市松小澄、心をなくした刃。
その女は、赤かった。
服や唇の色だけを語るものではない。その瞳は炎のごとく燃えさかり、喉奥から発せられる挑発的な声は小娘二人の細身を嘲るかのように焼いた。
「あらためて、葉山冬火だ」
差しだされた手を握ると、その温度すら高く感じた。
ベースをスタジオの壁に立てかけて、短くなった髪をかきあげる。ここで負けてはいられない。ファーストコンタクトで互いの立ち位置が決まるのは、空手でも同じだ。
「オレは〝エッジ〟……〝ハートレスエッジ〟の如月秀作だ」
決まった……。
ポーズをつけてマフラーを放ると、冬火と名乗った赤い女は座ったまま目をぱちくりとさせた。
「お、おもしろい子ね……」
「ありがとう。よく言われる」
すると慌てて駆け寄ってきたドリル子に背後からひっぱられ、耳に口を寄せられる。
「あ、あんた、兄貴の前だといつもそんなんなの……?」
「いかにも」
「〝ハートレスエッジ〟ってなに?!」
「心をなくした刃だ」
「如月秀作って……!」
「オレの真名だよ、翔子」
声をつくってそう囁いてやると、彼女はくらくらと手をおでこにやった。きっと、あまりの格好よさに痺れているのだろう。
ちなみに〝秀作〟の名は、古い囲碁打ちからきている。〝ハートレスエッジ〟は空手の先輩から譲り受けたリングネームだ。マジでクールだ。
「キサラギは妹の彼氏なんだよ。ベースがやれるっていうんで、今日は来てもらったんだ」
電子ピアノのセッティングをしながら、葛生がそう補足してくれた。彼はいつものマイペースな口調で、年上の彼女のことも紹介してくれる。
「で、トーカさんは見てのとおりドラマーだ。昔から、なにかとおれの面倒を見てくれていてね」
「おしめも換えてやった仲だ」
「いや、そこまでの旧知じゃあないんだが……まぁ、こういう人なんだよ。昔からさ」
やけにつきあいの長さを強調するな、と思い彼を見やる。珍しく笑みが深い。やはりそういう仲であるのかと今度は冬火氏の方をむけば、ドラムセットの隙間からもわかる巨大な……いや、もはや言うまい。
上着を脱ぎ、ベースを肩からかけた。そういえば、とロール髪の友に視線をやる。元々彼女は今日、ドラムをたたく予定だったはずだ。それが冬火氏の登場で役目を奪われてしまった形。鞄にスティックを入れっぱなしの彼女は、いったいどうするのだろう。
「あ、わたしはギターの並木翔子です。いつも、おにいちゃんがお世話になってます」
平然とそんな自己紹介がなされた。
店員がドアを開けて彼女用の楽器を運びこむ。それを見守る義兄の表情がやや面白い。
「てっきりショウコはボーカルをやるつもりなのかと。おまえが楽器をやるなんて、おれ、知らなかったよ」
「あら、おにいちゃん知らなかったの? わたしのギターはすごいのよ」
そう言って、彼女はアンプにつなげた借り物を抱え、弦をかきならした。フレットを押さえ、そのまま聞き覚えのあるリフをやりはじめる。エアロスミスの『Walk This Way』だ。上手い。これも小澄が昔渡した曲だった。だが、これまで毎日弁当をともにしていて、彼女がギターを買ったという話はついぞ耳にしなかった。
むこうで冬火氏が「へえ」と呟き、スティックを一回転させる。力強いドラムが空気を切り裂いた。慌ててベースをあわせると、本来ないピアノの音がパンキッシュに室内を満たした。しかし、腕を見せるにしても、どうしてこの曲なんだ。『Walk This Way』はイントロがあまりに短い。すぐに歌にはいってしまう。それでボーカルは誰が? そう迷っていると、ドリル子が水平に跳ねてヒップアタックをしかけてきた。
ちくしょう、あたしの英語の成績はおまえの半分だぞと胸中でシャウト、よろめいた体を部屋の中央部においたマイクスタンドへむかわせた。ええと、なんだっけ。そうだこんな感じだ。
「おまえの妹は最高だったぜ!」
「そこからくるか、キサラギ!」葛生が笑う。「いいか、おれについてこい」
彼がハイトーンで流暢な英歌詞を繰りだした。小澄は慎重にベースを刻みながら、親友と頬をくっつけて一つのマイクにあいの手を吹きこむ。その間にもドラムは攻撃的に音をたてていた。
挨拶代わりの一曲を終えて、全員が肩で息をしている。
汗をぬぐった葉山冬火が不意に、にやりと犬歯を見せた。
「私は時計より正確無比なリズムで叩けるのが自慢だったんだが……おまえら、なかなかひっぱってくれるね」
演奏が走ったことを言われたのかと頬を熱くすれば「ああ、そういう意味じゃなくて」と訂正がはいった。
「この私があわせにいっちゃうくらい、あっつい音をだしてるってこと。そっちのドリルちゃん、すんごいアレンジを聴かせてくれたけど、ギター歴はどのくらい?」
「さっきはじめて触りました」
「なるほど、パンクね」
さすがに大口を叩いただけだとは思うが、このドリル子にはそうと言いきれない凄みがある。ドラムをやるつもりできて、急遽ギターで対応してしまう子だ。とにかく才能の塊のようなやつだから、あれが初弾きというのはないにしろ、譜面は見たことがないと言われても驚きはしない。
「そっちの君もなかなかだ。いいベースだったよ」
にっくき巨乳相手とはいえ、誉められて悪い気はしなかった。
だが、次の一言で小澄の動きはぴたりととまる。
「色っぽい音をだしてくれるじゃないの」
「……そうかい」
額の汗が冷たいものに変わった。
冬火氏がにやにやと猫の笑みをこちらにむけてくる。ば、バレてる? いやいや、そんなまさか。曲を聴いただけで性別がわかるだなんて、そりゃもはや超能力の域だぞ。
黙っていると、彼女は「誉め言葉だよ」と笑みを深め、シンバルを叩いた。
「さて、今日はノッキング・スリーのコピーだったね。この分だと素敵な音楽の時間になりそうだ」
それにあわせ、まずは『Gravity’s Rainbow』からファーストアルバムをなぞってみようか、と葛生が言う。親友がまた弦をかき鳴らした。色々と問題は積まれたままだが、今この時だけは、確かに楽しめそうだと小澄もベースを構えなおした。
そして紡がれるイントロは、クラシックを意識したあのピアノから。葛生の指が波のように鍵盤の上をさざめいた。