第三十八話 浅瀬の渡し——道をつなぐ
川鳴りが近づくほどに、風が冷たくなった。目の前で橋が腹から折れ、片側だけが流れに噛みついている。昨夜の増水で持っていかれたのだ。濁った水が白い泡を立て、流木が時々、横腹を打つ。
私は岸にしゃがみ、石の並びと渦の癖を追った。流速は0.62。日が天頂を越えるころ、0.58まで落ちるはず――いまは渡らない方が速い。
「半日待つのが最短よ。無理に行けば、誰かが流れる」
言うと、アーサーはためらいなく頷いた。
「待つ。円陣。警戒は二重。偵察二名、対岸を目視」
「風切、出るぞ」ダリウスが短く合図を切る。「弓は土手、槍は半月。荷は解かず、括り直しを急げ。ロープ三巻、杭八、丸太は太いものから」
風切の二人――寡黙な斥候のアルノと、軽い身のレア――が、ひと言もなく走った。一本目の杭が対岸に立ち、細い縄が水面を横切るたび、流れに線ができる。丸太が打たれ、揺れる橋脚の代わりに、手引きの渡しが形になっていく。狐火の三人(火を扱うのがうまい職人上がりの小隊)は上流側で流木を絡め取り、兵は濡れた石を擦って苔を落とす。
「ハンス、無理するな。丸太は二人で」ヤレクが若い兵の肩を叩いた。
「いけます、隊長……っ!」
言い切る前に、ハンスは足を取られ、手首で受けて尻餅をついた。私はすぐに駆け寄り、冷布で包んで圧をかける。炎症 0.99→0.97。今夜の痛みが“仕事を止めない程度”になるところまで。
「ごめんなさい、フラン様。次は気をつけます」
「謝るより、持ち方を変える。次は肩で支えて、腕で案内。頼りない石は踏まない」
「はい!」
ソフィアが小さな皮袋を差し出す。「塩水、ひと口。足が迷わないから」
正午が近づくと、川の息が目に見えて落ち着いてきた。私は浅瀬の“踏める点”に、白い小石を三つずつ置いて道を示す。流れの腹が丸く沈む箇所を選び、指で水をすくって温度と張りを確かめる。流速 0.62→0.59。表面の張りを“息継ぎ分だけ”和らげる。痕は残さない。
「順番は人、空車、荷車。間隔は三歩。止まれの合図は長笛ひとつ」ダリウスの声が短く、よく通る。「風切は先導、狐火は押し手」
「俺が最初に入る」アーサーがブーツの紐をもう一度締め、膝下まで水に踏み込んだ。足裏で石の向きを確かめ、後ろへ声を返す。「次、ここ。小さい石は踏むな。大きい面を拾え」
声が後ろへ伝言のように流れる。最初の列は飲み込みが早かったが、三人目のところで空車の車輪が流れに取られ、ぐらりと傾いた。川が低く唸る。レアが横から支え、アーサーが綱を張って引く。車輪が石に噛み直り、列に戻る。喉の奥で、押し殺した安堵が一斉に漏れた。士気 0.74→0.79。私は何もしない。自分たちで上げた士気は、自分たちが一番強く覚えている。
「テオ、通過者の番号を。ミナ、渡りきった側で札の受け取り。数を飛ばさない」
「はい、フラン様」「了解です」
最後の荷車が渡りきる前、対岸の大岩の根で、耳の奥を金属の薄い音が走り抜けた。視界の隅で時刻が一拍だけ欠ける。11:2□→11:24。顔は上げず、胸の帳に点をひとつ置く。式ノイズは水辺でも機嫌が悪い。
全員が上がった。靴を絞る音が一斉に鳴り、狐火の先頭が親指を立てる。アーサーは水を払い、短く言った。
「よくやった。進む」
その一言で、列の背が伸びた。
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林を抜けると、粗末な詰所と槍持ちが道を塞いでいた。くすんだ布きれのような旗。掲示はなし。名乗りはあいまいだ。
「通行税を納めよ」
聞き慣れた脅し文句だ。私は馬上から写しの束を掲げ、先頭へ差し出す。王都と国境領に掲げた「徴税範囲」の写し――“いつ・どこで・誰が・何を”。字は大きく、余計な飾りはない。
「掲示のない徴収は無効です。領外での徴税には王家の許しが必要。控えをお見せください」
先頭の男が口をもぐもぐさせる。ダリウスが外輪を詰め、逃げ腰になった者たちの背中に、視線で釘を刺した。相手の士気 0.48→0.33。
「こ、これは、その……臨時で……」
「名は」アーサーが一歩だけ出る。「役目は。ここで言え。言えないなら、退け」
沈黙。槍先がひとつ、ふたつと下がる。ヤレクがすばやく二名の身元を取り、最寄りの代官所への引き渡し状を書かせた。残りは散った。
