみせるが、自分が輝けるのはやはりここしかなかったのだ。
早くも今から拳がうずいた。先にはツッコミをいれたが、しかし今なら音速を超えられるかもしれない。そんな気分だ。なんだかすごく、すごく楽しくなってきたぞと、小澄は片手のピアノでノッキング・スリーの『バイオレンスワールド』を弾いた。
さあ、ようこそ空手の時間へ。