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市松小澄、その恋は前途多難だ。

 私服にスカートを選ぶなんて何年ぶりだろうか。

 小澄はやたらすーすーする足に落ちつかなさを感じながら、親友と札幌の街を歩いていた。

 駅前からやや離れたカフェが待ちあわせの場所と聞いていた。それは誰との? もちろん彼女の義兄、並木葛生とである。普段は馬鹿なことにしかエネルギーを使わない親友のドリル子であったが、今日ばかりは礼を言わなければならなかった。

「うちにね、スタインウェイのピアノがあるのよ。世界三大ピアノと呼ばれる一千万クラスのあれがね。最初は成金らしい贅沢なインテリアだなって思っていたのだけど、あの兄貴、マジで弾くの。それも結構な上手さでさ。学校ではヤクザとおつきあいしてるとか噂されてる人の、意外な趣味っていうか」

 その話を教室で振られた時には、ただの雑談とばかり考えていたのだが。

「ところで、わたし、知ってるんだよ」

「なにをさ」

「あんたがベースを弾けるの」

 飲んでいたパックの牛乳を思わず吹きだしてしまった。

 彼女は濡れた顔を丁寧にハンカチで拭いて、平然と先をつづける。

「ふふふ、秘密にしてたつもりだった? 残念、中学の頃、あんたが目をきらきらさせながら持ってきたアルバムのこと、忘れたりはしないよ。ノッキング・スリーだったよね。三年前に活動を再開した伝説のインディーズバンド。小澄がテンション高めに『これね! これ、ベースがすっごいの!』とか言ってたのをよく覚えてる」

「そりゃ、中学にはいりたての子どもの話よ。ピュアだったのよ、あたしは……」

「はっはーん。じゃあ、どうしてあんたの指はこんなにガッチガチに硬くなってるのかなぁ?」

 牛乳パックごと手をとられて反射的に身をひいた。しかし、彼女はなぜかぎゅっと握って離してくれない。

「ちょ、ちょっとやめなさいな」

 指の平をぷにぷにとやられると、どうにも妙な気分になってしまう。

「ほーら、堅い堅い。どうなってんの、この指」

「そりゃあ、空手は指から鍛えるもんだし……。毎日、指立てふせに明け暮れてたら、誰だってこうなるわよ」

「ククク、小澄の部屋って、いっつも押入れのあたりが乱れてるわよねぇ。あんたがいない間に開けて、知ってるのよぉ。白いボディに黒のピックガード、ノッキング・スリーも愛用のプレシジョンンベース、シドモデル」

 このやろう、と指に力をこめると、残りの牛乳がぎゅるぎゅると吹きでた。

 こんなことを言うドリル子は多才なやつで、楽器を問わず音を奏でることができる。ノッキング・スリーのお気にいりのアルバムを渡した次の日には、音楽室のピアノで彼らの代表曲、『Gravity’s Rainbow』をそらで弾いてくれた。以来、空手少女のけなげな努力は、恥ずかしいので決して見せまいと秘するところにあったのだが。

 ドリル子は得意げな顔になって、縦ロールをぴんと指ではじいた。

「提案があります」

 彼女が丁寧語になると、いつもろくでもない話になるのだ。

「バンドをやりましょう」

 ――しかしながら。

 今回ばかりは、そうとも言えなかった。

 先に述べたとおり、葛生と小澄は音楽の趣味が同じ傾向にある。もちろんノッキング・スリーについても語らう夜があった。ベースに魂を震わせられるという小澄の力説に、彼は静かに頷いてくれたと記憶している。

 ノッキング・スリーは、バンド名にもあるとおり、クラシックあがりのピアニストが曲をつくっていた。運命のノックは三度、というのはベートーヴェンの有名な文句であるが、彼らは当時まだ黎明期であったインターネットを用い、リスナーたちの胸を直接、そして何度となく打った。あれからメンバは代わってしまったが、その精神はひき継がれており、かつての挑戦的な音楽性をそのままに曲中でクラシックのテーマをいれる。

 ピアノを弾くのにスタインウェイを用意する葛生であれば、それを再現するのに興味をもってくれるかもしれない。

 ……彼の横でベースが弾けるかもしれない。

 ということで、小澄は腹をくくり、三人でコピーバンドをやろうという親友の話にのったのである。

 彼女を通じて伝えてみたところ、葛生の答えもなんと、イエスであった。小澄がおめかしをしてわくわく街に繰りだすのも無理のない話だ。ウィッグも新調し、ドリル子によるコーディネートで白黒のニーソックスにミニスカートを履いている。背中にはお気にいりのプレシジョンベース。今日はパンクに決めてやるぜと、空手で鍛えた拳をぐっと握りしめていた。

