第3話 バイト先の後輩
――浅海くんと初めて会った時は、単純に明るい男の子だなと思った。
「九条さんですね! 初めまして。浅海遊太です。今日からお世話になります。ご迷惑をお掛けすると思いますが、よろしくお願いします……!」
ぴしりと頭を下げていた様子を思い出す。
そういえば、あの頃はまだ私のことも苗字で呼んでいた。
わたし達が働いているカフェは小ぢんまりとしているし、従業員もかなり少ない。
それに加えて浅海くんはかなり頻繁にバイトのシフトをいれていた。シフトに入るタイミングは夕方以降だけど、いつ見てもいるんじゃないかというぐらいシフトに入っている。
当然、私とも一緒になることは多かった。
「ちょっと家族で色々あって、お金が欲しいんですよね」
ふとそう言った時の目。
彼の目はわずかに暗く沈んでいた。
けれどすぐにパッと首を振って笑顔に切り替わる。
「あ、すみません。気にしないでください! もうそんな気にしてないので」
私も家族とは《《色々》》ある方だ。
けれど浅海くんはもうある程度振り切っているようだ。未だにずっと引きずっている私とは違うらしい。
(いろいろ頑張ってる子なんだな)
そう思って、私もできる限りでサポートしていた。
なんて言いながら私がサポートされたりもしていたけど……。
でも年も近かったし、お互いある程度は喋るようになった。
そんなある日、私は彼がとある小説を読んでいるのを目撃した。
「浅海くん……それって」
「この本、知ってるんですか?」
当然知っているし、その小説に関しては誰よりも詳しい。
私の書いた本だ。『セレナーデ』というタイトル。
当時――私は作家として自信を失っている時期だった。
数ヵ月前になんとか出してもらえた新作は酷い評価で、編集さんにもすぐに次回作に目を向けようと言われた。
けれど段々と自分が擦り切れているのもわかっていた。頭に浮かぶ企画にも描く文章も、流行りの上辺を貼り付けただけの産物にしかならない。
新人賞に作品を送りつけた時はもっと……頭の中が澄んで冴えていた。家族に……そして姉に認められない私は、物語に没頭することが日常だった。頭の中ではキャラクターが自由に動いて、心の躍る展開が浮かび文章が閃いていた。
だけど今は心無い言葉の雨に降られてずぶ濡れになるだけの埋もれた作家だ。
考えれば考えるほど、また低い評価を受ける想像を浮かべて思考が止まる。
消えようとする私の作品なんて、もう読もうとする人はいない。
そう思っていたのに。
まさか目の前に作者がいるなんて思いもしない様子で、彼は柔らかい視線を降ろして表紙を撫でた。
「……俺、この作家が大好きなんですよね。これとか何回も読み返すくらい」
単純な感想だからこそ胸に刺さってしまった。
思わず嗚咽を漏らしそうになって口元を抑える。
……いたんだ。こんな近くに。
声が震えないように息を小さく吐いて、浅海くんに問いかける。
「……その作家、どんなところが好きなの?」
◇
彼は私の想像以上に、私のファンだったようだ。
頻繁に作品の肯定的な感想をくれる彼に……私はだんだんと会うのが楽しみになってきていた。
「九条さん、最近ちょっと元気ですね?」
「え? そうかな……?」
「はい。最初あったころはもう少し顔色が悪かった気がします」
まさか、君と会っていて精神的に助かってるからだとは言いづらい。
「最近楽しみなことがあって、それのおかげかな」
「そうなんですね」
浅海くんが頷く。そこで一つ思い出した。
「そうだ。私のこと呼ぶとき、いつも九条さんって呼ぶけど……よければ、名前で呼んでほしくて」
「名前で?」
「わ……私なんかの名前を呼ぶの嫌だったらいいんだけど……」
「え? いやいや! そんなことないですよ!」
慌てて手を振る浅海くん。それから名前を思い出すように上を見上げてから、なぞる。
「紗夜、さん?」
「……うん。それで、よろしくね」
ただ名前で呼ばれるだけでも、なんとなく嬉しくなる。
作品とは関係ないのに、どうしてかなとその時は思った。
◇
