第2話 姉との遭遇
突然お店に現れた女性が店内を見渡しながら歩いてくる。
紗夜さんが慌てて立ち上がろうとして、よろけてテーブルを支えに倒れ込む。
女性は気に食わなさそうに鼻を鳴らして紗夜さんを見下ろした。
「こんなところで働いてたのね……私に何も言わないで……」
「……な……なんで姉さんがここに?」
「あなたが逃げるから会いに来たの」
妹。そして、姉。
そうか。彼女は紗夜さんのお姉さんらしい。
言われてみれば顔立ちはよく似ている。けれど、髪型は紗夜さんと違ってセミロングだし、眼鏡をかけている。そして何より雰囲気が全然違う。紗夜さんが自信なさげに背中を丸めているのに対して、相手の人はぴんと背筋を張って存在感がある。
「――紗夜、まだ小説書いてるの?」
「っ!」
紗夜さんが息を呑む。
「早くやめて家に帰れってお父さんも言ってたよね」
「でも私は……っ!」
「……あなたの小説。読んだわ」
女性がバッグから取り出した文庫本。
その瞬間に、俺の中でも疑問が確信に変わった。
(そうか。やっぱり――紗夜さんが瀬名玲衣なのか)
取り出したのは瀬名玲衣の小説だった。
一年前に出た、あまり評判の良くない最新作。
思わぬ事実に動揺していると、お姉さんが冷めた表情のままで言った。
「正直、面白くないと思った」
紗夜さんがぎゅっと胸を抑える。
「これを書くぐらいなら戻ってきた方がいいと私は思う。あなたもこれが世に出して喜ばれるとは思ってないんでしょう?」
「でも――っ」
「でも何? 反論があるならすぐに出して」
紗夜さんが体を縮める。女性の声が低くなって、目がすうっと細められた。
「……そういうの止めてよ。こっちが悪いみたいじゃん」
「ご、ごめんなさ……」
「そうやってあなたはずっと逃げてばかりで」
「……っ」
「家族の恥を晒さないでって、一体何度言ったらわかるの?」
「……そ、そんなつもりは」
「もう、いい。……今日連れて帰ってから話は――」
溜息を吐いて彼女が紗夜さんへ足を踏み出す。
その瞬間、俺は庇うように手を伸ばして二人の間に割り込んだ。
「……何?」
「店員に手を出すのはおやめください」
「……あなたは?」
「ただの店員です」
探るような視線を、真っすぐ見返して受け止める。
ただの先輩後輩の関係で、口を挟むべきじゃないのかもしれない。
一年程度の付き合いで踏み込むべき問題じゃないのかもしれない。
でも見過ごせない。
お世話になっている先輩が俺の大好きな作家だった。
その動揺も収まらない間にその人の作品を面白くないと言われて。
別に感想なんて誰がどう抱こうが自由だけど。
正直……こっちはあまり面白くない。
お姉さんは急に出てきた俺に軽く目を瞠ってから、また鋭い視線を向けてくる。
「……そう。でも少しだけ家族の話があるからどいてもらってもいい? この子、私が会おうとするとずっと逃げるの」
「その前に当店はもう閉店しておりますが」
「どいて、って言ったけど?」
また視線が俺を射抜く。
でも目を逸らさない。
それぐらいの視線を向けられても、なんとも思わない。
昔――もっとずっと冷たい目を向けられたことがあるから。
「――こちらも本日は閉店だと申し上げましたが?」
こっちがまったく動じない事に狼狽えたのか、お姉さんはわずかに表情を崩した。
その空隙に毅然とした態度を保って扉を手で指し示す。
「たいへん申し訳ありませんが、別の機会にお越しいただけますか」
「…………くっ」
お姉さんが口を引き結んでから、小さく息を吐いた。
「はぁ……そうね。急に来たのは悪かったわ。もう言いたいことは言ったから帰ります。……もうここにも来ないわ。あなた方には迷惑でしょうから」
