市松小澄、その女恥ずかしい心の病につき。
どうにも困ったことになった、と市松小澄は平たい胸をおさえていた。
悪友の頼みで男のふりをするようになって早半年が過ぎた。
自慢ではないが小澄は周りの女子よりも一つ抜けて背が高かったし、決して決して自慢ではないが胸もお尻もちっちゃいスレンダーな体は、ゆったりした服装に包んでしまえば男のそれと見分けがつかなかった。しかも、だ。短くした髪にワックスをつけて鏡の前に立てば、そこには昔読んだ漫画にでてきた王子様がいた。うわ、やっべぇと小澄は思った。これまで女の子からラブレターをもらうことには慣れっこだったが、今初めて彼女たちの気持ちがわかった気がする。そうか、あたしってばオスカル様でございましたか。
……もとはと言えば、悪友を守るためにはじめたことだったはず。
彼女にできた義理の兄が、どうやら妹でも平気で食っちまうクズオトコらしいと聞き、「こいつはオレが予約済なんだぜ。手をだしたらタダじゃおかねぇんだぜ」と脅すために変装して殴りこみにいった。ところがどっこい、その義兄、実はイイヤツだった。両親を喪った血のつながらない妹のために、毎日ご飯はつくるし、最近では勉強も教えてあげているらしい。見た目が怖いから誤解されやすいんだよ、と苦笑する義兄殿はどこからどう見ても人格者であった。
思えば、そこで変装なんてやめてしまえば良かったのだと思う。
「あのさ、小澄。兄貴のことは、もう大丈夫だからさ」
半年も経ってから、悪友はばつが悪そうに言った。
「だから、カレシのふりはやめちゃっていいよ。もともとそんな必要はなかったんだ。わたしが思春期特有の自意識過剰に陥っていただけなんだよ。兄貴は噂と違って悪い人じゃなかった。小澄に守ってもらう必要はもうないんだよ」
「……うん」
「髪も少しずつ伸ばしてもとに戻してさ、兄貴には実は女の子でしたーってバラしちゃおう。ドッキリでしたって。そうしたら学校でそんなウィッグをつける必要もなくなるじゃん。廊下でいちいち兄貴の目を気にすることもなくなる」
「……そうだね。でも」
「〝でも〟なによ」
「お兄さんが好きなのは妹の〝カレシ〟であって、あたしじゃない。あたしじゃあ、お兄さんの〝女友達〟にもなれない」
そうだった。
いつのまにか、悪友よりも彼女の義兄と遊びに行くことの方が多くなってしまっていた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? それはわからないけれど、ただ――二人は音楽の趣味があったし、好きな映画も大体同じだった。彼の背中にしがみついて乗るバイクはとても気持ちよくて、降りる時にはなんだか寂しくなった。
この半年間、多くの時間を共に過ごしたが、それは間違っても彼の恋人としてではなかった。女友達としてですらなかった。ならば髪を伸ばしてスカートに足を通したら、もうこれまでのようにはつきあってもらえないだろう。それは同じ学校に通っているにも関わらず、ウィッグをつけて女の子らしく振舞う今の自分に、彼が見むきもしてくれないことが証明していた。妹の友達として、こっちの〝市松〟も何度も顔をあわせているというのに。嗚呼、鏡の前でオスカル様だなんて喜んでいた自分は本当に馬鹿だ。
「でも、兄貴に今、特定の女の子がいないことは知ってるでしょう」
「無理だよ……」
「大好きな男友達が実は女の子だった!とか、超萌えじゃね? あの兄貴でも意外ところっと落ちるんじゃね?」
「駄目だよ……」
「どうして!」
一際強く肩を揺さぶる親友に、小澄は逡巡し、やがて諦めとともに理由を吐きだした。
「あたし、中二病だから……」
は?と親友は声を漏らした。
中二病とは!
普段は平々凡々とした目立たない生徒のふりをしているのに、なにかあると大きな声で「静まれ、オレの右腕ぇッ」と叫んだり、授業中にがたんと立ちあがってむきだしの包帯を押さえながら教室をでていったりする病気のことである! もちろん包帯の下にはなにもない! 大抵の人間は中二くらいの年頃に済ませてしまう水疱瘡のようなものであるが、この市松小澄さんは高校生になっても恥ずかしくも卒業できずにいるのであった!
「あ、あああ、あたしもね、いい年してアホやなぁって思っているのよ! でも、男装と同じで一度はじめちゃうとひっこみがつかなくなっちゃうっていうか」
「具体的には、どんな恥ずかしい台詞を兄貴に言っちゃったわけ……?」
「その、ね……会う度に『オレは自動的なんだよ』って挨拶したり、あああ、『キミは泣いている人を見ても、なんとも思わないのかい』って説教したこともあったな……。そ、それにぃ……」
「どうした、続けろ」
「『キミの妹はツンデレの可能性があるな、クズオ』とか毎回決め台詞のごとく使ってた……」
「余計なお世話じゃ、この中二病ッ」
うぐあーっと小澄は平坦な胸をかきむしった。
「男装してる時ってさ、普段とは違う自分を演出しなくちゃいけないじゃん? そういった必要性が、幼い頃からおさえつづけてきた変身願望と出会ってスパークしちゃって……」
もしも友達としての自分を好いてもらっているならば、それは中性的でミステリアスな少年のことなのだ。
それが正体をバラしてしまったら、どうなるだろう?
気兼ねしない男友達は消えていなくなり、そこに残されるのはミステリアスどころか恥ずかしい心の病を抱えた、十人並の女の子だ。
とてもハッピーエンドが待っているとは思えない。
「あんたが、わたしの見てないところでそんなことをやっていたなんて……」
「だって、しょうがないじゃない! 楽しかったんだもの!」
「うっせー馬鹿!」
親友はやれやれと肩をすくめた。
唯一の味方に呆れられてしまっては、もはや救いの道はないように思われた。
が、しかし。
「こうなったら、打つ手は一つしかないわね」
と彼女は凛々しい面持ちに転じて告げる。
「兄貴に種明かしする方向での作戦は諦める」
「え?」
「女の子としての市松小澄に、あの馬鹿兄貴を振りむかせるしかないわ」
「ええええええ!?」
あんたがこじらせてしまったのもわたしの責任だからね、と親友は見事な縦ロールを揺らしてにやりと笑った。