学級日誌
※横読み推奨。
寒い冬。
今は使われていない教室のイスを並べて、体を横たえさせる。
外をちらりと見やると、葉の落ちた木が風に揺れていた。
ひんやりとしたイスがじわじわと体を冷やしてゆく。
そして、ついには体をぶるりと震わせた。
体を縮こまらせ、体を抱くようにして、両腕をさする。
「さみぃ…」
そんな小言をもらしながらもこんな場所にいるのは、現実逃避のため。
高校三年生の冬ともなると、受験戦争真っ盛り。
受験する大学の試験日が冬休み明けだからいいじゃないか、というのは先生に対する言い訳である。
三年生は誰もかれもがピリピリと殺気立っていて、先生までもが勉強しろだの身だしなみはしっかりしろだのと口うるさい。
それが鬱陶しくて、いつも昼休みには旧校舎の使われていない教室で外の風の音に耳を傾けるのだ。
ぼんやりと天井を見上げて、時計へと視線をずらすと休憩が終わる10分前。
ふっと立ちあがって、黒板の前に立つ。
黒板の左端には、上から隙間があって、月と書かれ、また隙間があって日と書かれている。
月日を書き入れる場所だ。
そのもっと下のほうには、日直と書かれている。
短いチョークを手にとって自分の名前を書き入れる。
書き足した自分の汚い字を見て、黒板を見渡す。
何も書かれていない。
深いグリーンが広がるだけで見事に殺風景だ。
なんとなく、壊してやりたくなる。
【元気ー?】
不意に書いた言葉は、誰にでもない問いかけ。
自分への問いかけだろうかと考える。
「元気じゃねーなー」
ため息をついて、チョークをチョーク置きに放り投げた。
突然のチャイムの音にびくりと肩を震わせる。
「あ、やっべ遅刻」
言って、急ぐでもなく教室を後にした。
翌日の昼休み。
同じように旧校舎の使われていない教室に行くと、昨日書いた自分の問いかけに、返事があった。
《元気。》
一言だけ。
緑のチョークで角ばった、整った字。
ぶっきらぼうな答えに苦笑する。
それから、なんだかオモシロくなって返事をする。
【返事が来るとは思ってなかった】
そのまま、思っていたことを書く。
また返事は来るだろうか。
期待に胸を膨らませるなんて久しぶりだ。
翌日に案の定、返事が来た。
緑のチョークに角ばった、整った字。
《俺も。》
それにも返事をする。
【何部?】
汚い字だ。
そういえば、日直の自分の名前の隣に違う名前が書き足されていた。
この返事をしてくれる相手の名前だろうか。
それ以来、黒板でのやり取りは毎日続いた。
《帰宅。》
【へぇー俺もだ つか受験がーってカンジ】
《3年?》
【まーね 遊び呆けてっけど】
《ダメだろ。》
【だからヤバいんだってー】
《二年には関係ない。》
【来年苦しめ!!】
《俺は頭良い。》
【そんなカンジするわ】
《勉強してないのが悪い。》
【うっさいチビ!】
《180ある。》
【あ 怒ったろ】
先輩にも敬語を使わない、名前も知らない後輩。
ムキになったような返事に嬉しくなる。
「怒ってねーとか言うんだろうなー」
会ったこともない相手の言動が想像つく。
不思議な気分だ。
《怒ってない。》
ほら。思った通り。
黒板だけのやり取りを続けて、二週間ほど。
一日置いて返事を見るのが楽しみになっている。
授業も上の空で、昼休みになれば足早に旧校舎に向かっている。
日曜日は学校が休みなのがじれったくなったりもする。
テスト期間中も返事はあったし、返事をした。
そういえば。
【そろそろ冬休みなー】
《アンタ受験だろ。》
【忘れてたのに言うなーつか1コ落ちた】
《こんなことしてっからだよ。》
【お前が返事するからだろー】
あの時、返事さえなければこんなには気にならなかった。