「紙で勝てる相手には、紙で勝つのが一番早い」私は写しを戻しながら言う。「刃は、刃にだけ」
「その時は俺が出る」ダリウスが口角で笑う。「今日は紙の日だ」
詰所の奥、転がった木箱ひとつ。開けると、炭袋の口切れが混じっていた。指先にざらりと引っかかる繊維。王都で押さえた“海沿いの商館”の袋と似ているが、編み目が少し違う。別の倉か、別の仲買か。
「証にしまう。印は押さない。押すべき時まで」
小袋に入れて口を結ぶと、ミナが真剣な顔で頷いた。「こういうの、書き残しておくと後で『繋がる』んですよね」
「ええ。だから“今は触らない”。触るのは、繋がった後」
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赤土の村に入ると、屋根は低く、井戸は浅く濁っていた。穀倉の床は隙間だらけで、隙間風が穀の匂いを薄めてしまう。子どもたちの頬に影。
「手を分ける」アーサーが周囲を見渡す。「夜の見張りと道の確保は兵。水と穀はうち。狐火は屋根。風切は裏山の見張り台へ」
私は井戸の縁に手を置いた。水位 0.14、濁り 0.49。沈殿枡を臨時で掘る位置を決め、バケツと布を集める。
「いまは底の泥が舞ってる。まずここへ汲み上げて、一度落ち着かせる。そのあと布で濾す。三回やれば飲み水に近づく」
村の女たちが顔を見合わせた。ソフィアが横から手早く布を洗い、鍋から湯を落として消毒して見せる。「ほら、匂いが減るでしょ」
布越しの水を私が最初に飲んで、頷く。水位 0.14→0.19、濁り 0.49→0.42。数字は私の中だけで動く。代わりに、村の空気が少しだけ軽くなったのが、誰の目にも見えた。
穀倉では、床板に指一本分の隙。麻と土を練り、押し込む。石灰を薄く打てば鼠が嫌がる。ミナが白い粉で印を付け、テオが手順を書き、子どもたちが小さな手で土を押し込む。テオの指が、今日は震えない。
「ミナ、テオ、字が速くなった」私は小声で言った。
「フラン様が読みやすい言い方を覚えてくれたからです」ミナが照れて笑う。「だから手が迷わない」
「僕、間違えにくい案内の書き方、覚えました」テオが胸を張る。「矢印は大きく、言葉は短く」
「それが一番効くのよ」
土手の上で笛が鳴った。二度短く――避難の練習の合図。子どもたちが真剣な顔で笛を噛み、黄札は影へ、白は外周で立ち止まって見守る。ヤレクの号令に兵が呼吸を揃え、狐火のリーダー、ニコラが屋根の角材を打ち込む音が、村の芯を太くした。
日陰から、白い顎鬚の老人が杖を突き出てきた。
「山を越えるなら、裏道がある。昔の狼道だ」老猟師のヨアンが言う。「報酬は塩と布でいい」
「頼みたい」アーサーが素直に頭を下げる。「いつ渡るのがいい」
「薄明か朝一だな。日が高いと“目”が多い。最近、山道に見張ってる影がいる」
その言葉の裏を取りに行った風切が、間もなく戻った。
「尾が二。遠いが同じ影が尾を引く。足並みは揃ってない。寄せ集め」
「野盗の再編だろう」ダリウスが目を細める。「ここで散らす。隊列は崩すな。ひとり捕らえれば十分だ」
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夕暮れ、畑の端で藁束がひとつ燃えた。合図。兵が散らばり、風切が陰に溶け、狐火が火を扱わない方の手で素早く土を掛ける。矢が一度だけ鳴り、低い叫び。ダリウスは荒げない。
「止まれ。伏せ。――右へ回れ。いま」
短い命令が土に吸われ、五呼吸で終わった。打撲が二。捕らえたのは、やせた若者だった。皮袋の口から、昼に見た繊維がのぞく。私は布の端をつまみ、若者の目線を受け止める。
「これ、どこで受け取ったの?」
「港の……倉の仲買が。『都の連中が買う。山に混ぜて売れ』って」
「濡れ炭も?」
若者は目を伏せ、こくりと頷く。恐れ 0.60→0.65。私は触れない。かわりに淡々と書く。やりとりの場所、人数、見た印――青い波形の刻印。王都の控えと照合できる。
「代官所に引き渡す。ここで人は殺さない」アーサーが低く言う。「裁きを受けろ。逃げるな」
若者の肩が落ち、力の抜けた足が、逆に地面を踏んだ。
「……すみません」
「謝りは裁きの場で。ここでは水を飲め」
ソフィアが木椀を押しつける。若者は涙をこぼしそうになりながら、黙って飲んだ。
