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第三十九話 乾いた砦——三日の約束

 山の端が低く裂けて、石を積んだ砦が見えた。狼旗は色が抜けて、角が一つ欠けている。門に近づくほど、風が乾く。草のにおいより砂のにおいが強い。


 門が開く。蝶番は重いのに、鳴きが軽い。油が切れている音だ。中庭は広いが、井戸の縁に濁りが残り、倉の戸前には空になった袋が束のまま伏せてある。見張りの槍は長さが揃っておらず、胸当ての紐も伸びている。


 私は最初の挨拶の間にも、数字を拾った。食糧在庫 0.18。井戸水位 0.12。住民士気 0.46。咳の流行 0.31。――想像より深く削れている。


 代官ハロルドが出てきた。背は高いが頬が痩せ、目の下に濃い影。それでも頭の下げ方に礼が通っている。脇に娘のネラ。指先に墨の跡、目がよく動く。


「遠路を……お待ちしておりました、辺境伯様、フランチェスカ様」

「待たせた」アーサーが短く言い、砦の内外を一度で見渡す目をした。「まずは確かめる。書類と現場を両方だ」


 私はうなずき、いきなり“直す”前に“見る”順に切り替えた。



 代官所の奥の部屋。簡素な机と棚。積み上がった帳面の紐はところどころ緩んでいる。私は一番新しい月から遡り、倉の受払、徴税の控え、病の報告、修繕の申請を順に抜き出す。


「この半年で入った穀の量は?」私は控えの一枚を指で押さえる。

「前年の六割……いや、五割に落ちました」ハロルドが答える。「山側の段畑が痩せて、粉にできる分が少ない。さらに、水車が止まる日が増えて……」


 数字が紙から立ち上がる。粉の挽き量 月平均 0.41。水車稼働日数 18→11。私の視界の隅で、小さく揺れる。


「徴税は?」私は別の束を引く。記入の字が焦って細くなったところで止め、紙の端を照らす。

「王都の決めに従っております。ですが、年明けの“臨時分”を商人から求められ……」ハロルドの声がわずかに落ちる。

「掲示は?」

「ありません。……紙が、来ない」


 私は短く息をついて、紙の束を整え直す。徴税の“範囲”が人の口で伝わるだけの場所は、必ず歪む。ここはまず“見える化”が必要だ。――決めるのは後。今日は聞く。


 テオが、村ごとに病と壊れの報告が多い順に印をつけ始め、ミナが地図の上に丸を重ねる。丸は砦の裏手、森に向かう古い道の筋で濃くなる。


「祠、ありましたよね?」私はハロルドを見る。

「古い石段の上に。雨の後は、よく狼がそちらから回ります」

 狼。夜の筋。――数字の端で“恐れ 0.60”がひっかかる。



 外に出て、倉と井戸へ。


 倉の戸を開けさせ、棚の奥から順に袋の口を確かめる。麦は乾いて軽い。けれど古い袋は底が擦れて粉が漏れる。虫食いは少ないが、防虫草が切れている。倉番の老人が申し訳なさそうに帽子を握った。


「袋の口、結びがゆるいところが多い」アーサーが静かに言う。「紐は短く切るな。余りは内へ噛ませる」

 老人が数回頷き、若い者に縛り直しを教える。やり方が分かると、肩が少しだけ上がる。倉の“守り” 0.44→0.50。


 井戸。桶をおろし、引き上げる。水は薄茶。底に砂がうっすら積もる。私は濁りの目安を指で示させ、子どもでも分かる基準を口にする。


「この濁りのときは“飲まない”。これより澄んだら、煮てから“飲める”。……今夜の分は、煮てから。明日は布を煮てから濾す方法を決める」

 ネラが頷き、子どもたちの前で布を折る練習を始めた。覚えの良さが数字にも出る。理解 0.51→0.63。


 その時、井戸の石輪の影で時刻が一瞬だけ欠けた。15:2□→15:24。耳の奥で、金属がほんの少し擦れた。私は顔に出さず、胸の中の欠け帳に点をひとつ置く。古い石と水は“揺れ”を連れてくる。――今日は記すだけ。



 水車小屋は、川沿いの曲がり角にあった。車輪は斜めに傾き、落ちる水を受けきれていない。小屋の中は湿った粉の匂い。歯の一本が欠け、軸の縄が伸びている。


「誰が診ている?」アーサーが尋ねる。

「粉挽きの婆さまが。いまは咳で寝ています」若い男が答える。

「明日、婆さまに様子を見せてもらおう。その前に、俺たちの目でも一通り」とアーサー。


 ダリウスが板の角度と水の当たりを見、職人の若い衆に質問を飛ばす。「歯を替えたのはいつ」「軸に油を差したのは」「落差板の釘は足りているか」。言葉は短いが、順が良い。


 私は川面の落ち方を見て、小枝を一つだけ落差板の隙間に噛ませ、当たりの角度を微調整。回り具合 0.98→1.00。痕が残らない範囲。今日は“触らない”日と決めている。あくまで、明日以降の目安。