それからしばらくして、ついに私の正体がバレてしまった。
悪いのは私が新作の構想に使っていたメモ帳を落としたからだ。
その後に姉が来て誤魔化す時間すらもらえなかった。
姉や家族は、私が小説を書いていることを気に入っていない。
最初、人気であるうちはよかったけど、人気が落ちればすぐやめろと言われていた。
だから私は大学進学と同時に家を出た。
向こうもわざわざ追ってはこなかった。きっと呆れて、どうせしばらくしたら帰ると思っていたのだろう。
けれど、そうやって甘く見ていたツケがここに来てしまった。
「そうやってあなたはずっと逃げてばかりで」
「……っ」
「家族の恥を晒さないでって、一体何度言ったらわかるの?」
「……そ、そんなつもりは」
「もう、いい。……今日連れて帰ってから話は――」
そのせいで、浅海くんにも迷惑を掛けてしまった。けれど。
「……何?」
「店員に手を出すのはおやめください」
「……あなたは?」
「ただの店員です」
浅海くんは姉から私を庇ってくれた。
でも、無理だと思った。姉はそんなことでは諦めない。大抵の人には引かずに自我を通すタイプだ。それに――あの目が怖い。あの冷たい目で見られると、体が竦む。私はずっと姉に逆らえなかった。だから家を出たようなものなのだ。それなのに。
「――こちらも本日は閉店だと申し上げましたが?」
そんな姉に対して、浅海くんは全く引かずに対応していた。
どうしてだろうと思った。
幾つかの疑問がまとめて浮かんだ。君はどうして姉に一歩も引かずに対応できるのだろう。どうしてそんな風に堂々と立っていられるんだろう。どうして私を助けてくれるんだろう。ごめんね。本当なら君は関係ないのに。
その後に去来したのは謝罪の感情だった。
君を巻き込んでしまった。
それが一番申し訳なかった。
「……ねえ、浅海くん。ずっと黙っててごめんね」
姉が去ってから胸の内が零れる。
私なんかが小説を書いていたのが悪いのだ。
そのせいでこんなことに巻き込んでしまった。
きっとがっかりしてるだろう。
私なんかが君の好きな作家であっていいわけない。
そう思って諦めていたけれど、君は。
「……なんで、俺ががっかりするんですか?」
「え?」
なんだか複雑そうな顔で頭を掻いて。
「嬉しい、ですよ」
だんだん、口角が緩んできて。
「俺……今までは別に瀬名玲衣に会いたいと思ってたことないんですけど」
恥ずかしがるような笑みを浮かべて、言った。
「今日、初めてこうやって会ってみたら、めちゃくちゃ嬉しいです」
「――っ!」
思わず息を呑んでしまった。
いいの? 私が、そんな笑顔を向けてもらうなんて。私はただの頼りないダメな先輩だ。ずっと隠していたのはこっちが悪いのに。それで喜んでもいいの? 君はいつも、そうやって欲しい台詞ばかりを選んでくれる。
「……ミスして後輩にフォローしてもらってるようなダメな先輩なのに?」
浅海くんが吹き出すように笑った。
私の疑問なんて、何も気にしていないように。
「そう思うなら、お詫びにサインください」
「そ……それがお詫びになるの?」
「なりますよ」
彼は気軽な調子で言う。真っすぐ見つめられて思わず目線を逸らしてしまった。
「……ほんとかなぁ」
本当だ、と頷いてくれるかなと探り探りで尋ねている。
「もちろん本当ですよ」
そんなずるい私にも浅海くんはストレートに頷いてくれた。そうしてほしいと思っていた通り本当にそうしてくれて、さっきまで気分は沈んでいたのに、思わず笑みがこぼれてしまった。
「浅海くん……今日この後って時間ある?」
「はい、もちろんあります」
手を伸ばす。ご飯を誘おうと思う。異性を誘うのは初めてのことだ。別に、やましいことをしようというわけじゃない。言い訳は色々ある。今日のお詫びとか。説明をしないといけないとか。
でもそういうのとは別に、もう少し傍にいたいなと思ってもいた。
「じゃあ、どこかご飯でも食べに行かない……?」
そんな私の探るような台詞にも、彼はためらう様子もなく頷いてくれた。




