市松小澄、これはもうセックスだ!
その昔、ロナルド・アーバスナット・ノックスというカトリックの大司教様が、どういうわけかミステリに興味をお持ちになられて、色々書いてしまわれた挙げ句、「ミステリはこうでないといけないもんね!」と十のルールを定められた。かの有名なノックスの十戒である。
そのルール一つにこんなものがある。
『事件に中国人を登場させてはならない』
なぜ、中国人だけが?
その理由は今でもテレビなどで窺い知ることができる。
オリンピック、機械体操と怖れられたのはどこの国か? または卓球、日本の国民的アイドルですら太刀打ちできない国とは? あるいは雑伎団、あなただって、たった一人で十数人を持ちあげながら、自転車でくるくるまわる超人の姿を見た覚えがあるだろう?
中国人は筋肉によって、すべてを可能とする。
どれほど実行不可能と思われたトリックも、中国人にかかれば筋肉で難なくこなされてしまうのである。
それが理由だ。ノックスが怖れたのは実は中国人ではなく、そう、筋肉だったのだ!
小澄が血の小便を流し、足りぬ才能を知恵で補い、長い年月をかけて継承した魔技も、並木葛生の筋肉によってあっさりと破られてしまった。
必ず刺さるナイフも、肉の厚みでとめられてしまっては――。
「どうした、つづけろ」
「くっ……」
正面に仁王立つ並木葛生にむけて、大きく手をかかげた。後屈立ち。体重をやや後ろに預けて守りを固める、小澄にとっては屈辱の態勢だった。
「こないのなら、こちらから行かせてもらう」
ぬらり、と葛生が動いた。
どうということのない右のストレート。とまっているのと変わりのないスピード。数分前の小澄であれば喜んでカウンターをあわせただろう。だが、ヴァニシングデスが通じないとわかった今、この槌のごとき重い一撃をとめる術はあるのか?
脇を締め、左手を円の形に振って、固い底の部分で受けた。
まわし受け。空手における高等技であるが。
「ぐ、ぅ」
即座に右で反撃するはずのところを、受けただけでぐらつかされた。
それでも放った突きは不完全な体勢ゆえに軌道がずれ、フックのなり損ないとなって敵の頭上を通過する。先にあてさえすれば、という理論をそのままやりかえされたわけだ。
――いや、頭上?
葛生の体が大きく沈んでいた。いつのまにかひき戻されているやつの右の拳が、ぐるりと捻られる。やがて鳩尾へ来たる一撃を想像して、小澄は絶叫した。
「あ、ああ、ああああああ!」
小澄は願う。コンマ数秒の時の中で、己の体に願う。
耐えろ! 耐えろよ、あたしの腹筋! 筋肉を信じてるから!
直撃。
瞬間、肺を吐きだしそうになる。びくびくと胃がひき攣れる。肉体が発狂しかけている。
だが、耐えたのだ。こちらも攻撃を振り抜いたのが幸いした。重心を前に移していたために最も重いダメージを受ける結果となったが、倒れず踏みとどまることもできた。この距離ならばあたる。今度こそぶち抜ける。もはや外しようもなく!
ごしゃり、と鼻を潰す感触が伝わってきた。
相手の目は見開いたままだった。
こいつも訓練を重ねてきている。その事実に戦慄と歓喜を覚えながらも、もうひとつ拳を重ねた。ごしゃり。今度もあてたのはお互い様。もはやどこを打たれたのかもわからないが、さらにもう一度――。
空振りだった。
葛生は低く沈んだあの態勢から、大きく跳び退っていた。
どんだけ鍛えてるんだ、あんたの下半身は。尊敬すら混じりはじめた想いを胸に追撃にかかる。怯える左の足を勇気によって前にだし、逆突きの正拳を発射する。
だが、小澄は忘れていた。
離された間合いから突きをあてるためには、一歩踏みこむ必要がある。その一瞬が、到達した格闘家の前では永遠ほどに伸びることを、冷静とともに彼方に置き去りにしてきてしまった。
踏みこんだ足を払われた。地を踏みしめるはずの体重が行方を失って、体が前に揺れる。新部長に対し他流試合と言っていたが、こいつは柔の使い手だったのか。どうりで打撃の理論をないがしろにするはずだ。隙をつくりさえすれば、どれだけ鈍重な攻撃でもあてられるというわけか。
倒れかかるところを、すくいあげるように殴られた。今度はあたった箇所がはっきりとわかる。額だ。脳震盪を狙ってきた。ならば顎を砕けば一瞬で終わるというのに、どこまでも紳士な野郎だ。膝ががくがくと震える。気持ちが床に寝たいと一斉に叫びはじめる。でも、これで楽になれるほど甘い鍛錬をしてきたつもりはない!