 だが、なんてこと。

「確か兄貴、そこのカフェの窓際の席で待ってるって言ってたな」

「そう……ちょっと、あたし」

「緊張してきた?」

「してきた。ちょっとだけだけど」

 ドリル子の陰に隠れて、そっとカフェのウィンドウを覗いた。

 遠目に見えるにはライダースジャケットに薄いサングラスをかけた、彼の姿。

 そして、その正面には。

「あ、あれ……」

 意識の外で、言葉がこぼれ落ちていた。

 女がいた。

 葛生の正面にいるのは、彼よりもさらに年上らしき風貌の女。いや、ただの女ではない。やんごとなき絶世の美女であった。なだらかなウェーブを描く赤みを帯びた髪、それより色濃く鮮やかな口紅、耳にはずいぶんと高そうなピアスをしている。それに正面をむいているからこそわかる、その、大きなふくらみ。

 己の胸板を見る。

 こちらはすとーんと爪先まで見渡しのいい、スレンダーなボディ。

 深い悲しみ。

「そんなに、おっぱいがいいのか……」

「なにを言っているの、小澄?!」

「とまれ、翔子。足をとめろよ。あたしには少し寄るところがある」

 腕時計を見ると、まだ待ちあわせには時間があった。隣の親友の腕をひき、目についた服屋につれこむ。そこには彼女好みの素敵な衣装がそろっていた。デニムのダメージジャケット、蛇柄のパンツ、キャスケットに市松柄のマフラーを巻けば、ほら王子様のできあがりだ。試着室からでると、ドリル子が夢見る少女の顔になっていた。

「ねぇ、『オレの女になれよ、翔子』って言って……?」

「おまえはもうオレの女だよ、翔子」

「きゃああ! 結婚してよぉぉ!」

 などと騒いでいるうちに店員がこちらにやってきた。このまま着ていく旨を伝えると、タグを切り、手早く裾をなおしてくれた。支払いをすませ、あらためて着替える。そこで少女であった頃の残骸を袋に詰めた。スカートもブラウスも白黒のニーソックスも。

「お客様、ご自宅まで郵送しましょうか」

「いや……処分してくれ」

 店員の彼女にそう呟く。「はい?」と聞きかえされ、もう一度静かに声を震わせた。

「こんなものは、はじめから必要なかったんだ」

 言うと、店員の女性らしい瞳がひときわ大きくなり、小澄の顔をまっすぐに見つめてきた。

 そこはかとなく視線が熱っぽいのは気のせいだろうか。

「あ、あのお客様! これ、一生の宝物にします!」

「やめて! やっぱり家に送るから!」

 送付状を書いて渡すと、なぜか手を握られてしまった。

 怖い。己のイケメン具合が本当に怖い。

 店をでて、風になびく偽物の髪に気づいた。これも送ってもらえばよかったなと留め具をはずして、譜面とともにバッグへつっこむ。そこで、うしろから親友に肩をつつかれる。

「なによ、翔子」

「結婚して!」

「いや、それはもういいからさ……」

 彼女が前にまわって、小澄の髪をなおしてくれる。店のトイレを借りてワックスをつけてこればよかった。自分にもかろうじて存在するはずの少女らしさが残ってはいないだろうか。

「あーあ、今日は小澄の可愛さに気づいてもらうための会だったのに」

「人類はおっぱいには勝てないんだよ」

「あの人が兄貴の彼女って決まったわけじゃないじゃん。その、結構年も離れてるみたいだし」

「でも、もともとどこぞのご令嬢とおつきあいをしてるって噂だったんでしょ」

 あたしもさっき思いだしたよ、と溜息をついた。

 この悪友に今日の計画を提案された時、ひょっとしたらいけるかもしれないと、愚かにもそう思った。学校でも(同性限定であるが)ひっきりなしにラブレターをいただくこの身であれば、あの寡黙な男の心も溶かせるやもと。でも、よくよく鏡を見てみれば、ここにいるのは胸元の脂肪が少ない無骨な女の子だ。先ほどの試着室で見た腹筋だけがたくましい体には、涙がでそうになった。

 その上、並木葛生には仲の良い年上のカノジョがいるらしい。

 この恋は前途多難だ、と小澄はプレシジョンベースを担ぎなおした。

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