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第九話 白梟の観閲——砂上の呼吸

弁明まで残り二十二日。フランチェスカは導線を整え、観閲に臨む。軍務局参事官“白梟”の苛烈な試験に対し、アーサーは兵を束ね、フランチェスカは外周から補正を重ねて隊を崩さず守る。試練の最中、彼女は再び“式ノイズ”を感知し記録。視察後、白梟は「形ではなく重さを増せ」と告げ去り、夫婦は「形のために命を捨てない」と静かに誓い直す。

 弁明まで、残り二十二日。

 夜明け前の空は薄い灰で、石の目地には冷えた露がたまっていた。私は外套の端を結び直し、訓練場の外周を一周する。白砂に薄く描いた半円は夜露でわずかに滲み、歩調の縫い目がところどころ甘い。指先で砂を撫で、線の端をひと呼吸ぶんだけ細くする。呼吸 0.46 → 0.48。固定はしない。兵の体で覚えてほしい。


 鍛冶場の煙突から最初の火が立ちのぼり、アイザックの鞴の音がまだ眠い空気を細く刺した。市場の屋根布には水滴が点々と残り、教室の黒板には昨日の“ア”の筆先がうっすら残っている。見せる順序は整えた――市場、鍛冶、学校、最後に訓練。だが、崩しにくる目だと分かっている。崩されても呼吸が乱れないよう、外周の色札を一本ずつ指で確かめた。白は見学、黄は補給、赤は立入禁止。色の意味は子どもの目にも刺さる単純さでいい。


 見張り台の角笛が、二度、短く鳴った。城門前に紺の馬車列が滑り込み、白い羽根飾りの徽章が鈍く光る。車輪は無駄にきらめかず、靴音は驚くほど揃っている。歩調の揺れ 0.01。――均された目だ。


「王城軍務局参事官、セヴラン・リース。通称“白梟”」


 黒い外套の男は自ら名を告げた。灰色の瞳は笑わず、蔑まず、ただ重さを量る。背後には文官二、書記官二、護衛四。革と紙で刃の匂いを包む、冷たい布陣。アーサーが一歩前へ出る。


「ヴァン・グレイ辺境伯、アーサー。歓迎する。順路は――」

「こちらで定める」


 白梟は視線だけで訓練場を示した。予定を崩して最も厳しい場から始める、という意味だ。私は一礼し、言葉を選ぶ。


「承知しました。ただ、兵の演習は補給と整備が呼吸です。歩く前に“息を吸う場所”を三つだけ――搬入口、工具台、記録棚。半刻ずつ、短く。兵は待たせても“冷めない”温度にしてあります」


 沈黙、三拍。白梟は頷きもせず言った。


「半刻、三ヶ所。遅れは許さぬ」


(通った)胸の内で細い糸がわずかに震え、私は外套の裾を整えた。



 市場の屋根の下、アデリナが帳面を広げて待っていた。色札の板、借出しの印、戻しの印。白は人の流れ、黄は荷、赤は遮断。印は大げさにしない。子でも兵でも一目で分かるほうが強い。


「補給の導線は裏手から。見学の人流と交わりません」

 私は柱の影を辿らせ、幕の端を指でひとつ摘む。「緊急時にはこれを落とせば、人が自然に外周へ流れます」


 白梟は何も言わない。書記官の羽根ペンが乾いた音を立て、アデリナと目が合う。彼女は顎で帳面の列を示し、昨日から回し始めた貸出表を開いた。白梟の指先が紙の角を二度弾く。紙質と筆圧を計る癖――その細さが、きっと彼の刃だ。


 露の匂いに混じって、微かな生臭さ。魚籠の銀が光り、売り手の男が気まずそうに目を泳がせる。鮮度 0.62(減衰中)。私は桶を屋根の奥へ半歩引き、日陰を広げる。上昇は緩やかでいい。固定はしない。氷室は明日、板に字を書いて立てよう――“ひ・む・ろ”。(忘れるな)



 鍛冶場。アイザックは火床から目を離さず、新しい鋲の頭を指で示した。表革の裏に小さく食い込む返し。白梟の護衛の一人が無遠慮に盾革を引く。返しは想定通り噛み、保持 0.63 → 0.71。アイザックは目だけで笑い、槌を一度深く落とした。火床の息が安定し、壁に落ちる影の輪郭が鋭くなる。


「道具の角を一つ丸めると、兵の癖が一つ減ります」

 私が言うと、白梟はほんのわずか首を傾けた。承認でも賞賛でもない、「把握」の印。彼の眼鏡に火の色が一瞬だけ宿り、すぐ消えた。



 学校。黒板の前でミナとテオが写し書きの棚を開いた。入退坑台帳の薄紙の写し、負傷報告の写し、昨日の導線の写し。紙は違っても書式は同じ。筋は誰の目にも一本になる。


「兵も通います。読み手は自分たちで増やすのが早いから」


 白梟は一枚の紙の角を折り、書記官に戻した。軽い鞘鳴りのような音が――耳の奥で、金属が擦れる気配とぴたり重なる。数字の連なりが瞬間だけ途切れる、あの“欠け”。井戸、炉、刻印前、そして今。私は表情を動かさず、胸の中の黒板に小さな点をひとつ足した。