⸻
鍋の湯気が村に広がるころ、王都からの走りが駆け込んだ。封蝋は王家の金印。宰相オルドリックの筆で、短く、必要なことだけが書いてある――門前徴税の“上乗せ”は王命で停止、掲示は完了。王都窓口は予定どおり稼働、月次第一便は来月初頭に受け取る。共同調査の“先触れ”として、港の商館で押さえた出納帳の写しを別便で送る、と。
紙の重みが、村の夜に静かに落ちた。私は胸の奥で、記録の粒をひとつ細かくする。k_trace 1.04→1.05。
「良い知らせだ」アーサーが紙を折る。「『現場が止まらないうちに、止めるものを止めた』……宰相らしい」
「ありがたい。こっちは続ける。止めるのは“邪魔だけ”」
「その線引き、俺は好きだ」ダリウスが笑う。「明確だ」
「はいはい、言葉はあと」ソフィアが鍋を差し出す。「先に食べな。あったかいうちに」
塩と粥、刻んだ野菜、少しの油。湯気の匂いで、村の肩がいくつも下がった。子どもが木椀を抱えて目を細め、年寄りが「温い」とひと言。たったそれだけで、今日の苦労が報われる。
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夜、火を低くして地図を広げる。ダリウスが小石を三つ置いた。
「明日の脅威は三つ。地は崩落跡。人は“尾”の残り。獣は群れが移動中。――隊列は、先導に風切、二列目は軽装、荷は真ん中、殿は弓。休む刻は二度。合図は今日と同じだ」
「到着したら優先は四つ」アーサーが続ける。「夜の安全、水、食べ物、そして“すぐ稼げる仕事”。まずそこを回す」
「紙にして配る。誰が読んでも同じ順に動けるように」
私は簡単なチェック表を作り、ミナとテオに写しを頼む。狐火は屋根の補修図を描き、風切は黙って弦を整える。兵はロープを干し、笛を布で拭く。場の“癖”が、少しずつ同じ方向を向き始めた。
「フラン様」テオが遠慮がちに手を挙げた。「明日、狼道に入る前に“呼吸合わせ”を一度やりたいです。三呼吸で動くの、みんなだいぶ上手くなってきたから」
「いい提案。じゃあ出発前に広場で一回。ミナ、合図の板、作れる?」
「作れます。『三』を太く書いておきます」
「ありがとう」
少し静かになったところで、アーサーがこちらを見る。
「今日の渡し、見事だった」
「あなたが最初に踏んで、最後まで声を切らなかったから。私は点を置いただけ」
「点がなければ踏めない」
照れくさくて、私は鍋の蓋を指で弾いた。「明日の裏道はヨアンが先。あなたは“二番手”。前に出すぎないで」
「分かった。任せるために、俺たちはいる」
ダリウスが鼻で笑った。「領主様、やっと“突っ込み過ぎる癖”を自覚してきたな」
「学習した。……フランのおかげでな」
「はい?」私はわざと聞き返す。「今、何か言った?」
「何も」
三人で小さく笑った。笑いは小さいほど、長く残る。
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寝具を広げる前、荷車の軸に黒い繊維が絡んでいるのに気づいた。指でつまむと、ざらりとした編み目。昼間の箱の切れと同じ。王都で見た袋の繊維とも似ているが、少し固い。別の倉のものかもしれない。
小袋にしまい、口を固く結ぶ。印は押さない。押すべき時に、押す。
火を落とす直前、ミナとテオが寄ってきた。
「フラン様、今日の“通行税の写し”、村にも一部貼っていいですか」
「もちろん。『ここでは取らない』と分かれば、誰かが“取るふり”をしづらくなるから」
「はい」
「ソフィア、夜食は?」
「残り粥に塩。文句は受け付けない」
「最高ね」
空は近く、山の縁が黒く重なる。遠くで梟が鳴き、火は低く息をする。私は外套を引き寄せ、今日の点を胸の帳に並べた。渡れた川、退いた偽徴税、澄んだ井戸、散った尾、そして明日の裏道。点は線になる。焦らないで、増やせばいい。
眠りに落ちる手前、村はずれの岩のあたりで、金属が薄く擦れる音がひとしずく。時刻が刹那に欠ける。11:2□→11:24。式ノイズは、明日も測る。書かない。胸の中に点だけ置いて、目を閉じた。
――いい日になる。いい日になるように、準備はもう終えた。
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