並木翔子、彼女の髪の毛はドリルのように縦巻いている。
母が死んだのだから、当然自分は一人で生きていくものとドリル子は考えていた。
そりゃあそうだろう? 結婚したのは母と父になる予定だった男であって、自分と義兄ではない。義兄とはその文字のとおり、血のつながりも縁もゆかりもない義理の関係なのだ。それなのに、今もまだ一緒に暮らしているというのは、どうにもおかしい状況だと彼女は思う。
義兄の葛生は、さすが十七年も御曹司をやってきただけのことはあった。義父が死んでわらわらと虫のように寄ってきた大人たちを、弁護士を使ってばっさばっさと斬り捨てた。ならば、自分も同じように追いだされるに違いないと腹をくくっていたのだが……彼はあの太く低い声で、自分にだけは「ここで暮らせ」と言った。なぜ?と尋ねると、彼はしばし言葉を探したのち、視線を外して「家族だからだ」と呟いた。
「わたしの肉体を狙っているのよ。ありゃ間違いないわ」
西日が差しこむ放課後の教室で、ドリル子は十年来の友人にその悩みを打ち明けていた。
「翔子、あんたねぇ……。話を聞く限り、いいお兄さんじゃないの」
親愛なる友人、市松小澄はそう肩を竦めた。小澄とは小学生の頃から机を並べ、お弁当を交換してきた仲だ。本と音楽に埋もれて生きてきたドリル子に対し、彼女は女だてらに空手部のエースを務めている。クラスの皆から好かれている彼女に対し、ドリル子には今もお昼を共にする相手が一人しかいない。性格も生き方もまるで正反対で、だがそうであるからこそ、この親友にはとても惹かれていた。
「小澄だって、あのクズオの噂は知ってるでしょう? 友達少なめのわたしが知ってるんだもの、あなたならもっと色々聞いてるはずよ」
「まぁ……その、かなりやんちゃな人だとは」
「不良なのよ。自分がとんでもない金持ちだからって先生や警察にまで口裏をあわさせて、三年生を屋上に呼びだしては殴り、裏庭に呼びだしては殴り、それでもおとがめなし。タチの悪いことに妙な拳法をやってるみたいで、他校の不良さんたちもビビって手をだせないでいるとか」
「へえ、強いんだ……」
妙なところで感心する小澄に、そうじゃねぇだろとツッコミを入れる。
「だ・か・ら! わたしの貞操の危機なのよ。あのクズオが下心もなしに、血のつながりもない女を囲うと思う? あのギラギラと脂ぎった視線を受ける度に、怖気が走るの。あれは真正のケダモノよ。きっとわたしを食べる時期を窺っているに違いないわ。もう少し育ってから頂こうか、いやいや若い実を食すのもまた乙なものだと……」
「さすがカレシいない歴十六年、妄想がすごいね」
「黙れ、空手一筋十六年。あのね、この前なんてね、マジ危なかったのよ。あなたとカラオケに行った日があったでしょう。帰った頃にはもう日が変わってて、喉はがらがら、体はもうくたくた、牛乳でも飲んで今日はもう寝ちゃおうって居間の電気をつけたら……」
そこには義兄がいたのだ。テーブルに両肘をついて、じぃとドリル子を見据えていた。驚き身をこわばらせたドリル子が、かすれた声で「ど、どうしたの……」と尋ねると、彼は感情のこもらない声で「いいや」とだけ呟き、腰をあげて、二階へのぼっていったのだった。
「あの時ばかりはやばかったわ。ひぃヤられる!って思ったの、ガチで」
「もしかしてそれ、翔子を心配して待ってたんじゃ……」
「そんなわけないじゃない! 相手はあのクズオなのよ? 噂によれば、ヤクザの令嬢とつきあっていて、学校の前に黒塗りのベンツで乗りつけたことがあったとか、なかったとか。そんな男と一つ屋根の下で暮らすわたしの身にもなってよ。日に日にあいつの欲情した視線が強くなっていくのを感じてるわ」
「いや、おつきあいしてる人がいるなら、あんたになんて興味はないんじゃないかな。ほら、だって、言いにくいけどあんたってさ」
小澄の視線が重力に従って落ちていく。つられて下を見れば、そこには薄い胸と、リノリウム張りの床に伸びるひどく小さなシルエット。
彼女がなにを言わんとしているのかは想像ができた。