彼女は小声で呟くと、俺の後ろにいる紗夜さんに視線を移した。
「ねえ、紗夜」
「…………」
「いい加減、家に帰ってきなさい」
「…………」
「しばらくしたら連絡するわ。逃げてばかりいないでメッセージぐらいは見なさい」
不愛想な言葉を残して、お姉さんが去っていく。
カラカラと寒々しくベルが鳴り、彼女の姿が見えなくなってから――紗夜さんは顔を青くしてへなへなと床に座り込んだ。
慌ててて駆け寄って肩を支える。
「紗夜さん、大丈夫ですか!?」
「……だ、大丈夫じゃ、ないけど」
急いで駆け寄ると、ふふっとぎこちなく笑う。
「でも浅海くんがいてくれたから、だいぶ平気だったなぁ」
「……いや、平気そうには見えない顔なんですけど……」
「ふふふ……だよね。姉さんと会うと、いつもこんな感じ」
紗夜さんが顔を寄せて囁いてくる。
「……ねえ、浅海くん。ずっと黙っててごめんね」
驚いて目を瞠った。
今は自分の事を考えるべき時じゃないか。
お姉さんに詰められて顔色を悪くしてたじゃないか。
なんで自分が辛いのに先に俺のことを考えてるんだ。
「紗夜さんが、瀬名玲衣だったんですね」
「……うん。どうしても言い出せなかったの。言ったら、浅海くんをがっかりさせるんじゃないかって思ったから……」
紗夜さんが気まずそうに俯いた。
まるで怒られるのを待つ子供みたいな表情だった。
たしかに、紗夜さんならがっかりされると思うかもしれない。
けど、もちろんそんなわけはない。
「……なんで、俺ががっかりするんですか?」
「え?」
目を丸くする紗夜さんに呆れたように笑って見せる。
いつもみたいに、うまく笑えているのだろうか。
正直俺もまだ動揺はしてるのだ。
「嬉しい、ですよ」
胸の内を探って、ちゃんと言葉にする。
嬉しい。そうだ。これが今思っている感情に一番近い。
「俺……今までは別に瀬名玲衣に会いたいと思ってたことないんですけど」
今までは別に作者と会いたいなんて思ってなかった。
作品自体は好きだったとしても、作者と会ってしまえば澄んでいた作品の世界にノイズが入るような気さえしていた。
でも今日会ってみると、思っていたのとは違う感情が溢れている。
紗夜さんが瀬名玲衣だとわかった瞬間、心臓が跳ねた。
こんな傍にいる人が俺の大好きな物語を紡ぐ人だと知って、納得感と共に気持ちが強く高揚した。
今だってどうしても照れて、変な笑みが浮かんでしまう。
「今日、初めてこうやって会ってみたら、めちゃくちゃ嬉しいです」
「――っ!」
紗夜さんがはっと息を呑んで、うろうろと目を泳がせた。顔は赤くて、口元はもにょもにょとしている。いつもと似てるようだけど、どこか違う表情。
それから少しして、窺うような目で尋ねてくる。
「……本当? ミスして後輩にフォローしてもらってるようなダメな先輩なのに?」
思わず吹き出してしまう。
ああ、なんだ。やっぱりいつもの紗夜さんだ。
よかった。さっきまで悪かった顔色も戻ってきている。
「紗夜さんがそう思うなら、お詫びにサインをくれたらいいですよ」
「そ……それがお詫びになるの?」
「なります」
お詫びであり、ご褒美でもある。
照れ半分、気まずさ半分、みたいな顔で目を逸らされた。
「……ほんとかなぁ」
「もちろん本当ですよ」
「浅海くんはそればっかりじゃん……」
紗夜さんが小さく息を吐いて、立ち上がる。
呆れたような笑顔だけど、さっきよりはずいぶん自然な笑顔だった。
「浅海くん……今日この後って時間ある?」
「はい、もちろんあります」
紗夜さんのお誘いを断る理由なんてどこにもない。
すぐに頷くと紗夜さんが微笑んで手を差し伸べてきた。
「じゃあ、どこかご飯でも食べに行かない……?」




