第八話 演習の縫い目——視察へ備える歩調
弁明まで、残り二十三日。
夜明け前の回廊は薄青く、石畳の露が足裏に冷たい。私は黒板の折れ線に今日の日付を加え、見せる順序の欄を一本入れ替えた――市場、鍛冶、学校、最後に訓練。視線を上げれば、窓外の鍛冶場に最初の火が入る。火床はまだ小さく、しかし律動は確かだ。胸の内で、連帯 0.45 → 0.46。固定はしない。今日の歩幅で伸びてほしい。
朝餉の湯気を背に、私は訓練場の端に立った。霜を抜けた土が靴底にわずかに吸い付き、遠くの丘が白んでゆく。号令一声、兵が二列で走り込んできた。古い槍、継ぎ当ての盾。装備の傷は隠せないが、目の色は昨日より揃っている。士気 0.57。疲労蓄積 0.22。規律の揺れ 0.31。
中央に立つアーサーが、顎をわずかに上げる。それだけで列の空気が締まった。
「本日の課目は三つだ。整列転換、隊列行進、楯槍の入れ替え。――合図で動け。迷うな。迷いは死だ」
声は低いのに、遠くまで通る。私は彼の後ろ一歩ぶん外れた位置に立ち、木札に目印の印を描き始めた。直角、半円、等間隔。足運びの“縫い目”を地面に縫い付けるように、白砂で薄く線を引く。見えすぎない方がいい。自分で見つける感覚を殺さない程度に。
最初の号令。列が動いた瞬間、左端の若い兵の靴紐が緩み、半歩遅れる影が生まれた。規律の揺れ 0.31 → 0.34。私は走り、彼の脛当てに膝を当てて重心を戻しながら、靴紐の結び目を二度返しに替える。
「次から二重で。ほら――」
彼の「恥」 0.62 → 0.56、同時に集中 0.40 → 0.45。上昇の端だけを、人に気づかれない角度で撫でる。固定はしない。
楯槍の入れ替えでは、盾の表革が汗で滑り、二番列の指が離れた。滑落 0.07 → 0.09。私は端の台へ駆け、アイザックが昨夜打ってくれた細い鋲を一つ手に取り、革ベルトの内側に追加の返しを作る。
「次の列から、内側にもう一つ噛ませて。――そう、そこ」
兵装保持 0.63 → 0.71。数字は素直に応える。アーサーは合図旗で一拍の遅延を作り、隊列の波を飲み込ませた。声を荒げないのに、場が自然と整う。これが「狼伯」の戦場のやり方か、と喉の奥で感嘆が鳴った。
行進の二巡目、私は水桶の位置を半間だけずらした。陽が高くなれば影は短くなる。汗の塩を戻すため、塩壺を桶の縁に固定し、木の匙を二本増やす。熱負荷 0.24 → 0.20。疲労の勾配が緩む。数字の“縁”に指を滑らせ、集中持続 0.43 → 0.46 をそっと押さえる。兵たちは気づかない。気づかせない。気づかれないように守るのが、私の戦い方だ。
「転換、右。――合図!」
旗が切り、列が返る。砂の上の白い半円に沿って、四角が崩れずに回った。場の空気が一拍だけ軽くなり、歓声が喉まで上がって、誰も声にしないまま飲み込まれる。その抑えた誇りが、私は好きだ。士気 0.57 → 0.63。
ただ、その瞬間。視界の隅で、規律の数が一瞬 □ に途切れた。すぐ戻る。風はない。鳥の影もない。耳の奥に金属が擦れる音が微かに走る。式ノイズ。私は肩の力を抜くふりをして、黒板用の小札に丸印を一つ記した。ここでも揺れる。――記録。
午前の仕舞い、私は列の最後尾を歩き、兵の踵を見て回った。靴底の剥がれかけた縫い目。古い釘が飛び出した踵。
「井戸の横に刃物の桶を置くわ。余った釘はここに。――アイザック、踵用の短い割り釘を四十ほど」
「よかろう」
返事は短いのに、火床の音が心持ち弾む。鍛冶場の火は、戦場の味方だ。私は台帳に「靴底、臨時補修」「盾革、返し鋲追加」「水と塩の桶、日影側」――見せるより先に、残す。数字が歩いた足跡は、記録に宿る。
昼。中庭の木陰、兵たちが膝を伸ばして粥をすすり、ソフィアの鍋からは香草の匂いが立つ。私は彼女に囁いた。
「今日だけ、膳に塩を一つまみ増やして。疲れを、明日まで持ち越さないために」
「分かってます」
ソフィアの笑顔は相変わらず強い。栄養 0.31 → 0.33。小さな上昇を、私は固定しない。体は自分の調子で覚える方が、明日が楽だ。
木陰の向こう、アーサーが古い鎧の紐を自分で繕っているのが見えた。狼の紋章は色が落ち、革は幾度も油を吸っている。彼の手は大きく、動きは無駄がない。私は黙って近づき、鋏を差し出した。
「端、斜めに落とすと解けにくいわ」
彼は短く礼を言い、斜めに切る。巻いた紐が、すっと馴染む。
「王都は“見栄え”で紐を長く垂らすが、こちらでは邪魔でしかない」
淡々とした声。皮肉も憤りも混じらない。しかし、その一言に重みがある。
「――だから、あの場で、私を選んだのですか」
口に出してしまってから、鼓動が一瞬早くなる。彼は手を止めずに言った。