「小澄、知らないの? 最近の男の人は、むしろこういう方が好みなのよ」
「じゃあ、今までもらったラブレターの数をかぞえてみろよ」
「あんただって、女の子からしかもらってないじゃない……」
日が落ちていく教室の隅で、二人の少女は両手で顔を覆った。
「とにかく」
気をとりなおしてドリル子は言う。
「今、わたし、とてもやばいピンチじゃん? あなたの助けがないと、いつ花を散らしてしまうかわからない」
「はいはい」
つまりあたしになにをして欲しいのさ、と彼女は言った。
ドリル子は両手を胸の前で握りしめて、彼女に一歩近づく。母譲りの栗色の髪が、頬の横でくるくるとロールを描いて揺れた。
「小澄に、わたしのカレシを演じて欲しいの」
「……」
彼女の意外に長いまつげが幾度か上下し、ややあってから喉奥から声がしぼりだされた。
「……ええと、もう一度言ってくれる?」
「わたしのカレシになってよ、小澄!」
「ひぃ!」
別に今、唐突に思いついた話ではないのだ。
春の終わりに母が去り、この小さな体が義兄の性的な視線にさらされることとなって、あの頃、ドリル子が抱える深い悲しみは限界を迎えようとしていた。いつ外宇宙から名状しがたき悪い電波を受信して、学校中の窓をぶち割りまくってもおかしくない心境であった。そんなとある朝だ。いつものように小澄と登校すると、玄関で事件が起きた。彼女の下駄箱に、大量の紙束が突っこまれていたのである。
ラブレターだった。
入学して間もない時期から、三年のお姉さま方から茶会に誘われてきた小澄のことだ。説明を受けるまでもなく、下駄箱を詰まらせるそのラブレターの差出人がすべて同性であることは察せられた。「いやこれはね。昨日、空手の新人戦があったんだけど、そこにクラスの女子が見にきてたみたいでさ。参ったな……」と、あたふた説明する彼女の背はすらりと高く、ドリル子と頭一つは違った。それに余計な脂肪をそぎ落とした細い腰つきと、そのシャープな顔立ち。天啓がくだったのこの時だ。この親友ならば、世界の誰よりも格好いい男子に化けられるに違いない!
「それに小澄、胸ないし」
「おまえ殺すぞ……」
イケメンな彼女はどうやら照れ屋さんでもあるらしく、褒めてあげているというのに、今にも噛みつきそうな野犬の目で睨みつけてきた。
「いや、どこが褒めてるのよ、この幼児体型」
「ごめん、まちがえたの」とドリル子は詫びる。「小澄って腕っぷしも強いし、男のふりをするにはぴったりだって、そう言いたかったんだ」
親友はこめかみに手をやって、肺の空気をゆるゆると吐きだした。
もうひと押し必要かと、ドリル子は彼女の制服の裾を掴んで詰め寄る。
「男の格好してさ、あのクズにびしぃと言ってやるの。こいつはオレの女だ、手をだしたらぎったぎったの、ばたんきゅーにしてやるぞって。小澄の凄味があれば、あいつもびびって縮こまっちゃうに決まってるわ。そうすれば、おかしな真似なんてできなくなるはずよ」
「キミはちょっと頭がおかしいんじゃなかろうか」
「絶対にこの作戦はいけるわ! 完璧よ! これでわたしの貞操は守られました!」
「勢いでごまかそうとしないで」
正攻法では届かないと見て、作戦を変えることとした。ドリル子は眉毛をハの字に曲げて、鼻をすすりあげてやる。
「それとも、あなたはいいの? わたし、ヤられちゃうかもしれないんだよ……? わたしが顔を腫らして学校にきたら、それはつまりそういうことなのよ。それもいいのっ?」
「やれやれ……。翔子、あんた一度医者に開頭してもらった方がいいわよ」
しかし、なんだかんだ言っても。
小澄は次の土曜日、見事なまでに化けてきてくれた。この親友は心もまた男前なのだ。というか、ロン毛の男なんて珍しくないのだから後ろで縛るだけでいいといったのに、彼女の腰まで届いていた艶やかな黒髪は、今やがっつりと刈りこまれ、見る影もなくワックスでつんつんに逆立っていた。なんだろう、この気合の入りようは。今日はどこの雑誌の表紙をかざるんだろう?