入試で落ちたのは単純に学校のレベルが自分には程遠かっただけだが。
それでも、この相手はマジメなのだ。
《じゃあもう書かないよ。》
【うそマジで?】
一日経っても返事はなかった。
二日、三日。
《おーい返事しろよ》
何も返ってこない。
急激に部屋が冷えた気がした。
外を見ると雪が降っている。
明日から、冬休みだ。
+++
冬休みが明けても返事はなかった。
チョーク置きを見つめる。
《チョーク そろそろなくなるだろ》
返事はない。
とうとう、教室に行くことすらなくなった。
試験の日がいくつもあって忙しかったせいもある。
教室に足を向けたのは、何日も経ってからだ。
やっぱり、返事はない。
《今日本命受けんの なんとか言えバカ》
もう何か書けるほどチョークは長くない。
明日、返事あるかな。
そう思いながら教室の中で吐き出した息は白かった。
次の日、返事はなかった。
もうきっと返事はないだろう。
そう思うと、すごく寂しくなる。
教室の寒さに感化されたのか、自分の体も冷たく思える。
「返事しろっつの、ばぁーか…」
やがて本命の大学から、合否通知が来た。
結果は合格だ。
勉強してないのが悪い、と後輩に言われるのがイヤで勉強した甲斐あったというわけだ。
おもむろに足を運ぶのは、旧校舎の教室。
久々に入る教室は妙に広く感じた。
黒板を見て目を見張った。
《やり切れ!》
今までにないくらい大きい字で、いつも句点で終わっていた返事に感嘆符がついた。
それだけで胸がいっぱいになる。
思わず、笑いがこぼれた。
【おせーよバカ 受かったわ】
もうすぐ、桜が咲く。
+++
2月の頭に大学が決まってしまうと、学校に来るのが申し訳なくなる。
他の生徒は、試験日までまだ猶予があったり、すでにいくつか落ちていて目が血走っていたりする。
そんな中、大学が決まったからと悠長に授業もロクに聞かずにいるヤツはさぞ目ざわりだろう。
自由登校になったのだからこなければいいのに。
そう、目が語っている。
そんな視線を無視して、旧校舎に足を向ける。
【どうよ】
あれ以来、またやり取りは続いている。
《何が。》
【大学生】
《チョーク足すなよアホ。》
【誰がアホだ 大学受かったっつの】
《まぐれだろ。》
【ブッ飛ばす!】
《ここ、四月から授業で使われるって。》
ブッ飛ばすという言葉があっさりと無視されている。
そんなことがどうでもいいくらい、目を瞬かせた。
今までのやり取りは、すべて残っている。
やり切れ、と叫んだような言葉だけは無造作に消されているが。
授業でこの教室が使われるようになるなら、すべて消さなければならない。
【マジ?】
《うん。》
【そか お前名前は?】
それは初めてする質問だ。
なんとなく、二人とも避けてきたような気がする。
聞けば、黒板だけの関係ではなくなる。
特に問題はないが、この関係が面白かったのだ。
答えてくれるかどうか、不安だった。
《井上。》
その名前には見覚えがあった。
【日直の?】
《そ。》
【俺、立花ー】
《アンタも日直か。》
ここまで聞いてしまうと、もう箍も何もない。
【クラスは】
《二組。》
【わーった待ってろ 明日】
《は?》
昼から登校して、机に座ってその返事だけ見届ける。
放課後になって、二年二組を訪れる。
待っていろと言ったのだから待っているだろうが、こちらがHRを待つことになるのは想定外だった。
担任の話が長引いているのか、まだ扉は開かない。
やがて、ガタガタと椅子の音が聞こえた。
HRが終わったようだ。
わらわらと生徒たちが狭い2枚の扉からあふれ出てくる。
その波が収まってから、教室に顔をのぞかせる。
近くにいた男子生徒を捕まえて尋ねる。
「井上って誰?」
「あの背高いヤツっすよ」