「法の条文で自分を守り、他人に刀を向けなかった。あの広間で、それができる者は少ない」
視線は上げない。けれど確かに、言葉は私に向けられていた。
「もう一つ。君は人に見せるために怒らない。必要な場所だけに怒る。辺境はそういう者を、喉から手が出るほど欲しがる」
胸の中で、何かが静かにほどけた。信頼 0.68 → 0.70。触れない。これは、自然に育つ数字だ。
午後、私は小さな旗と笛を孤児たちに配り、記録官のミナとテオを連れて訓練場の外周に印を打っていく。白、黄、赤。白は見学の外周、黄は補給の動線、赤は訓練中立入禁止。視察の目は、危険の匂いにすぐ気づく。色で流れを分ける。
「明日の“予行”では、君たちが黄の動線を先に走るの。兵の邪魔をせず、遅れた者が一人で迷い込まないように。合図は二吹き、短く」
ミナが真剣に頷き、テオは笛を咥えて本気で練習し始める。理解 0.61 → 0.66。私は上昇の端だけを指で押さえ、過ぎないように整える。
その間、アーサーは小隊長格の古参兵と低い声でやり取りを続けていた。
「王都式の観閲は歩幅を合わせるだけで満点だ。だが、うちは戦うために歩く」
「了解。転換の後ろ三列は槍の柄を半手短く持たせます」
「いい。――“見せるための軍”は王都に任せておけ。俺たちは“守るための軍”だ」
古参兵が歯を見せて笑う。彼らの笑いはいつも短いが、骨に響く。
日が傾く。私は訓練場の端に立ち、最後の「予行」を見届けた。合図旗が三度切られ、列が角を曲がり、楯が入れ替わり、槍が光を細く返す。砂埃が橙に舞い、呼吸が一つに揃っていった。
――そのとき、まただ。整列の数が 0.70 → □ → 0.70 と刹那に欠けた。笛の音でも、風でもない。胸の内で金属音がかすれる。私は小札に、昼の印の隣へ点を足す。揺れは、訓練場でも出る。原因はまだ見えない。見えないものは、集めてから考える。
「今日のところは、よし」
アーサーの声で、兵たちの肩が同時に落ちた。土の匂いと汗の塩に、ソフィアの鍋の香りが混じる。私は兵の列の中を歩き、倒れ込む背中に薄布を投げかけ、捻った手首に湿布代わりの冷布を巻いていった。
「明日の予行は短くていい。長く見せるより、短く揃える方が強い」
私の言葉に、アーサーは短く頷いた。
夜、執務机に灯を寄せ、私は今日の記録を二重に写す。
・外周色分け導入(白=見学、黄=補給、赤=立禁)
・楯革返し鋲の追加、踵割り釘、靴紐二重結び
・水と塩の配置、日影移動の時刻表
・号令三拍、旗・笛の二系統
・“揺れ”の観測(二度):整列、転換直後
――そして、見せる順序の最終確認。市場(記録)→鍛冶(工具)→学校(読み手)→訓練(守り)。
王都の目は、飾りに弱い。だが飾りは最後にひとつだけ。飾りを通して、土台の堅さを見せる。
仕舞いかけたとき、扉が軽く鳴った。アーサーが立っている。軍装の上に薄い外套、手には紙束が一つ。
「王都からの通達だ。視察の責任者は王城軍務局の“白梟”だとさ」
白梟。冷笑で知られる観閲の鬼。脅威 0.47 → 0.52。私は紙束を受け取り、声に出して読んだ。
「時間は正午。見学は二刻以内。――“実働の妨げとならぬ範囲で”」
最後の一行を読み上げると、アーサーの口元がほんのわずか動いた。
「妨げる気満々の文言だな」
「なら、妨げられない導線にしましょう」
私は視線を上げる。「あなたは前に。私は外周で、縫い目を見ます」
しばしの沈黙。やがて彼は短く、しかし確かに言った。
「任せる」
その二音が、胸の奥で澄んだ音を立てた。信任 0.71 → 0.74。私は触れない。触れたいけれど、触れない。育つ場所を奪いたくはない。
回廊を去ろうとした彼が、ふいに振り返った。
「――あの日」
彼はそこで一度言葉を止め、視線をわずかに落とした。
「俺は、王都で“公”が人を殺すのを見た。形だけの正しさで、弱い者から順に」
声は低いのに、刃の重さがあった。
「だから、君を選んだ。法を盾にして、誰も刺さなかったから」
それだけ言うと、彼は踵を返した。残った沈黙に、遅れて熱が満ちる。私は目を閉じ、深く息を吸う。胸の内で、恐れ 0.26、覚悟 0.64。どちらにも触れない。二つは並んで歩くのがいい。
灯を落とす前、黒板の端に線を一本足した。
「視察まで――二日。弁明まで――二十三日」
数字は嘘をつかない。ならば私は、その数字で世界を縫う。
外では鍛冶場の火が小さく唸り、訓練場の砂は夜露に濡れ始めていた。明日、その露を踏んで彼らは歩く。私は外周で縫い目を見る。揺れが来ても、印は残る。記録は、消えない
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