「あかん、惚れる」
「おい、抱きつくなキモい」
そうしてしまうのも無理のない出で立ちであった
小澄が履くジーンズは凶悪なほどに足の長さを強調していた。初夏にもかかわらず着込んだジャケットは二の腕から女の子らしさを隠し、強めに描かれた眉はむしろ中性的な怪しさを醸しだしている。なるほど、これが現代のオスカル様か。
「ねぇ、愛してるって囁いてみて……?」
「愛してるよ、翔子」
「きゃー! どうにでもしてー!」
小澄は腰に手をあて、かぶりを振る。
でも、ドリル子の台詞は半ば本気であった。友のために髪を切ってまで馳せ参じる女の子など、他にいるだろうか。あの太陽を光を浴びると花のように輝いた小澄の黒髪は、自分のために失われたのだ。それを思えば、まず申し訳なさが先に立ってしまい、こうしてテンションの高さでごまかすしかなかった。
「まぁ、そんな顔するなよ。髪を伸ばしてたのは、ただの不精だったんだから。空手やってると動く度にバサバサするし、すぐに汗でべとべとになるし、いいことなんてなかったのよね」
「でも、これでまたラブレターが増えちゃう……」
「あれ、どういうつもりで書いて寄越すのかしらね……」と溜息をついてから彼女は言う。「ともあれ、それもないよ。あんたのお兄さんとも同じ学校なんだから、この髪型で制服着てたら一発でバレちゃうでしょ。週明けからはカツラをかぶることにするよ」
そこまで考えてのこととは、重ね重ねこの親友には頭がさがった。
「でも、せめてカツラじゃなくてウィッグって言って」
「うぃーっぐ」
「いえーい、うぃぃぃっぐ!」
という感じに、ちょっと頭のおかしい女子高生のように二人できゃーきゃー叫びながら、ドリル子は義兄が住む並木の家までやってきたのだった。
門の前で、今更かもしれないけどと小澄が最後の念を押した。
「本当に大丈夫なのかね。こんな真似をして、もし正体がバレたら、あたし、明日から学校に行けないよ……」
「大丈夫! 今の小澄はどこからどう見ても王子様だよ! これで声を低めに『オレの女に手をだすな』とか言ってくれたら、あのクズオもズボンのチャックを閉めて、すごすごとひっこむに違いないわ」
「オレの女に手をだすな……」
「きゃー、もうどうにでもしてー!」
門をくぐり、芝生の上の飛び石を歩くと、やがて玄関へとたどり着く。
今は自分も過ごす場所とはいえ、何度見ても豪邸という言葉が浮かんでしまう。庶民の暮らしを満喫していたドリル子には、この札束で建てられた屋敷がいつになっても〝我が家〟だとは感じられなかった。こんなところでは、小澄と喋るのと同じようには振る舞えず、借りてきた猫になってしまうのも無理がないだろう。そして、このままではいずれ義兄の毒牙にかかってしまっていたに違いない。
だが、今日のドリル子は一味違う。隣には心強い親友がいて、愛と勇気と希望があふれんばかりに湧きでていた。これなら貞操だって大丈夫だ!
ドアを開けると、そこに義兄がいた。
なぜか三角巾を頭にかぶり、掃除機など手にしていた。普段は野獣を彷彿とさせる男だが、こうして見るとひどくマヌケに映った。そのマヌケ男が、目を丸くしてこちらを凝視している。
「ええと、おかえり。そちらは……」
そりゃまぁ、おどろくのも当然だろう。これまで友達の一人も家に連れてこなかった義妹が、いきなり男と帰ってきたのだから。
ドリル子は誇らしげに薄い胸をそらして答えてやった。
「カレシよ。空手の黒帯で超強いんだから」
「そ、そうか」
「今からカレと部屋でにゃんにゃんするから、小一時間ほどでかけてきてくれないかしら」
「え、あ、うん……」
義兄はしばらく理解が追いつかないといった顔であったが、やがて義妹の隣で腕を組むイケメンに震えがきたのだろう、厚底の靴を履いてすごすごと外へ退散していった。
意外とちょろいもんだった。あの淫猥な魔の手から、とうとう逃れられたのだ。あまりの喜びに、喉が勝利の美酒を欲していた。
ドリル子はそのまま台所にむかい、冷蔵庫からとっておきのジンジャーエールをだしてくる。二階の部屋にあがると、小澄とグラスを打ち鳴らして乾杯した。それからしばらく勝利の雄叫びをあげていると、ジャケットを脱いだ彼女がふと呟いた。
「あのさぁ、今気がついたんだけど」
「うん?」
「カレシがいるんだって見せつけたら、お兄さんは不埒なことを考えないって翔子は考えたんだよね」
「そうだけど」
「確かにこれでカレシのふりは成功したのかもしれない。……だけど、それと妹を手込めしようっていう話は別じゃね?」
もし仮に並木葛生が、彼氏がいようがいまいが関係なく襲ってしまう畑の人だったなら。
「……」
額に一筋の汗が流れ落ちた。
「い、いいい、いやいや大丈夫でしょ。そんなことしたら、あんたの鉄拳がマジでやばいし」
「でも、夜はこの家に二人きりなわけで」
「男ってみんな処女じゃない駄目なんでしょ? ねぇ、違うの?!」
と、わーわーきゃーきゃー騒いでいるうちに、いつのまにか約束の小一時間が過ぎていた。
階下で玄関の戸が開く音に、びくりと肩を震わせる。義兄が帰ってきたのだ。不意に現実にひき戻されて身を固くした。もしも小澄の言うとおり、クズオが鬼畜で性欲の塊だったらどうしよう……?
冷静になって考えてみれば、むしろその可能性の方が高いのだ。だって、こんな可愛い女の子と二人きりで暮らして、なにもせずに放っておくはずがない。そういう展開は以前、小澄に貸してもらった薄い本で腐るほど読んでいた。
階段の上からおそるおそる覗けば、義兄は両手に買い物袋をさげていた。
「よかった。まだ帰ってなかったんだな。今晩はシチューをつくるから、彼にも食べていってもらってくれ」
後ろからひょっこり顔をだした小澄が、耳元でドリル子だけに聞こえるよう、こう囁いた。
「……なんだ。やっぱりお兄さん、いい人じゃない」