並木葛生、イケメンを殴る。
並木葛生は成金の一人息子として生まれ、十三の時に母と別れた。
湿度の高い夏の夜にふと目が覚めて階下に降りると、彼女は見知らぬイケメンとガンガン腰を打ちつけあっていた。父はその日も中国かインドか南米あたりに出張で、その留守を狙って浮気をしてやろうと考えたらしい。普段はひどく物静かで、生まれてこの方、主張なんて単語は知らないと言わんばかりに振る舞う彼女が、実はこんな大胆な真似をする人間だとは夢にも思わなかった。葛生の姿に気づき慌ててズボンをあげようとするイケメンの顔をひっつかんでガンガン殴ると、彼女は背中にしがみついてこう叫んだ。「私にも愛してくれる人が必要だったのよ!」
父はさすが成金だった。帰ってくるなり弁護士を使って彼女を追いたて、籍を抜き、いずれ己が死んでも財産は欠片も渡らぬよう法的に落とし前をつけた。イケメンがどうなったかは知らない。彼女は家をでていく前に葛生の頬に触れ、「ごめんね……」と一言だけ呟いた。葛生はまだ頭のめぐりがよくない子どもだったが、それでも彼女に息子を連れていく意志がないことは理解できた。ああ、この人は自分の人生には今後一切関係がないのだなと思うと、痛めた拳がずきりと疼いた。
一方で、父も実はちゃらんぽらんのあっぱらぱーだった。
息子が十六になるまでに三人の女を家に連れて帰り、そのうち一人に腹を刺されて生死の境をさまよった。白い顔をして病院のベッドに横たわる父の姿を見ながら葛生が考えたのは、たぶん中国かインドか南米あたりにも彼を刺したい女がいるのだろうなということだった。
家をでていった彼女は正しかったのかもしれない。ただ、自分は連れていってもらえなかったし、今目の前で寝ている男はたくさんのお金を持っている。このまま起きずとも、大学にいけるくらいの金は遺してくれそうだ。なら、こうなるしかなかったのだろう。そしてこれからも、人生はなるようにしかならない。
ある日、父は拍子抜けするほどあっけなく目を覚ます。そして、入院中に献身的に世話をしてくれたバツイチの看護婦を熱心に口説き、退院後も知恵と時間とお金をたっぷりと使って口説きつづけ、葛生が十七になるまでに見事に落とした。誕生日に「プレゼントがあるんだ」と紹介された時には、さすがの葛生も開いた口がふさがらなかった。父は仕事の上では非常に優秀な男と聞くが、少なくとも私生活においては学習という言葉を知らないようであった。
今度の彼女は職業柄か、穏和で優しく貞淑な雰囲気を持っていた。だけど、まだわからないぞと葛生は心に釘を刺した。彼女だって、いつ家にイケメンを連れこむかわかったものじゃない。いくぶんかの敵がい心と、いくぶんかの諦めを持って、挨拶にやってきた彼女を見つめていたところ、突然頬に触れられた。いきなりのことで驚き後じさろうとしたが、離してくれなかった。「あなたの家族になりたいと思う」と彼女は言った。ただ、それだけだったのに、どうしてだろう、触れられた手への嫌悪感はいつまにか薄れていた。
「もう一つ、プレゼントがあるぞ」
その時の父の表情はよく覚えている。
いたずら小僧がびっくり箱を渡す時の顔といえば、わかるだろうか。
「今日からもう一人、家族が増える」
こうして、葛生には血のつながらない妹ができた。
彼女は少々気の強そうな顔をしていた。いつも色々なことを考えているようだったが、普段はぎゅっと口を結んで必要最低限のことしか言葉にしなかった。一つしか年が違わないはずなのに、並んで歩くと周りからは五歳は低く見積もられた。髪の毛が耳の横でぐるぐるとロールしているので、おそらく学校では〝ドリル子〟と呼ばれているものと思われた。彼女は決して友達を家に連れてくることはなかったが、しかしある時、ためらいがちの小さな声でだが、彼氏はいるのだと教えてくれた。なるほど、と葛生は応えたように思う。
ちなみに新しい母は、その後、父と一緒にあっけなく死んだ。
車の事故だった。