 日が傾く前に、外周の見回り道を歩いた。柵はところどころ倒れ、夜の焚き火は点のばらつきが大きい。猟師ヨアンが古い地図を広げ、赤い印を指で叩く。


「ここ、ここ、それからこの祠。狼はこの三つを使う。人が追い立てると、反対に回る」

「合図は?」私は聞く。

「家ごとに違います」ヨアンが苦笑した。「鍋を叩く家、鐘の家、笛の家。……揃っていない」


 私はメモをとりながら頷く。――夜の合図は、揃えれば効く。今夜は無理に変えない。家々のやり方を一度見て、明日一本にまとめる。


「鈴はある?」ダリウスが訊いた。

「倉に十。足りません」

「足りない分は明日、縄と針金で作る。低い位置に吊るす。人より先に鳴く」彼の声は平らで落ち着いている。兵の動きが少し整う。恐れ 0.60→0.56。



 戻る途中、学校に寄った。板と机はある。けれど紙が足りない。ミナが棚の奥から使いかけの薄紙を見つけ、テオが切り出して束にする。ネラが黒板の前で読み書きの唱えを始めると、子どもたちの顔が明るくなった。


「読み書き、続いてるのね」

「細々と……けれど、続けています」ネラは胸を張った。

「紙は明日、私の手持ちから回す。足りない分は、王都窓口に頼むわ」私は微笑む。「“続いている”は、いちばん強いから」



 日暮れ前。代官所の広場に人を集めた。私は壇ではなく、石段に立つ。見上げる角度を作らないためだ。背後にアーサー、脇にダリウス。前列にハロルドとネラ。ミナとテオは板と筆を持って並ぶ。ソフィアは大鍋を背後に置いている。


「まず、聞かせてください」


 私は一歩前へ出て、順に声を拾った。粉が挽けず粥が薄い家。夜の見回りで足を傷めた老人。牛が痩せて乳が出ない話。商人に“臨時だ”と上乗せを求められた争い。――人の数だけ事情があり、どの声も真剣だ。


 アーサーは遮らない。ただ、足りない情報を一言添える。「その柵はいつ倒れた」「その釘はどこから」「その道は冬に凍る」。ダリウスは“危ない筋”を拾って目で合図する。ミナは要点を短く、テオは固有名と場所を正確に。


 ひと通り回し終えたところで、私は石段の脇に立てた板を叩いた。大きな字で、三行だけ。


 やること三つ――水/粉/夜


「今すぐ直したい気持ちはあるけれど、順番を間違えると、余計に崩れます。まずは“見える”ところから。三日で“ここが変わった”を、誰の目にも分かる形にします」


 ざわめきが静かになる。私は一つずつ、言葉を重ねた。


「水。井戸の横に溜め桶を作り、布で濾して煮て飲む。明日は布を煮て配ります。布の折り方はネラが教えます」

「粉。水車は歯と軸を診て、明日、半日だけでも回す。粉が挽ければ、粥だけでなくパンが焼ける」

「夜。合図を一本に。鈴と笛を揃え、焚き火の位置と退く道を揃える。狼は追いません。追えば、こちらが崩れる」


 言うだけで終わらせない印も置く。「黒板に“できたこと三つ”を毎日貼ります。変わったことを見えるようにするために。――三日で試す、ではなく、三日で回し始める。続けられる形で」


 顔つきが少しずつ変わるのが見えた。士気 0.46→0.52。理解 0.63→0.70。私は数字に触れない。仕組みが押す分だけで十分だ。


「それからもう一つ。徴税の“範囲”は、王都の決めから外しません。『臨時』の言葉で上乗せを求められたら、がえずに代官所へ。明日、門に“範囲の紙”を貼ります。紙が来るまでの間は、私の写しで代用します」


 ハロルドが深く頭を下げた。彼の肩の緊張が、少しだけ抜ける。


 アーサーが一歩出て、短く締めた。「働いた者から温かい食事。……以上だ」


 ソフィアが笑って大鍋の蓋を上げる。湯気が立ち、塩と葱の香りが広場に広がった。



 食後、アーサーと短い打ち合わせ。彼は地図を指でたどりながら言う。


「明朝、俺は水車。歯と軸の手当てを職人にさせる。ダリウスは夜の合図。鈴を作り、位置を決める」

「私は井戸の布と溜めの順を固める。ネラに“教える言葉”を作ってもらう。ミナとテオは黒板と紙。黒板は広場、紙は各家」


「祠はどうする」ダリウスが目だけで訊いた。

「昼の下見だけ。夜は触らない」私ははっきり答える。「狼の筋と被る。慌てて崩さない」


 アーサーが短く頷いた。「三日で“見える”。そこから“続ける”。順として正しい」


 私は笑って、黒板に白い線を走らせた。


「今日見たこと――倉の結び、井戸の濁り、水車の欠け、夜の合図のばらつき」「明日やること――布を煮て配る/水車の試運転/鈴と笛の統一」


 灯を落とす前、窓を少しだけ開ける。乾いた風が頬に触れ、遠いところで金属が一瞬、擦れた。時刻 19:2□→19:24。私は何も言わず、胸の帳に小さな点を置いた。


 今夜は“変えない”。明日の朝、井戸から始める。順番が支える。支えが続ける。三日の約束は、今日の“見た”から始まる。

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