 訓練場。砂は日向で色を変え、白砂の半円が穏やかな岸のように並ぶ。見学の白線の外に孤児たちと村人が静かに列を作り、黄札の補給班は影に控える。赤い札の杭には細い縄。子どもの手でも越えにくい高さに。


 アーサーが場の中央に立つ。声は低いのに、端まで届く。


「観閲に合わせるのではなく、戦いに合わせる。――歩け」


 号令はそれだけ。二列が砂の上で弾み、楯が斜めに光を返し、槍の木肌が一様に鳴る。私は外周で、旗と笛を持った子どもたちの背後に立ち、呼吸を数えた。ひとり、左端――靴紐が甘い。遅れ 0.03。私は彼の背の影に手を伸ばし、踵の重心をととのえる。恥 0.62 → 0.56、集中 0.40 → 0.45。上昇の端だけを撫でる。固定はしない。


 楯槍の入れ替えで、二番列の指が汗で滑った。滑落 0.07 → 0.09。私は台からアイザックの細い鋲を取り、革ベルトの内側に返しを一つ追加する。兵装保持 0.71 → 0.74。合図旗が一拍遅れ、隊の波が自然に飲み込まれる。アーサーは怒鳴らない。旗と沈黙で場が整う。――これが狼伯の戦い方か、と胸の奥で感嘆が鳴る。


 陽が上がるにつれ、影が短くなる。私は水桶を半間だけずらし、塩壺に木の匙を二本足した。熱負荷 0.24 → 0.20。疲れの勾配が緩む。上昇ではない、削るほうの仕事。兵たちは気づかない。気づかなくていい。


「転換、右――」


 旗が切れ、四角が崩れずに返る。砂の半円に沿って角が丸く返り、列がぶつからない。白線の外で村の男が息を呑み、子の笛が小さく震えた。士気 0.57 → 0.63。固定はしない。高鳴りは自分の胸で持って帰るのがいい。


 その瞬間だった。視界の隅で、整列の数が □ に欠けた。風はない。鳥もいない。耳の奥で金属がひと擦りだけ鳴る。私は肩の力を抜くふりで屈み、砂につけた自分の足跡の脇に爪先で小さな点を置いた。誰にも見えない、しかし確かに残る微細な印。


 白梟が唐突に言う。


「予告にない課目を追加する。負傷者搬送、二名。笛は二吹き。観閲者の導線は保て。補給班は位置を変えるな」


 場の空気がわずかに縮み、すぐ戻る。私は黄札を高く掲げ、ミナとテオに視線で合図した。彼らは影へ回り込み、桶と担架代わりの布を抱えて白線の外へ滑る。倒れ役の二人が砂に身を沈め、担い手の肩が沈む。布の端が風にめくれた瞬間、私はそれを足で押さえた。笛が二度、短く重なる。搬送時間、想定より短い。息が切れても、場は呼吸を崩さない。


 白梟は、見ている。


「もうひとつ」彼は続けた。「視察団からの“矢”を十本、合図なしに放つ。盾の表は正面、後列は半歩下げて――守れ」


 護衛が無声のまま弓を引く。空気が一度だけ鳴り、矢が砂を擦って楯に浅い音を残す。一本が白線の外に逸れ、幼い悲鳴が上がりかけた。子の笛が強すぎる。私は指を二本だけ立て、笛を一拍遅らせて二度に分けるよう示した。大きく一度揺れるより、小さく二度揺れた方が早く収まる。波が静まる。


 白梟は手を上げ、護衛の弓を止めた。目は冷たいままだが、口元に質の違う影がほんの刹那走る。それが評価か、興味か、判断は保留にする。保留 0.72。


「こちらからも見せる」

 アーサーが短く言い、旗を斜めに切った。「撤退だ」


 場が息を潜める。列がほどける。逃げず、退かず、“戻る”。楯は後ろ、槍は側、荷は中央。誰も外の目を見ない。退くときほど、目は足と隣の呼吸を見るために下げる。砂が布のように縫われ、ほどけた縫い目が次の糸口になる。


「終わりだ」


 白梟の短い言葉で、兵の肩が同時に落ちた。砂の上に影が伸び、ソフィアが塩をひと摘み落とした粥を運んでくる。私は外周を回って倒れ込む背に薄布を掛け、擦り傷に清い布を巻いていく。誰も勝利を叫ばない。ただ、息が重なっていく。重なった息は、それだけで強い。



 大広間で書面が交わされる。白梟は椅子に深くは座らず、立ったまま紙を一枚ずつ捌く。印紙が次々貼られ、封が落ち、筆の音が続く。書記官の手が追いつかない速さで、彼の指は紙の端を鳴らした。