左の裏拳で相手の顔を叩いた。わずかな怯みをついて、浮きかけた上半身を立てなおし、体重を後ろに預ける。前足はわずかに畳につく程度に置くこの形は、猫足立ちという。
こいよ、並木葛生。あんたの拳よりも早く、最速最強の蹴りをぶちあててやるッ。
もはや後退はなかった。互いの手と手が交差する相応間合いに置いて、二人は必殺の一撃を狙いあっていた。
しかし、その時をとめて。
「二人とも、もうやめて!」
背後から親友の声が響いた。
泣いているみたいだ、と感じたところで遅れて軽い体重がふわりと背中にのしかかる。ドリルのように巻いた栗色の髪が、己の黒のウィッグと溶けあい、かすかなシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
「小澄ももういいでしょう! こんなの女の子がやることじゃないよ!」
「邪魔をしないで」
絡みつく少女をはがそうとする。いくら彼女と言えど、ここにきて水を差すなど許されたものではない。なぁ、そうだろう? 同意を求めて葛生を見やると、彼も扱いに困った顔をしていた。
そこへ彼女の唇が、耳たぶに触れた。
「……直線だ」
打って変わった低い声に「え」と驚きを漏らしてしまった。そんな小澄を咎める調子で、声を押さえてドリル子はつづけた。
「兄貴の攻撃は直線に絞られてきている。まわし蹴りを撃たないのは、まだ小澄のヴァニッシングデスを恐れているからね」
そう告げて離れていった。振りかえると、彼女は道場の端に腰をおろし、小澄にだけわかるように短くウィンクをする。
頼もしい友じゃないか。自分とは見た目も生き方も異なる、でも不思議と出会った時から気があった彼女に、心の中でありがとうと呟いた。
視線を前に戻した。もちろん、この頑強な男と出会えた運命にも感謝しなければならない。
「再開しよう」
言って、左手を前にだした。
「ああ」
そこに葛生の左腕が重ねられる。
再び相応間合い。先まで浮かんでいた彼の戸惑いも、布に染みこむがごとく消えていた。
「腹を狙う」
声が聞こえた瞬間、ほとんど見えないスピードで前蹴りが放たれた。
前蹴り? なるほど、距離をおきたいのか。
そうはさせるかよ、と突き刺さる寸前に左の肘で払った。脳裏をよぎったのは親友の助言。相手が直線を狙うのならば、応手は円だ。そのままダンスのターンを切るように、うしろ足の踵を中心に体をひねる。すると二人して同じ方をむく流れとなる。葛生の蹴りまだ地に戻されたばかり、だがこちらの予備動作はすでに完了している。
回転の勢いをとめず、がら空きの側頭部を右肘で狙った。
だが、なんてこと。いつのまにか太い腕ががっしりと頭に添えられている。岩を叩いたがごとき感触に、肘から先に痺れが走る。
ならばこいつはどうだ? そのまま道着の肩口を掴み、左膝を背骨にぶちあてた。さすがに今度は防げず、海老ぞりになる葛生。小澄の口元には悪魔の微笑み。とうとうガードが解かれた延髄に、即死の肘打ちを叩きつけようと。
刹那、股間に激痛。
「――ッ」
空手でいうところの中段うしろ蹴りだった。
両足のつけ根を押しあげるように撃ち抜かれた一撃は、小澄を宙に浮かし、ぶざまに畳へ転がした。
「おまえが男だったら……今ので、終わって……いたんだが……」
片膝を突き、顔を歪めて、葛生は首を抑えていた。
よかった、あたっていたんだ。積みあげてきた鍛錬は、己を裏切らなかった。
「……ひどい顔、ね」
「おまえが、やったんだろうに」
そうですけども、と応える。
端正であった彼の顔は見る影もなく腫れあがっていた。目元が青黒いのは、猫足立ちからの裏拳のため。鼻血がまだとまらないのは、正拳二連突きの成果か。
こちらも三日はまともに飯が食えそうにない。息を吸う度に、肺がひき攣れて痛む。もしかしたら、肋骨かどこかが折れているのかもしれない。
それでも。
楽しいな、と思う。
こんなに心の弾む時間を過ごしたのは生まれてはじめてだ。
いいや、そこまで言うと、あの冬火さんに悪いか。彼女のドラムにあわせて弾くベースも悪くなかった。練習が実を結ぶ時はいつだって素敵だ。でも、数年弦を触っただけで楽しめるようになった音楽と違い、自分には格闘の才が欠けていた。ゆえに十三年もかけて磨いた空手で、あなたを渡りあえているのが格別に嬉しいんだ。
次はなにをやろうか? ねぇ、どんな技を喰らいたい? やっぱり筋肉で守れないところがいいだろうね。ヴァニッシングデスでまた顎を狙おうか。でも、その首の鍛え様じゃあ、脳は揺れてくれないかな。なら全力でいこう。これまで必死についてきてくれた体を精一杯動かして、比べれば頼りない筋肉を加速に変えて、あなたを破壊する一撃を――。
「ねぇ、並木先輩。なにか賭けませんか?」
「……賭け?」
「ええ。この勝負、もしも先輩が勝ったら、あたしに好きなことを命令してくれていいです」
「それは楽しそうだな。じゃあ、君が勝ったら、おれを煮るなり焼くなり好きにしてくれよ」
「言いましたね?」
にこり、と普通に笑ってみせた。
「じゃあ、あたしが勝ったらつきあってください」
「……それは、楽しそうだな」
「でしょう?」
構えをとった。
胸元で一度腕を交差してから、空気を切って振りおろす。右拳を腰にため、左拳を膝の上で静止させた。空手において最も基本的な形、前屈立ちだ。これであなたに最後の勝負を挑もう。
対して立ちあがった彼は、重心を高くおいたまま、半身になって急所を隠した。両腕を顔の前に突きだし、やや背中を丸める。はたして、そこから生みだされるのはいかなる魔技か。
ゴングなんて必要ない。互いにそれと知ったタイミングで足を踏みだした。
親指に力を溜めて、一気に懐まで飛びこんでいく。
だが、それよりも早く彼は踊るようなステップで――。