「さんきゅ」
軽く礼を言って、男子生徒が指差した先を見やる。
窓際の席でぼんやりと窓の外を見つめている。
「ほんとに180ありそ…」
なんだか無性に悔しくなる。
トントン、と軽やかな足取りで近づくと、窓の外を見つめていた目がこちらに向いた。
「井上?」
「…立花…先輩?」
「あ、ちゃんと先輩って言うのか、意外」
「礼儀くらい弁えてますよ」
「黒板では弁えてなんかいなかった」
「それは失礼」
低い、けれど耳になじむ声。
たしかに身長は高いけれど、体躯がいいわけではなく、ひょろっと長い印象。
切れ長の目に、筋の通った鼻。字に見合って端正な顔立ちだ。
井上の教室から、旧校舎の教室にやってくるまでの間、ちらりと盗み見て得た情報はそれだけ。
黒板から一番近い席に座ると、井上はその机に腰を預けた。
「思ったよかかっこいいのが腹立つんですけど」
「んなこと言われても困るんですけど」
「てやっ」
衝動に任せて、腕を振り上げる。
だが、難なくかわされてしまってオモシロくない。
拳を受け止められて、じっと見つめられる。
「なんで教室まで来たの。ずっと黒板だけかと思ってた」
「俺も思ってたよ」
「なら」
「この会話、全部消すんだろ」
どうして、と言いたそうな表情を見て、言葉を遮るように理由を先に述べた。
「そう思うと寂しくなった。だから会いたいなって」
「だから、どうして」
聞きたいのはそこじゃない、と言外に語る。
「会いたいと思ったのは、寂しくなったのはどうして」
「…お前。性格悪いって言われるだろ」
「まさか。優等生って思われてる」
「性格悪…」
がくっと項垂れる。
それから、ため息をついた。
「……えが」
「はい?」
「お前が好きなんだよバカかお前!」
「アンタ、バカって言いすぎ」
ぐいっと腕を引かれて、驚きに声を上げる頃には唇を塞がれていた。
「俺も会いたかったよ」
ふっと笑う彼を見て、黒板で話すだけよりはやっぱり会うほうがいいなと思うと、きゅうっと胸が締め付けられた。
+++
「やっぱココにいたか」
卒業式。
教室での担任の最後のHRが終わってから、クラスのあちこちで写真撮影が始まった。
それをかいくぐってやってきたのは、旧校舎の綺麗に掃除された教室。
机も何もかもが新しくなっている。
換気のために窓が開けられ、涼しい風が入ってくる。
その窓から身を乗り出して、井上は外を見ていた。
後ろから声をかけると、ゆっくりと振り返る。
「俺の生徒会長としての最後の仕事見てねーだろ」
「アンタの仕事ぶりなんか最初から知らないよ」
「そりゃねーだろ、優等生」
からかうように言って、ふと黒板に目をやる。
あの後、会話はすべて消した。
それから生徒会や教師が綺麗に掃除したため、黒板はほぼ新品のように見える。
今は日直に二人の名前も書かれていない。
その、黒板の隅。
小さく字が書かれていた。
《卒業おめでと。》
緑のチョークで角ばった、整った字。
思わず吹き出してしまう。
「口で言え、バカ」
ボリボリと、井上は面倒くさそうに頭をかく。
やがて、観念したようにため息をついた。
「卒業おめでと」
「さんきゅ」
二人で顔を見合わせて笑う。
暖かい風が吹いて、桜の花びらが教室に舞い込む。
その中で、二人の影が重なった。
読了ありがとうございました。
勢いで書いたのですが、友人の希望もあって地味ーな番外編もあります。
それは後日、ブログのほうにアップしたいと思いますので良ければ。
過去にサイトを作っていたときに、このお話は背景色を黒板っぽい緑色にして、二人の文字色を分けて…と凝っていたので、そちらも載せたいと思います。もったいないので(笑)
それでは、あとがきまでお付き合いありがとうございました。