「兵は“見せ物”ではないな」

 白梟の声は乾いていた。「見せるための軍は王都に足りている。守るための軍は、いつだって足りていない」


 アーサーは頷きもしないで応じた。

「守るために歩く。それだけだ」


 白梟の視線が私に移る。灰の目が光を拾い、こちらの重さを量ろうとする。


「導線がうまい。布も、色札も。だが、うまさだけでは人は守れない。うまさの裏に“重さ”が要る」


「重さは、ここにあります」


 私は黒板の前に歩き、写し書きの棚を示す。入退坑台帳、負傷報告、導線、補給。どれも二枚ずつ、似て非なる紙で重ねられている。


「記録は、あとで嘘をつくためにあるのではありません。いま起きていることを、いま守るためにあります。今日の導線は今日のうちに洗い、明日に変える。うまさではなく、慣れのために」


 白梟は目を細め、口元だけで笑ったように見えた。笑っていないのかもしれない。彼の笑いは、まだ見分けがつかない。


「弁明の三日前、私は王都広場にいる。事前の書付けは出す。……それまでに、お前たちの“重さ”を増やしておけ」


 外套の襟を正して踵を返す。去り際、振り返らずに一言。


「王都で、形だけの正しさが人を殺すのを見た。――辺境は、形のために死なせるな」


 アーサーの指先がわずかに動いた。握りではない、開いた手。返す言葉はない。白梟は砂と紙の匂いを薄く残して去った。背中に宿る脅威 0.47 → 0.51。味方の顔をした数値だ。覚えておく。



 夕刻。鍛冶場の火はまだ低く唸り、屋根布は橙を含んで膨らむ。私は黒板の余白に小さな点をひとつ打った。訓練場の角で聴いた“欠けた音”の印。これで四つ目――井戸、炉、刻印前、そして今日。点は線になる。線は意味になる。意味になるまで、拾い続ける。


 外に出ると、石段にアーサーが座っていた。鎧紐の端は斜めに落とし、きちんと乾いている。私は隣に腰を下ろし、靴底の砂を軽く払った。城下から子どもが読み上げる文字と笑い声が上がってくる。


「君の『息の合わせ方』は、見事だ」

 彼は横顔のまま言う。「怒鳴り声も鞭もないのに、場が揃う」


「あなたが“歩く理由”を先に置くから。見せるためではなく、守るために歩く。私は、その道に縫い目を入れるだけ」


「縫い目、か」


 彼は小さく笑った。遠い丘の稜線が薄く沈む。風が外套の裾を撫で、鍛冶場の火の匂いが少しだけ甘くなる。


「白梟は、君を見ていた」

「彼は“重さ”を見に来たのよ。形ではなく、重さを」


 短い沈黙。ソフィアの鍋が小さく鳴り、どこかで笛が一本、音を外す。


「――あの広間で、君が法を出したとき」

 アーサーの声は低い。「俺は約束した。形のために人を殺さない、と」


 私は頷くだけにした。言葉にすると軽くなる誓いがある。彼は立ち上がり、外套の砂を払う。去っていく背中を見送り、私は胸の内で小さく返事をする。(分かっている。だから一緒にやる)



 夜。灯を低くし、帳面を開く。今日の足跡を、今日のうちに残す。


・見学/補給/遮断の色札――白/黄/赤、動線の交差なし

・盾革の返し鋲追加、靴紐二重、踵補修用の短釘

・水と塩の桶を日陰へ、匙を二本追加

・笛は二度吹き、波の分割で収束

・負傷者搬送、所要短縮(予行値比)

・“揺れ”の観測(四度):井戸/炉/刻印前/訓練場の角


 羽根ペンの先が一瞬だけ重くなる。視界の端で、税収予測 1243 → 12□3 → 1243。欠けた桁はすぐに戻るのに、空白の輪郭だけが指に残った。耳の奥に金属が擦れる音。呼吸がひとつだけ乱れ、すぐ整う。――記す。逃げない。


 黒板の端に二行だけ書き足す。

「導線、再編。撤退の稽古、もう一度」

「弁明まで、残り二十二日」


 窓を開けると、夜風が粉をわずかに散らした。訓練場の砂は夜露を吸い、半円の線は薄く溶ける。明日の朝、もう一度縫い直せばいい。縫い目はほどけるためにある。ほどけるたびに、丈夫になる。


 遠くで狼が一度吠えた。灯を落とし、暗さを受け入れる。暗さは怖くない。怖いのは、見えているのに見えないふりをすることだ。今日、見えたものは今日のうちに縫い込んだ。明日、また縫い目を増やす。そうしていつか、砂の上でも、石の上でも、退くときに崩れない道を引けるように。


 数字は声に出さない。けれど、呼吸の深さも、足音の重さも、ここに残っている。私だけの紙の上に。明日への歩幅のために。

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